飛び石 の しゅん 小説。 飛び石による傷の修理|ボンネットの補修方法や注意点を紹介

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飛び石 の しゅん 小説

執筆というのはとても 痛 いことだ。 自分の頭の中にあるものを具現させ、体現させ、それを何かしらの形に変えて世の中に生み出す。 妄想や、想像や、夢や、希望や、願いや、盲信を、 感情や、感動や、感涙や、感覚や、感謝や、感激を求めてものを作る行為。 そんなものは——あまりに痛い痛々しい。 痛くて痛くて、痛々しくて。 よもやそれを直視することもできないぐらい。 恥ずかしく、醜く、くだらなくて、馬鹿らしい。 自分の中にたまった思いをため込んで それを消化し、昇華する。 ため込んだ思いを拭き取るように、洗い流すように。 満足感と充足感に浸りながら、震えながら。 一人、ひっそりため息ついて、現世に帰る。 こんなもの——ほとんどマスターベーションだ。 ……いや、違う。 まだ自慰行為のほうが健全か。 自慰行為であれば、それはほとんど全て自己完結の世界で起こる。 自己の中だけで完結するものだ。 しかし。 しかし執筆活動は違う。 そうじゃない。 自分の抱えているものを全てさらけ出したその薄汚い何かを 書き終えた後、切実に誰かに見て欲しいと思ってしまうのが執筆なのだ。 いわば、露出狂。 自分の内面から湧き出た産物を他人に見て欲しいと願う変態。 ど変態。 それが作家で。 そんなものが執筆で。 そういうものが創作なのだ。 情勢として、状況として。 AIだかなんだか、機械たちの発達によってクリエイティビティの必要性が高まってきた最近だと、そんな創作活動における想像力の重要性を見直す論議が枚挙にいとまないけれど、しかし私に言わせれば、そんなものなど、ほとんど『アホらしい』ことである。 馬鹿らしいでもいいけれど。 まあ、ほとんど類義語か。 とにかく、さておき、そんな議論は全てどうでもいい。 誰がなんと言おうと——それこそ世界中でその重要度が上がっていようと——結局、妄想というのは第一印象として、『痛い』と受け取られる行為である。 妄想というのはそもそも『痛い』ことである。 現実を見ろ。 事実を見ろ。 目の前を見ろ。 そんな風に、そんな感じに。 圧倒的に正しい人間から、正しいところに身を置く人間から。 哀れみまじりな笑みと、ひとつまみの慈愛と嫉妬を持って、高みから。 ほとんどが冷たい無関心に彩られた色のない視線のままに。 彩の失われた光の瞳で。 ただ——考えなしに言われるのだ。 「何それ?」 と。 気にしないフリはしてきた。 聞こえないフリはもう慣れた。 笑ってごまかすことは何度したかわからない。 それで。 それで何より。 冷たい目を向ける『正しい人』へ。 私たちがする行為というのはいつも決まっていて。 いつも決まりきっていて。 わかりきっていて。 「好きだから」 なんて。 曖昧で、不確かで、不安定で。 答えにすらなっていない。 そんな無様な『答え』を、作家たちは言うのだろう。 「好きだから」 「好きにやっているだけだから」 「勝手にやっていることだから」 「本気じゃないから」 「遊びだから」 「趣味だから」 「だから——」 何も言わず、放っておいてくれよ。 もし、多少行動力がある人であれば、きっとその言葉をTwitterにでも投げるのだろう。 イエスマンしかおらず、ブロックとミュートに彩られた、なんの変哲もない安心で安全な空間へ。 「何それ」 と言う、その人にとって罪にあふれた言葉の主人を責める文と共に、 「……とても傷つきました。 私、もう小説はやめたほうがいいでしょうか?」 なんて、 そんな水に濡れた子羊の皮を被ったみっともない文章と共に。 後ろから、彼は石を投げるのだろう。 みんなと石を投げ合うのだろう。 ——誰に届いてもいない石を。 ただ、みんなで投げつけている『フリ』をするんだろう。 そして。 そこそこ『いいね』と『リツイート』 優しい傷を舐める『リプ』 それら与えられた、無感情な電子データを眺めて、一言。 「やっぱり私は正しかった」 と。 ケータイを閉じて、ホーム画面に戻って、全てを忘れるのだろう。 誰もいない中。 もう誰も聞いていない言葉を吐いて。 議論を放棄し、自責を放棄し、集団に逃げ、自分の中に隠れた羞恥と周知からの視線にすら、頑なによそ見を決め込み、まぶたを閉じて、目を閉じて、最終的には耳を塞ぐ。 自分の都合の良い世界を現実だと誤解して、それ以外をくだらない価値観だと放棄して。 ただ、自分勝手にオナニーを続ける日々に戻る。 なんとも馬鹿らしい。 アホらしい。 情けない。 あまりに情けなさすぎて、もはや反吐が出るレベル。 もういっそ、愚かと言ったほうがいいかもしれない。 それが救いになるかもしれない。 自虐になるなら——それは救いかもしれない。 執筆というのは 痛 いものなのだ。 それはアマチュアだろうとプロフェッショナルだろうと、関係ない。 痛くてダサくて、誤魔化しきれないほどに嘲笑を集めてしまうものなのだ。 じゃあ仮に。 仮の話で。 「実は俺……小説書いてるんだ!」 これを言う少年がいたとして。 原稿用紙を持って、それを言ってくる少年がいたとして。 あなたは、一体何を思うだろうか。 何を思って、そして何を言うだろうか。 彼になんと言ってやれるだろうか。 ——心の底から『すごい』 と思って ——この年でもう小説を書けるなんて。 そう思って。 そして、 物を指差し、それを手にとり 「読ませてくれる?」 なんて。 そんなことをあなたは思えたのだろうか。 言ったのだろうか。 きっと確かに、興味はあるだろう。 興味はあったし、手には取ったのだろう。 けれど、しかし。 それは本質的に『彼の小説』に興味があったのではない。 そうではなく 『まだ満足に歳を取っていない人間の見る世界が一体どんな風なのか』 に興味があっただけ。 それだけの話。 つまり。 それを手に取ったとて、『彼の小説』を読むことにはならない。 『彼の小説』は読んでいない。 それの証明として、はてさて。 ここで言う『少年』を『名前も知らない普通の人』に変えたのであればどうであろう。 あなたの興味は、一気に無くなったのでないか。 仮にもし、それでも「まだ僕は私は、『その本』とやらに興味がある!」というのであれば、じゃあぜひ私の小説一覧を読んでくれ。 今からプラウザバックをすればすぐ飛んでいけるので。 全部で大体百万字程度な、大したことない量だけど。 暇つぶしには使えると思うので。 ぜひぜひ、読んでくれたら嬉しいです。 ——と言われて、じゃあ見に行こうなんて露ほども思わなかったあなたは、つまりそう言うことなのだ。 あなたは、誰とも知らない人の『小説』を読む気がない。 そして何より、 その小説を読む読まないの以前、 自分の小説を読んで欲しいと頼み込む姿を見て。 読んでくれ、と言う私を見て。 きっと、多くの人は間違いなく心の中で顔をしかめるだろう。 「痛い」 感情で胸がいっぱいになったことだろう。 私は……事実そうなった。 自分で言いながらそう思った。 私はなんて痛いことを言っているんだ、と思った。 そして——当時母親だった私は、当時、息子だった彼の差し出す自作小説を見てこう言った。 「そんな馬鹿なことやってないで、今日の宿題はやったの?」 迷いなくそう言った。 小説を書くと言うことは、馬鹿なことなのだ。 そして、それを見て欲しいなんて言うことはとても痛いことなのだ。 人間の生存本能だろう。 妄想や想像の世界で終始生きていれば、それは確かに楽かもしれないけれど、間違いなく現実においてなんの意味もなさなない。 今がどうなのかは、残念ながら世間に疎い私の預かり知るところではないけれど、少なくとも、原始的なレベルの、マンモスを食べていた時代の人間に遡れば、想像や妄想は間違いなく意味はない。 執筆が、役立つ瞬間なんてない。 百害あっても。 一利もない。 それの名残。 残りが、 痛 いと言う感情になって、人の胸を叩くものの正体だ。 だから私たちはなんとなく。 商業作家と聞けばその痛みは治るし、「仕事で書いている」と言えば、それはなんとなく尊敬の念が湧いてくる。 反対、金ももらっていないのに小説を書いている人を見た途端、読んで欲しげにこちらを見つめる人を見た途端、リツイート企画に飛びついている人を見た途端、胸の中で湧いてくるモヤモヤや、苛立ちや、そして名前のつけられない 痛 いが、あなたの胸を押す。 そして私たちも——こう思うのだ。 「……何あれ」 と。 彼らを見て心の中で笑うのだろう。 結局、小説を書いていることを現実で公表していない人が多い理由だってそうだ。 恥ずかしいのを自覚した結果だ。 何を言われるかわからない恐怖の結果だ。 人という生き物はそういう者なのだ。 みんな——心の中で思っているのだ。 「自分は一体何をやっているのだ」 「自分はなんて馬鹿げたことをやっているのだ」 「自分はなんてふざけたことに時間を費やしているのだ」 そんな自問自答の果て、それでも突き動かすのは果たして。 承認欲求か、自己顕示欲か、金か、夢か、書籍化か、性欲か。 はたまた、『自分のファン』という名の幻想のためか。 なんであれ、その全ては痛々しいだろう。 痛々しいと、思うだろう。 これがあなただ。 そういう意味で言えば「何これ」と、そんな言葉をかけてきたあの人は正しい。 ある意味、中途半端に『納得したフリ』や『称賛するフリ』をしてくる人間より、よっぽどに正直者だ。 腹の中で嘲笑されるより、余程善人的と言える。 (まあ、本能的とも言えるわけでだから、ある意味小説を読むには適さない人ではあるのだろうけれど) 創作を書くということは、自己満足である。 作家は、自分のためにしか小説を書かない。 作家は、自分が書きたい時にしか小説を書かない。 作家は、自分の欲望の道具に小説を使っている。 作家は——自分が気持ちよくなりたいから世界を描くのだ。 誰かのために。 誰かの感動のために。 誰かの涙のために。 誰かの心に残すために。 私は僕は——小説を書いている。 という主張をする人がいるのは知っている。 ありふれて久しいことはわかっている。 しかし——結局それも個人の欲望だ。 それは作家個人の欲望だ。 作家個人の『やりたいこと』だ。 わがままで 傍若無人で 独善的で 自分勝手で 身勝手で 自己中心的で 得手勝手で 厚顔無恥で 人のことなど考えない そんな——紛れもなく汚れだらけな欲望の現れが、 小 説だ。 人のことなど考慮しない。 読者の都合など知ったことではない。 人の時間を奪うことなど考えない。 時間を奪うことなど気に求めていない。 自分の小説は世界で一番の出来なんて本気で思って思考して。 自分の世界は世界で一番輝いていて、眩しくて。 唯一で特別で。 自分の文体は、誰にも真似できない自分だけのもので、自分には才能があって。 自分の物語が、世界で一番面白い。 そんなことを平然と大真面目に心の中で思っている 自意識過剰な生き物 それが 作 家という人間だ。 挙句、そのほとんどが全力で本気だという。 もう……笑う以外ないだろう。 これが痛くなくて、なんであろう。 これが恥ずかしくて、なんであろう。 これがみっともなくて、なんであろう。 これが、作家で、これが小説で。 これが——私だ。 私は今日まで小説を書いてきた。 恥ずかしい創作活動を続けてきた。 みっともない趣味を今日までやってきた。 人に言えないことをやってきた。 胸を張れないようなことをやってきた。 文字を書くたび。 文を作るたび。 章を越えるたび。 本を見返すたび。 書店で並ぶそれらを眺めるたび。 私は思う。 やってしまったと思う。 こんな何にもならないようなことに、時間を費やしてしまったことを後悔する。 やめられないことを、本気で悔いる。 死にたい。 消えてなくなりたい。 このまま誰も知らないところでいなくなってしまいたい。 心の底からそう思う。 誰もいない片田舎に行って。 古屋をたてて。 一人、ひっそり暮らしたい。 私のことを知っている人はいなくて。 私の作品を知っている人はいなくて。 私の本を読む人はいない。 そんな世界。 という世界。 今すぐそこへ駆け付けたい。 向かいたいのが、今の私だ。 ——でも。 だけど。 それでも。 そんな片田舎。 きっと時間はたくさんあるし。 何もないのだから、ものはたくさん置けるだろうし。 机と椅子は置けるだろう。 鉛筆は作れるし、紙は床で十分だ。 人がいないのだから、寂しがり屋の私はだらかと話していることを想像しだすだろう。 話題は……そうだな。 天気のことか、世界の今後のことか、今日取れた野菜のことか、紅茶の茶葉を変えたことか。 それらを考え、想像し、妄想し、会話して。 そして……きっと私は書き留めてしまうのだろう。 忘れないように。 特別な理由もなく、ただなんとなく未来の自分へ、思いを残しておくために。 私は会話を書くのだ。 想像の会話を書くのだ。 いつしか。 それに私は登場しなくなっていて。 いつの間にか、想像の住人は三人に増えていて。 いつだったか、場所はこの古屋では無くなって。 彼ら彼女らは、この狭い世界から抜け出して。 そして、想像上の世界をかけていく。 広く、広く、広い世界にかけていく。 そして。 そうして。 いつの間にかその物語を書き終えた私は。 描き終えてしまった私は。 それが——後悔することだとわかっていても。 それが——痛々しいものであるということは知っていても。 それが——下らないものであると理解していても。 それが——この世に蔓延る中で最低最悪のことであるとはわかっていても。 それが——泥と汚れに塗れた自分の欲望に彩られた動力によって突き動かされているものであったとしても。 きっとまた。 それでもまた。 どうしてもまた。 ——読んでもらいたい。 なんて思って、 私は街に出てしまうんだ。 趣味で書いてる。 勝手にやってる。 遊び、本気、好きだから。 そんな手垢のついた嘘や詭弁はどうでもいいだろう。 私は全てを知っている。 お前の全てを知っている。 その手。 その手に握られた小説が、そんな片手間でできるものじゃないことは理解しているんだ。 締切なんて言葉を使っている時、実は得意げな顔をしてしまっているのも知っている。 設定だけを書いた作品が、何十作とあるのも知っている。 友達に作品を読んでもらっている最中のドキドキも知っている。 その後、言われた辛辣な言葉に傷ついた感情も知っている。 諦めきれずに『小説家になろう』を始めたのも知っている。 PVが伸びなくて、仕方なく『カクヨム』を初めて見たのも知っている。 いつの間にか『カクヨム』一本ということにして、ちょっとした文章が書ける人ぶっているのも知っている。 「一万字ぐらい余裕」なんて言って、レポートに苦しんでいる奴らを馬鹿にしていたのも知っている。 読書感想文を、わざと長文で提出して怒られたのも知っている。 最近本なんてろくに読んでなくて、その言い訳に「文体を変えられたくないんだ」って意味のわからない言い訳をしているのも知っている。 毎日毎日、PV数を眺めてはため息をついているだけなのも知っている。 ちょっと更新ボタンを繰り返し押してみたりするのも知っている。 応援コメントを、自分の作品見て欲しさに書いているのだって知っている。 星評価で一喜一憂を楽しんでいるのも知っている。 レビューをもらった日には、枕に顔を埋めて足をバタバタさせていたのも知っている。 それら全てを包み隠して、なんでもないように振る舞っていたことも知っている。 隠れて、コンテストに応募しているのも知っている。 あっけなく落ちたのも知っている。 内心ドキドキなのに、気にしていないフリをするのも知っている。 何回だってプラウザの更新を待っていたのも知っている。 いい年になっても小説を書いていることも、それをなかなか言い出せないことも知っている。 もう、十分にわかっている。 十分すぎるほどにわかっている。 だってそれが私なのだから。 だってそれは私なのだから。 私のことを一番知っているのは私で。 私以外いないのだから。 私は、私が、どんなに愚かなのかを知っている だから。 だから、きっとあなただって、 あなたがどんなに愚かなのかを知っているはずなのだ。 そもそも。 言い訳なんて、すでに言い飽きただろう。 言い飽きて、口癖になっただろう。 そんな、安い保険を掛けて。 何歳のつもりだ。 まだお前が、小学生ならいいけども。 もういい年だろう。 いい加減現実を見ろ。 第一、お前ごときの言い訳なんて、誰も聞いてないし覚えてないんだから。 だからそんな無駄なことは書くな。 もう、いいだろう。 もう、いい加減、自分に嘘を言いすぎただろう。 十分誤魔化しただろう。 私たちはダサい。 これ以上なくみっともない生物で。 この世に生きる生物の中で最も劣った存在で。 すぐさま自分をごまかす偽善者で。 現実が見えない精神異常者で。 面白くもない文章を、ただ——世に悪戯に垂れ流すだけの機械。 どうしようもないぐらい手遅れで、情けなくて、ゴミのように生きている価値のない、悪戯に二酸化炭素を消費するだけの迷惑物。 そんな事実を直視しよう。 そんな自分を客観しよう。 悲観的なまでに悲観的になろう。 そして、 そうまでして。 それほどまでして、自分の中に巣食う欲望を直視してまでして。 散々嫌気がさして。 馬鹿らしくなって。 全てがどうでも良くなって。 「けれど」 「それでも」 「だけれども」 俺は 小 説 を 書 き た い なんて。 そんな言葉が心の淵から蘇ってきたあなたの小説を、 私はぜひ、読んでみたい。 そんな小説を私も書きたいと、思うのです。 ですのでぜひぜひ——こんな愚かな私めに、あなたの自信作、見せてくださいな。 ——以上。 長くなりましたが——これで『私が小説を書く理由』を終わりにします。 聞き苦しい中の御清聴、どうもありがとうございました。

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【しゅん】と読む漢字一覧表

飛び石 の しゅん 小説

あらすじ [ ] 王朝の の都。 ある春の日の日暮れ、西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。 彼は金持ちの息子だったが、親の遺産で遊び暮らして散財し、今は乞食同然になっていた。 そんな彼を哀れんだ片眼眇(すがめ、)の不思議な老人が、「この場所を掘る様に」と杜子春に言い含める。 その場所からは荷車一輌分の黄金が掘り出され、たちまち杜子春は大富豪になる。 しかし財産を浪費するうちに、3年後には一文無しになってしまうが、杜子春はまた西門の下で老人に出会っては黄金を掘り出し、再び大金持ちになっても遊び暮らして蕩尽する。 3度目、西門の下に来た杜子春の心境には変化があった。 金持ちの自分は周囲からちやほやされるが、一文無しになれば手を返したように冷たくあしらわれる。 人間というものに愛想を尽かした杜子春は老人がであることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。 そこで老人は自分が鉄冠子 という仙人であることを明かし、自分の住むというへ連れて行く。 峨眉山の頂上に一人残された杜子春は試練を受ける。 鉄冠子が帰ってくるまで、何があっても口をきいてはならないというのだ。 虎や大蛇に襲われても、彼の姿を怪しんだ神に突き殺されても、地獄に落ちて責め苦を加えられても、杜子春は一言も発しなかった。 怒ったは、に落ちた杜子春の両親を連れて来させると、彼の前で鬼たちにめった打ちにさせる。 無言を貫いていた杜子春だったが、苦しみながらも杜子春を思う母親の心を知り、耐え切れずに「お母さん」と一声叫んでしまった。 叫ぶと同時に杜子春は現実に戻される。 洛陽の門の下、春の日暮れ、すべては仙人が見せていた幻だった。 これからは人間らしい暮らしをすると言う杜子春に、仙人はの麓にある一軒の家と畑を与えて去っていった。 原拠との相違点 [ ] 原拠とされる『杜子春』では、杜子春は地獄に落ちた後、女に生まれ変わって誕生するが、やはり全く物を言わず、結婚して子を産んでも喜びの声一つ発しなかったため、怒った夫が赤ん坊を叩き殺し、そこで妻(杜子春)が悲鳴を上げたところで現実に戻り、仙人は声を出さなかったら仙薬ができ仙人になれたのに、と言って突き放す。 芥川は、親が地獄の責め苦を受ける場面に変えて、「あの時もし声を出さなかったら、お前を殺していた」と仙人に言わせ、児童向けの内容にしている。 西岡晴彦 は、日本の中国文学研究者は幼児期に芥川作品を読んだことの影響で、原拠小説に接したときに解釈にある種の歪みをもたらしてはいないか、と提起している。 テレビアニメ [ ] 赤い鳥のこころ [ ] 1979年、系列で放送されていた『』第24話(1979年7月16日放送分)で映像化された。 まんがこども文庫 [ ] 1978年10月からで放送されていた『』()の第27話(1979年4月13日放送分)で取り上げられた。 同番組はそれまで2本の作品を放送するスタイルを採っていたが、本作で初めて1本の作品を30分通して放送した。 スペシャルアニメ [ ] 杜子春 アニメ 原作 芥川龍之介 監督 脚本 音楽 製作 、 放送局 放送期間 1981年4月12日 - 話数 全1話 - プロジェクト ポータル 、 上記『まんがこども文庫』での放送から2年後の1981年4月12日(日曜) 19:30 - 20:55 ()に、同じくTBS系列局で放送。 全1話。 とが共同製作した作品で、この2社は当時同系列局で放送されていた『』でもタッグを組んでいた。 脚本担当には『』でブレイクする前のを 、監督には映画監督のを 、そしてキャラクター設定担当と作画監督には(現・)作品を手がけたを起用していた。 声の出演 [ ]• りふくげん、中国~の人とされるが不詳。 李復言は鄭還古だという説があるが、は論外としている。 (唐宋伝奇集 下 『13 杜子春』の訳注 1988年 岩波文庫 p. 265 )。 ぎゅう そうじゅ、779年-847年、代の政治家。 『玄怪録』の撰者とみなされている。 中国語版に本記事に関連した原文があります:• かわにししんぞう、詳細不明だが文面からすると教職者か?• 「あの詩は唐の蒲州永楽の人、呂巌、字は洞賓と申す仙人の作に有之候。 年少の生徒には字義などを御説明に及ばざる乎。 なほなほ又あの中の鉄冠子と申すのは三国時代の左慈と申す仙人の道号に有之候。 三国時代には候へども、何しろ長生不死の仙人故、唐代に出没致すも差支へなかるべく候。 呂洞賓や左慈の事はいろいろの本に有之候へども、現代の本にては東海林辰三郎氏著の支那仙人列伝を御らんになればよろしく候。 」(『芥川龍之介全集』第11巻 書簡 2 岩波書店 1978年 p. 497)• という説もあるが、典拠不明。 初出の『赤い鳥』掲載版(1920年)ではとなっており、原拠と同じ。 翌年刊の短編集『夜来の花』以降の版から洛陽となる。 《芥川龍之介全集 第4巻 1977年 後記》• 芥川は河西信三宛書簡での道号であると説明しているが、小説『』第68回に登場する左慈の道号は烏角(うかく)先生である。 この食い違いについては成瀬哲生(なるせてつお、1949-、教授)が紀要論文『芥川龍之介の「杜子春」:鉄冠子七絶考』徳島大学国語国文學 2, 20-29, 1989-03-31 で一説を提起している。 にしおかはるひこ、1932年生、元信州大学人文学部教授。 西岡晴彦『杜子春伝=その虚像と実像=』《筑波大学 漢文学会会報 42, 25-38, 1984》 p. 2017年3月24日閲覧。 外部リンク [ ]• 『』 -.

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杜子春

飛び石 の しゅん 小説

執筆というのはとても 痛 いことだ。 自分の頭の中にあるものを具現させ、体現させ、それを何かしらの形に変えて世の中に生み出す。 妄想や、想像や、夢や、希望や、願いや、盲信を、 感情や、感動や、感涙や、感覚や、感謝や、感激を求めてものを作る行為。 そんなものは——あまりに痛い痛々しい。 痛くて痛くて、痛々しくて。 よもやそれを直視することもできないぐらい。 恥ずかしく、醜く、くだらなくて、馬鹿らしい。 自分の中にたまった思いをため込んで それを消化し、昇華する。 ため込んだ思いを拭き取るように、洗い流すように。 満足感と充足感に浸りながら、震えながら。 一人、ひっそりため息ついて、現世に帰る。 こんなもの——ほとんどマスターベーションだ。 ……いや、違う。 まだ自慰行為のほうが健全か。 自慰行為であれば、それはほとんど全て自己完結の世界で起こる。 自己の中だけで完結するものだ。 しかし。 しかし執筆活動は違う。 そうじゃない。 自分の抱えているものを全てさらけ出したその薄汚い何かを 書き終えた後、切実に誰かに見て欲しいと思ってしまうのが執筆なのだ。 いわば、露出狂。 自分の内面から湧き出た産物を他人に見て欲しいと願う変態。 ど変態。 それが作家で。 そんなものが執筆で。 そういうものが創作なのだ。 情勢として、状況として。 AIだかなんだか、機械たちの発達によってクリエイティビティの必要性が高まってきた最近だと、そんな創作活動における想像力の重要性を見直す論議が枚挙にいとまないけれど、しかし私に言わせれば、そんなものなど、ほとんど『アホらしい』ことである。 馬鹿らしいでもいいけれど。 まあ、ほとんど類義語か。 とにかく、さておき、そんな議論は全てどうでもいい。 誰がなんと言おうと——それこそ世界中でその重要度が上がっていようと——結局、妄想というのは第一印象として、『痛い』と受け取られる行為である。 妄想というのはそもそも『痛い』ことである。 現実を見ろ。 事実を見ろ。 目の前を見ろ。 そんな風に、そんな感じに。 圧倒的に正しい人間から、正しいところに身を置く人間から。 哀れみまじりな笑みと、ひとつまみの慈愛と嫉妬を持って、高みから。 ほとんどが冷たい無関心に彩られた色のない視線のままに。 彩の失われた光の瞳で。 ただ——考えなしに言われるのだ。 「何それ?」 と。 気にしないフリはしてきた。 聞こえないフリはもう慣れた。 笑ってごまかすことは何度したかわからない。 それで。 それで何より。 冷たい目を向ける『正しい人』へ。 私たちがする行為というのはいつも決まっていて。 いつも決まりきっていて。 わかりきっていて。 「好きだから」 なんて。 曖昧で、不確かで、不安定で。 答えにすらなっていない。 そんな無様な『答え』を、作家たちは言うのだろう。 「好きだから」 「好きにやっているだけだから」 「勝手にやっていることだから」 「本気じゃないから」 「遊びだから」 「趣味だから」 「だから——」 何も言わず、放っておいてくれよ。 もし、多少行動力がある人であれば、きっとその言葉をTwitterにでも投げるのだろう。 イエスマンしかおらず、ブロックとミュートに彩られた、なんの変哲もない安心で安全な空間へ。 「何それ」 と言う、その人にとって罪にあふれた言葉の主人を責める文と共に、 「……とても傷つきました。 私、もう小説はやめたほうがいいでしょうか?」 なんて、 そんな水に濡れた子羊の皮を被ったみっともない文章と共に。 後ろから、彼は石を投げるのだろう。 みんなと石を投げ合うのだろう。 ——誰に届いてもいない石を。 ただ、みんなで投げつけている『フリ』をするんだろう。 そして。 そこそこ『いいね』と『リツイート』 優しい傷を舐める『リプ』 それら与えられた、無感情な電子データを眺めて、一言。 「やっぱり私は正しかった」 と。 ケータイを閉じて、ホーム画面に戻って、全てを忘れるのだろう。 誰もいない中。 もう誰も聞いていない言葉を吐いて。 議論を放棄し、自責を放棄し、集団に逃げ、自分の中に隠れた羞恥と周知からの視線にすら、頑なによそ見を決め込み、まぶたを閉じて、目を閉じて、最終的には耳を塞ぐ。 自分の都合の良い世界を現実だと誤解して、それ以外をくだらない価値観だと放棄して。 ただ、自分勝手にオナニーを続ける日々に戻る。 なんとも馬鹿らしい。 アホらしい。 情けない。 あまりに情けなさすぎて、もはや反吐が出るレベル。 もういっそ、愚かと言ったほうがいいかもしれない。 それが救いになるかもしれない。 自虐になるなら——それは救いかもしれない。 執筆というのは 痛 いものなのだ。 それはアマチュアだろうとプロフェッショナルだろうと、関係ない。 痛くてダサくて、誤魔化しきれないほどに嘲笑を集めてしまうものなのだ。 じゃあ仮に。 仮の話で。 「実は俺……小説書いてるんだ!」 これを言う少年がいたとして。 原稿用紙を持って、それを言ってくる少年がいたとして。 あなたは、一体何を思うだろうか。 何を思って、そして何を言うだろうか。 彼になんと言ってやれるだろうか。 ——心の底から『すごい』 と思って ——この年でもう小説を書けるなんて。 そう思って。 そして、 物を指差し、それを手にとり 「読ませてくれる?」 なんて。 そんなことをあなたは思えたのだろうか。 言ったのだろうか。 きっと確かに、興味はあるだろう。 興味はあったし、手には取ったのだろう。 けれど、しかし。 それは本質的に『彼の小説』に興味があったのではない。 そうではなく 『まだ満足に歳を取っていない人間の見る世界が一体どんな風なのか』 に興味があっただけ。 それだけの話。 つまり。 それを手に取ったとて、『彼の小説』を読むことにはならない。 『彼の小説』は読んでいない。 それの証明として、はてさて。 ここで言う『少年』を『名前も知らない普通の人』に変えたのであればどうであろう。 あなたの興味は、一気に無くなったのでないか。 仮にもし、それでも「まだ僕は私は、『その本』とやらに興味がある!」というのであれば、じゃあぜひ私の小説一覧を読んでくれ。 今からプラウザバックをすればすぐ飛んでいけるので。 全部で大体百万字程度な、大したことない量だけど。 暇つぶしには使えると思うので。 ぜひぜひ、読んでくれたら嬉しいです。 ——と言われて、じゃあ見に行こうなんて露ほども思わなかったあなたは、つまりそう言うことなのだ。 あなたは、誰とも知らない人の『小説』を読む気がない。 そして何より、 その小説を読む読まないの以前、 自分の小説を読んで欲しいと頼み込む姿を見て。 読んでくれ、と言う私を見て。 きっと、多くの人は間違いなく心の中で顔をしかめるだろう。 「痛い」 感情で胸がいっぱいになったことだろう。 私は……事実そうなった。 自分で言いながらそう思った。 私はなんて痛いことを言っているんだ、と思った。 そして——当時母親だった私は、当時、息子だった彼の差し出す自作小説を見てこう言った。 「そんな馬鹿なことやってないで、今日の宿題はやったの?」 迷いなくそう言った。 小説を書くと言うことは、馬鹿なことなのだ。 そして、それを見て欲しいなんて言うことはとても痛いことなのだ。 人間の生存本能だろう。 妄想や想像の世界で終始生きていれば、それは確かに楽かもしれないけれど、間違いなく現実においてなんの意味もなさなない。 今がどうなのかは、残念ながら世間に疎い私の預かり知るところではないけれど、少なくとも、原始的なレベルの、マンモスを食べていた時代の人間に遡れば、想像や妄想は間違いなく意味はない。 執筆が、役立つ瞬間なんてない。 百害あっても。 一利もない。 それの名残。 残りが、 痛 いと言う感情になって、人の胸を叩くものの正体だ。 だから私たちはなんとなく。 商業作家と聞けばその痛みは治るし、「仕事で書いている」と言えば、それはなんとなく尊敬の念が湧いてくる。 反対、金ももらっていないのに小説を書いている人を見た途端、読んで欲しげにこちらを見つめる人を見た途端、リツイート企画に飛びついている人を見た途端、胸の中で湧いてくるモヤモヤや、苛立ちや、そして名前のつけられない 痛 いが、あなたの胸を押す。 そして私たちも——こう思うのだ。 「……何あれ」 と。 彼らを見て心の中で笑うのだろう。 結局、小説を書いていることを現実で公表していない人が多い理由だってそうだ。 恥ずかしいのを自覚した結果だ。 何を言われるかわからない恐怖の結果だ。 人という生き物はそういう者なのだ。 みんな——心の中で思っているのだ。 「自分は一体何をやっているのだ」 「自分はなんて馬鹿げたことをやっているのだ」 「自分はなんてふざけたことに時間を費やしているのだ」 そんな自問自答の果て、それでも突き動かすのは果たして。 承認欲求か、自己顕示欲か、金か、夢か、書籍化か、性欲か。 はたまた、『自分のファン』という名の幻想のためか。 なんであれ、その全ては痛々しいだろう。 痛々しいと、思うだろう。 これがあなただ。 そういう意味で言えば「何これ」と、そんな言葉をかけてきたあの人は正しい。 ある意味、中途半端に『納得したフリ』や『称賛するフリ』をしてくる人間より、よっぽどに正直者だ。 腹の中で嘲笑されるより、余程善人的と言える。 (まあ、本能的とも言えるわけでだから、ある意味小説を読むには適さない人ではあるのだろうけれど) 創作を書くということは、自己満足である。 作家は、自分のためにしか小説を書かない。 作家は、自分が書きたい時にしか小説を書かない。 作家は、自分の欲望の道具に小説を使っている。 作家は——自分が気持ちよくなりたいから世界を描くのだ。 誰かのために。 誰かの感動のために。 誰かの涙のために。 誰かの心に残すために。 私は僕は——小説を書いている。 という主張をする人がいるのは知っている。 ありふれて久しいことはわかっている。 しかし——結局それも個人の欲望だ。 それは作家個人の欲望だ。 作家個人の『やりたいこと』だ。 わがままで 傍若無人で 独善的で 自分勝手で 身勝手で 自己中心的で 得手勝手で 厚顔無恥で 人のことなど考えない そんな——紛れもなく汚れだらけな欲望の現れが、 小 説だ。 人のことなど考慮しない。 読者の都合など知ったことではない。 人の時間を奪うことなど考えない。 時間を奪うことなど気に求めていない。 自分の小説は世界で一番の出来なんて本気で思って思考して。 自分の世界は世界で一番輝いていて、眩しくて。 唯一で特別で。 自分の文体は、誰にも真似できない自分だけのもので、自分には才能があって。 自分の物語が、世界で一番面白い。 そんなことを平然と大真面目に心の中で思っている 自意識過剰な生き物 それが 作 家という人間だ。 挙句、そのほとんどが全力で本気だという。 もう……笑う以外ないだろう。 これが痛くなくて、なんであろう。 これが恥ずかしくて、なんであろう。 これがみっともなくて、なんであろう。 これが、作家で、これが小説で。 これが——私だ。 私は今日まで小説を書いてきた。 恥ずかしい創作活動を続けてきた。 みっともない趣味を今日までやってきた。 人に言えないことをやってきた。 胸を張れないようなことをやってきた。 文字を書くたび。 文を作るたび。 章を越えるたび。 本を見返すたび。 書店で並ぶそれらを眺めるたび。 私は思う。 やってしまったと思う。 こんな何にもならないようなことに、時間を費やしてしまったことを後悔する。 やめられないことを、本気で悔いる。 死にたい。 消えてなくなりたい。 このまま誰も知らないところでいなくなってしまいたい。 心の底からそう思う。 誰もいない片田舎に行って。 古屋をたてて。 一人、ひっそり暮らしたい。 私のことを知っている人はいなくて。 私の作品を知っている人はいなくて。 私の本を読む人はいない。 そんな世界。 という世界。 今すぐそこへ駆け付けたい。 向かいたいのが、今の私だ。 ——でも。 だけど。 それでも。 そんな片田舎。 きっと時間はたくさんあるし。 何もないのだから、ものはたくさん置けるだろうし。 机と椅子は置けるだろう。 鉛筆は作れるし、紙は床で十分だ。 人がいないのだから、寂しがり屋の私はだらかと話していることを想像しだすだろう。 話題は……そうだな。 天気のことか、世界の今後のことか、今日取れた野菜のことか、紅茶の茶葉を変えたことか。 それらを考え、想像し、妄想し、会話して。 そして……きっと私は書き留めてしまうのだろう。 忘れないように。 特別な理由もなく、ただなんとなく未来の自分へ、思いを残しておくために。 私は会話を書くのだ。 想像の会話を書くのだ。 いつしか。 それに私は登場しなくなっていて。 いつの間にか、想像の住人は三人に増えていて。 いつだったか、場所はこの古屋では無くなって。 彼ら彼女らは、この狭い世界から抜け出して。 そして、想像上の世界をかけていく。 広く、広く、広い世界にかけていく。 そして。 そうして。 いつの間にかその物語を書き終えた私は。 描き終えてしまった私は。 それが——後悔することだとわかっていても。 それが——痛々しいものであるということは知っていても。 それが——下らないものであると理解していても。 それが——この世に蔓延る中で最低最悪のことであるとはわかっていても。 それが——泥と汚れに塗れた自分の欲望に彩られた動力によって突き動かされているものであったとしても。 きっとまた。 それでもまた。 どうしてもまた。 ——読んでもらいたい。 なんて思って、 私は街に出てしまうんだ。 趣味で書いてる。 勝手にやってる。 遊び、本気、好きだから。 そんな手垢のついた嘘や詭弁はどうでもいいだろう。 私は全てを知っている。 お前の全てを知っている。 その手。 その手に握られた小説が、そんな片手間でできるものじゃないことは理解しているんだ。 締切なんて言葉を使っている時、実は得意げな顔をしてしまっているのも知っている。 設定だけを書いた作品が、何十作とあるのも知っている。 友達に作品を読んでもらっている最中のドキドキも知っている。 その後、言われた辛辣な言葉に傷ついた感情も知っている。 諦めきれずに『小説家になろう』を始めたのも知っている。 PVが伸びなくて、仕方なく『カクヨム』を初めて見たのも知っている。 いつの間にか『カクヨム』一本ということにして、ちょっとした文章が書ける人ぶっているのも知っている。 「一万字ぐらい余裕」なんて言って、レポートに苦しんでいる奴らを馬鹿にしていたのも知っている。 読書感想文を、わざと長文で提出して怒られたのも知っている。 最近本なんてろくに読んでなくて、その言い訳に「文体を変えられたくないんだ」って意味のわからない言い訳をしているのも知っている。 毎日毎日、PV数を眺めてはため息をついているだけなのも知っている。 ちょっと更新ボタンを繰り返し押してみたりするのも知っている。 応援コメントを、自分の作品見て欲しさに書いているのだって知っている。 星評価で一喜一憂を楽しんでいるのも知っている。 レビューをもらった日には、枕に顔を埋めて足をバタバタさせていたのも知っている。 それら全てを包み隠して、なんでもないように振る舞っていたことも知っている。 隠れて、コンテストに応募しているのも知っている。 あっけなく落ちたのも知っている。 内心ドキドキなのに、気にしていないフリをするのも知っている。 何回だってプラウザの更新を待っていたのも知っている。 いい年になっても小説を書いていることも、それをなかなか言い出せないことも知っている。 もう、十分にわかっている。 十分すぎるほどにわかっている。 だってそれが私なのだから。 だってそれは私なのだから。 私のことを一番知っているのは私で。 私以外いないのだから。 私は、私が、どんなに愚かなのかを知っている だから。 だから、きっとあなただって、 あなたがどんなに愚かなのかを知っているはずなのだ。 そもそも。 言い訳なんて、すでに言い飽きただろう。 言い飽きて、口癖になっただろう。 そんな、安い保険を掛けて。 何歳のつもりだ。 まだお前が、小学生ならいいけども。 もういい年だろう。 いい加減現実を見ろ。 第一、お前ごときの言い訳なんて、誰も聞いてないし覚えてないんだから。 だからそんな無駄なことは書くな。 もう、いいだろう。 もう、いい加減、自分に嘘を言いすぎただろう。 十分誤魔化しただろう。 私たちはダサい。 これ以上なくみっともない生物で。 この世に生きる生物の中で最も劣った存在で。 すぐさま自分をごまかす偽善者で。 現実が見えない精神異常者で。 面白くもない文章を、ただ——世に悪戯に垂れ流すだけの機械。 どうしようもないぐらい手遅れで、情けなくて、ゴミのように生きている価値のない、悪戯に二酸化炭素を消費するだけの迷惑物。 そんな事実を直視しよう。 そんな自分を客観しよう。 悲観的なまでに悲観的になろう。 そして、 そうまでして。 それほどまでして、自分の中に巣食う欲望を直視してまでして。 散々嫌気がさして。 馬鹿らしくなって。 全てがどうでも良くなって。 「けれど」 「それでも」 「だけれども」 俺は 小 説 を 書 き た い なんて。 そんな言葉が心の淵から蘇ってきたあなたの小説を、 私はぜひ、読んでみたい。 そんな小説を私も書きたいと、思うのです。 ですのでぜひぜひ——こんな愚かな私めに、あなたの自信作、見せてくださいな。 ——以上。 長くなりましたが——これで『私が小説を書く理由』を終わりにします。 聞き苦しい中の御清聴、どうもありがとうございました。

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