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アオシマヒサカズのブログ

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はじめまして、理系大学生ブロガーの「かず」です。 まずは、私のことを箇条書きで紹介したいと思います。 現在は地方生まれ地方育ちの理系大学生 読書好き。 どの分野でも読む。 アイスホッケー選手。 ブロガー。 ミニマリスト。 座右の銘は 「人間は考える葦である」 しゃべるときはよくしゃべる。 楽観的で気分屋。 おかげで行動力は高いがやっぱりやめることもある。 一人の時間が必要。 自部の部屋が一番落ち着く。 思考が好き。 たまに黙想する。 人混み、大きな音が苦手。 よってホラー系も無理。 いろんなことに手を出すけどすぐ飽きる。 ハマると長く続く。 大型の動物は苦手。 基本的にこんな感じです。 変化があれば修正したり追記したりします。 少しこのブログを始めた経緯もお話します 今までは大学生らしい大学生活を送っていました。 しかし、普段の生活は何か物足りないし、専門の講義を受けるうちにやりたかったこととは違うなと思うようになりました。 このまま、卒業して就職するのはつまらないと感じるようになりました。 せめて、卒業する前になにか刺激になるようなことができないかと思って、大学生のうちにやっておくべきことみたいな感じのキーワードで検索しまくりました。 そんな時、ブログを見つけました。 ブログを書いている人のプロフィールや活動を見ていると目的をもって生きているなと感じました。 私もこんな生き方をしたい。 これは挑戦するしかないと判断しました。 実は昔に無料ブログを開設したことがありました。 結果は、記事を書くことなく断念したことがありました。 今度は本気でやってみようと決断してwordpressでブログをはじめました。 経緯は以上です。 このブログでは今までに私が経験したこと、考えたこと、発見したことを発信していきたいと思っています。 基本的には雑記ブログのような形でジャンルにこだわらず記事にしていきます。

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本当のスローライフとは 1月の後半から間もなく半年、今回のコロナ騒ぎはたくさんの教訓を残しました。 リーダーたる方々の判断にその方の資質を見る気がします。 「判断は生命か、金か、再選か」 経済も社会的命と考えれば大切は大切ですが、人の命はやはり最優先であるべきです。 自分の人気とか、選挙のことしか頭にないリーダーを持った国民は東西を問わず不幸です。 長い自粛生活の中、次第に自分のリズムができてきた気がします。 テレワークもそれなりに新しい生活様式といえます。 「朝目覚め味と匂いをまずチェック」 してから 子供のころの夏休みのように、朝のラジオ体操に始まり、不要不急と言われればそれまでですが、人の出の少ないうちの散歩は体力維持のために必須です。 自分の家を中心に東西南北、普段知らない場所が結構あるものだと知りました。 たまたま私が住んでいる地域には、公園や寺なども多く、毎日のようにそれらを目標に歩き回りました。 「全国民クルーズ船で漂流す」 みたいな不安の日々でしたね。 6月になって急に経済の再建に舵がとられ、あっという間に元の生活ペースになりつつありますが、PCRの検査体制がどうも不明です。 「Go To キャンペーン」が叫ばれるかと思えば、 「 不要不急の他県への移動の自粛」が 呼びかけられるなど、まるパフォーマンスとパフォーマンスの間で個人の判断力が問われています。 政治家の虚な言葉に支配 されたくありませんが、これからどのように推移していくのか、何を信じたらよいのか五里霧中です。 「怖いのはコロナじゃないよココロだよ」 個人的には、 10年以上、細々続けてきたスイミングで新境地を会得しました。 それは突然やってきました。 6 月から再開したスイミング、週3、4日、 毎回1000mが日課となりました。 一般の速度 に比べるとおそろしく遅いペースですが、今の僕にはこの30分強のペース がちょうどよく、軽いジョギング並みなのですが快適です。 まさに スローライフというべきか。 前にも書きましたが、100害はあるなか1利はあったというところです。 振り返ると、コロナで命を落とされた方のこと、改めて心痛みます。 今後どのような推移たどるのかわかりませんし、元の生活様式に戻れるかどうかもわかりません。 ただただ 「ありがとう言い残したい人が増え」 といったスローライフを実感する今日この頃です。 間もなく梅雨です まだまだ油断できませんが、新型コロナも少し落ち着いてきました。 自粛生活からかつての日常生活が戻りつつありますが、ややぺース取り戻すのに躊躇 あります。 身体が忘れているというか。 意識して行動しなければなりませんね。 写真は友人から送られてきた多摩センターのグリーンガーデンで咲き出した「トケイソウ」の花です。 自然は完全で美しいとつくづく思います。 説明によると『花をよく見るとキリストが磔になったような手足の位置』になっているとか。 仕事はわずかなデスクワークしかないので、一日7000歩前後の散歩と週数回の10年以上続けているスイミング(家内はトドの水遊びといっていますが)、そしてKindleでの読書など、感謝しつつ生きています。 村上春樹の短編 「 猫を捨てるー父親について語るとき」を読み、 まさに同世代の時代感覚、家族感覚を共感しました。 時節柄、カミュの「ペスト」も読み始めています。 百害あったが一利もあった 今年突然世界を席巻した 新型コロナウイルス( COVID-19) 、14世紀のペスト大流行、100年前のスペイン風邪、そして近くは2002年に流行したSARSなど、歴史をたどれば正に人類は感染症との戦いでもあっただが、のど元過ぎれば熱さを忘れるのことわざ通り、私たちはコロナ蔓延に際してさまざまな反応をとった。 世界のリーダたちも、当初大したことはないと高を括るものもいれば、国民の安全と経済や自分の再選を天秤にかけて右往左往するもの、科学的根拠を一途に信じて突き進むものなどさまざまであった。 国内にあっても、もしも自分が知事という立場ならどうするのだろうかなどと人間の判断の難しさを日々感じさせられた。 そうしたなか、臆面もなく自分勝手な行動をとる人たちもいれば、多くの方々は日本人らしい自粛の生活を送ったと思う。 ただ、そうしたなかで十分な手順、手立てを講じる間もなく命を落とされた方々もいた。 女優岡江久美子さんの死は、臨終にも、火葬にも立ち会えなかったご家族のことを考えるととても他人事とは思えなかった。 ひとことの別れも告げずに行く無念 この句は、私から岡江さんとご家族に送る句です。 確かに百害はあったと思います。 そうした自粛生活の中で自分の残り少ない人生をさまざまに考える時間があったこと、家族や友人を違った目で見ることができたことなどはそうしたなかでのわずかな一利であったと思います。 改めて歴史に学ぶことの大切さと、そうしたことに無頓着な政治家を持つ国民の不幸を改めて感じた次第です。 RTI をめぐって 年末、NYから帰ってきた教え子が、米国でのRTI Response to Instru ction の現状について話してくれました。 米国はそれぞれの州でいろいろな考え方のある国であることをあらためて考えさせられました。 RTIはLDの判定において、認知テストと学力テストの差異(ディスクレパンシー)によるこれまでの方法に対し、テストをする前に、教師が有効だと思う指導法を実践しその成果を客観的に分析し有効かどうかを見極めていく方法として法律的にも認められてきました。 その段階は3つありTier1から3まで構造化されています。 これらの方法が子供たちにとってどのように有効かが教育界でも大きな話題になっているのです。 さてそのお話の一部ですが 「NY州では2014年頃から4年生以下の生徒の LD診断には RTIが必須になりましたが、5年生以上は RTIをとばして既存の Discrepancy Modelですぐに診断して良いことになっています。 それぐらいの年になると、学習の遅れがすでに顕著なためだと考えられます(4年生以下は、 RTIの後、 Discrepancy Modelを使用して LDの確定診断をします)。 RTIも15年ほどたち、ようやくその短所も明らかになってきた感があります。 」 もっといろいろな情報が知りたいところです。 特別支援教育のこれから 長い準備・試行期間を経ての2007年の特別支援教育への移行以来、障害と健常を二分する理念の転換。 具体的支援システムの充実は目をみはるばかりです。 たださらにこれからの展開を考えますと単なる充実への加速だけではなく、おかしな方向性も目につきます。 杞憂でなければよいのですが。 例えば、通常の学級に在籍する児童生徒に対する支援システム「通級による指導」の発展の中で、自立活動を強調するためなのか、 単なる教科の補充指導ではないという捉え方が、教科指導の軽視につながっている危惧があります。 少なくとも小学校低中学年の早期発見/早期対応の中では学習の遅れやつまずきに対する適切な手当ては子どもの学校での適応や今後の進路選択にとって重要な課題です。 LDだけでなくASDやADHD(しかも重複するケースも多く)などの発達障害系の子どもたちに共通する学習の習得にみられる困難への対応は基本的事項です。 「子供たちが求めるよい支援とは、利用しやすく効果がなければならない」 わけで、基本的学習の取得を忘れたかのような指導は将来の大きな課題を増幅させる結果を招きかねません。 情緒障害学級からの転換がその背景にあるならば、それは実際の指導側からの本意ではありません。 障害種別からニーズに対応した支援は、支援教育の大きなゴールなのですから。 一部にやみくもに感覚統合やSSTだけが指導であるかのような捉え方を強調するのは実に浅薄な理解です。 また、 言語障害学級の改革は、その歴史と役割を考えたとき大きな曲がり角に来ている気がします。 あわせ実際の教育相談の中で遅れが目立つのは、通常の学級にいて 知的発達がややゆっくりしている子供たちへの手厚い指導体制ではないでしょうか。 これまでの発達障害といった捉え方とは、別にこうした学習に遅れを来たしやすい子どもへの対応も大切です。 いろいろな支援形態がありますが、取り出しだけでなく、 通常学級での少人数指導などは、子供たちの側の抵抗感も少なく、もっと充実させるべきです。 本来、障害児と健常児の間は連続しているのですから,そこに線を引くシステムには限界があります。 教師たちは弾力的に対応する力を持ってはいますが、それをもっと可能にする 具体的システムこそが課題なのです。 一年の終わりに、特別支援教育の発展を心から願うものとして一言述べさせていただきました。 建設的な意見をぜひお寄せください。 kazuhiko ueno1229@icloud. com 第28回日本LD学会 開催される Learning Diversity を発信 11月9日10日の両日、 第28回日本LD学会が パシフィコ横浜で約4000人もの方々が参加されるなか 開催されました。 私も大会企画シンポジウム、学会企画シンポジウムなどで これからのLDを含む発達障害のある子供たちの明日に向けていくつか話題提供や指定討論をさせていただきました。 その中で 本学会の名称でもあるLD(特異的 小貫大会長・竹田先生・原先生・小野先生らと 学習障害 : specific learning disabilities から Learning Differences 学びの相 異 という 発達障害全体の理解と支援に必要な概念に さらに次世代に向けて Learning Diversity (学びの多様性)という考え方を初めて発信させていただきました。 これはこれからの学会の基本的なスタンスというか方向性を示す概念になるのではないかと私は思います。 どうぞ皆さんのお考えをお聞かせください。 「障害」から「個性」へ チャイルドヘルス「マイオピニオン」 : 2019年3月号 掲載 「障害」という言葉を使わず「症」という表記が、アメリカの精神医学の診断書 「DSM-5」や最近発表されたWHOの「ICD11」でも広がってきているように見えま す。 わが国でも「障害」の替わりに、「障碍」やあえて「障がい」とカナ表記にする自治 体や団体もあります。 言葉というものはその国の歴史や文化、つまりは人々の考え方そのものを反映するもの なのでこうした動きは大切です。 かつて法律的に用いられてきた「精神薄弱」は、現在 「知的障害」に統一されましたが、さらに医学では知的能力障害(知的発達症/知的発達 障害)という言い方が採用されています。 30年近くも前のことですが、私が長く携わってきた「学習障害(LD)」のある子ども や人々への理解促進と支援方法の研究に関心をもつ方々で設立された「日本LD学会」の 設立時、学会名に「学習障害」を使用せず、あえて「LD」とアルファベット表記にしたの も障害の2文字を使いたくないという気持ちが働いたからです。 私たちが使ってきた「障害」は、障害のある人 支援の必要な人 と、障害のない人 支援 の必要のない人 という2種類の人がいるように考えさせがちです。 それがさまざまな偏 見を生む背景にあります。 なかには支援は必要だし欲しいが、そうした障害というグルー プには入りたくない、入れられたくないと感じる方も多かったと思います。 LDやADHD、自閉スペクトラム症などの発達障害の場合、とくに知的遅れがあまり目 立たない子どもの場合は、これまでの障害のもつイメージよりも軽度、もしくは障害と健 常の中間にあるといわれます。 そこで発達障害は障害と健常の溝を埋める存在、その橋渡 しの役割を担っているのです。 支援の必要さも、それぞれの子どもや人々にとっては連続しています。 障害という名 称がその支援を受けにくくさせているのでしたら、「障害」を「個性」と言い換えてもい いのではないでしょうか。 知的障害も発達障害も、個性的存在であって、その特徴をよく 理解し、子どもたちが自立し社会に参加していくのに必要な支援を、その発達段階で常に 考えていかなければならないのです。 「障害は理解と支援を必要とする個性」というのが、私が長年主張してきた言葉です。 さまざまな個性があるゆえに、より深い理解や支援が必要とする個性もあるという意味で す。 そうだとすれば、たくさんの子どもたちがその対象となるので、一部の子どもを「障害」 という特別な存在として区分することもあまり合理的ではありませんし、意味もありませ ん。 もちろん行政的にはそうした区分が必要であることは理解しますが、だからといって 人間を二つのグループに分けるものではないはずです。 私たちは、人間を分けて理解しようとしがちです。 それが大多数と少人数になる分け方 だと余計、差別や偏見を伴いがちになるという傾向があります。 いささか大胆な意見です が、 「障害」をひとつの「個性」ととらえる立場からも、「特別支援教育」がこれだけ多くに 人々に支持されつつあるという現実からも、「特別支援教育」の特別を取った単なる「支 援教育」という呼び名でもそろそろいいのではないかと思っています。 上野一彦).

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本当のスローライフとは 1月の後半から間もなく半年、今回のコロナ騒ぎはたくさんの教訓を残しました。 リーダーたる方々の判断にその方の資質を見る気がします。 「判断は生命か、金か、再選か」 経済も社会的命と考えれば大切は大切ですが、人の命はやはり最優先であるべきです。 自分の人気とか、選挙のことしか頭にないリーダーを持った国民は東西を問わず不幸です。 長い自粛生活の中、次第に自分のリズムができてきた気がします。 テレワークもそれなりに新しい生活様式といえます。 「朝目覚め味と匂いをまずチェック」 してから 子供のころの夏休みのように、朝のラジオ体操に始まり、不要不急と言われればそれまでですが、人の出の少ないうちの散歩は体力維持のために必須です。 自分の家を中心に東西南北、普段知らない場所が結構あるものだと知りました。 たまたま私が住んでいる地域には、公園や寺なども多く、毎日のようにそれらを目標に歩き回りました。 「全国民クルーズ船で漂流す」 みたいな不安の日々でしたね。 6月になって急に経済の再建に舵がとられ、あっという間に元の生活ペースになりつつありますが、PCRの検査体制がどうも不明です。 「Go To キャンペーン」が叫ばれるかと思えば、 「 不要不急の他県への移動の自粛」が 呼びかけられるなど、まるパフォーマンスとパフォーマンスの間で個人の判断力が問われています。 政治家の虚な言葉に支配 されたくありませんが、これからどのように推移していくのか、何を信じたらよいのか五里霧中です。 「怖いのはコロナじゃないよココロだよ」 個人的には、 10年以上、細々続けてきたスイミングで新境地を会得しました。 それは突然やってきました。 6 月から再開したスイミング、週3、4日、 毎回1000mが日課となりました。 一般の速度 に比べるとおそろしく遅いペースですが、今の僕にはこの30分強のペース がちょうどよく、軽いジョギング並みなのですが快適です。 まさに スローライフというべきか。 前にも書きましたが、100害はあるなか1利はあったというところです。 振り返ると、コロナで命を落とされた方のこと、改めて心痛みます。 今後どのような推移たどるのかわかりませんし、元の生活様式に戻れるかどうかもわかりません。 ただただ 「ありがとう言い残したい人が増え」 といったスローライフを実感する今日この頃です。 間もなく梅雨です まだまだ油断できませんが、新型コロナも少し落ち着いてきました。 自粛生活からかつての日常生活が戻りつつありますが、ややぺース取り戻すのに躊躇 あります。 身体が忘れているというか。 意識して行動しなければなりませんね。 写真は友人から送られてきた多摩センターのグリーンガーデンで咲き出した「トケイソウ」の花です。 自然は完全で美しいとつくづく思います。 説明によると『花をよく見るとキリストが磔になったような手足の位置』になっているとか。 仕事はわずかなデスクワークしかないので、一日7000歩前後の散歩と週数回の10年以上続けているスイミング(家内はトドの水遊びといっていますが)、そしてKindleでの読書など、感謝しつつ生きています。 村上春樹の短編 「 猫を捨てるー父親について語るとき」を読み、 まさに同世代の時代感覚、家族感覚を共感しました。 時節柄、カミュの「ペスト」も読み始めています。 百害あったが一利もあった 今年突然世界を席巻した 新型コロナウイルス( COVID-19) 、14世紀のペスト大流行、100年前のスペイン風邪、そして近くは2002年に流行したSARSなど、歴史をたどれば正に人類は感染症との戦いでもあっただが、のど元過ぎれば熱さを忘れるのことわざ通り、私たちはコロナ蔓延に際してさまざまな反応をとった。 世界のリーダたちも、当初大したことはないと高を括るものもいれば、国民の安全と経済や自分の再選を天秤にかけて右往左往するもの、科学的根拠を一途に信じて突き進むものなどさまざまであった。 国内にあっても、もしも自分が知事という立場ならどうするのだろうかなどと人間の判断の難しさを日々感じさせられた。 そうしたなか、臆面もなく自分勝手な行動をとる人たちもいれば、多くの方々は日本人らしい自粛の生活を送ったと思う。 ただ、そうしたなかで十分な手順、手立てを講じる間もなく命を落とされた方々もいた。 女優岡江久美子さんの死は、臨終にも、火葬にも立ち会えなかったご家族のことを考えるととても他人事とは思えなかった。 ひとことの別れも告げずに行く無念 この句は、私から岡江さんとご家族に送る句です。 確かに百害はあったと思います。 そうした自粛生活の中で自分の残り少ない人生をさまざまに考える時間があったこと、家族や友人を違った目で見ることができたことなどはそうしたなかでのわずかな一利であったと思います。 改めて歴史に学ぶことの大切さと、そうしたことに無頓着な政治家を持つ国民の不幸を改めて感じた次第です。 RTI をめぐって 年末、NYから帰ってきた教え子が、米国でのRTI Response to Instru ction の現状について話してくれました。 米国はそれぞれの州でいろいろな考え方のある国であることをあらためて考えさせられました。 RTIはLDの判定において、認知テストと学力テストの差異(ディスクレパンシー)によるこれまでの方法に対し、テストをする前に、教師が有効だと思う指導法を実践しその成果を客観的に分析し有効かどうかを見極めていく方法として法律的にも認められてきました。 その段階は3つありTier1から3まで構造化されています。 これらの方法が子供たちにとってどのように有効かが教育界でも大きな話題になっているのです。 さてそのお話の一部ですが 「NY州では2014年頃から4年生以下の生徒の LD診断には RTIが必須になりましたが、5年生以上は RTIをとばして既存の Discrepancy Modelですぐに診断して良いことになっています。 それぐらいの年になると、学習の遅れがすでに顕著なためだと考えられます(4年生以下は、 RTIの後、 Discrepancy Modelを使用して LDの確定診断をします)。 RTIも15年ほどたち、ようやくその短所も明らかになってきた感があります。 」 もっといろいろな情報が知りたいところです。 特別支援教育のこれから 長い準備・試行期間を経ての2007年の特別支援教育への移行以来、障害と健常を二分する理念の転換。 具体的支援システムの充実は目をみはるばかりです。 たださらにこれからの展開を考えますと単なる充実への加速だけではなく、おかしな方向性も目につきます。 杞憂でなければよいのですが。 例えば、通常の学級に在籍する児童生徒に対する支援システム「通級による指導」の発展の中で、自立活動を強調するためなのか、 単なる教科の補充指導ではないという捉え方が、教科指導の軽視につながっている危惧があります。 少なくとも小学校低中学年の早期発見/早期対応の中では学習の遅れやつまずきに対する適切な手当ては子どもの学校での適応や今後の進路選択にとって重要な課題です。 LDだけでなくASDやADHD(しかも重複するケースも多く)などの発達障害系の子どもたちに共通する学習の習得にみられる困難への対応は基本的事項です。 「子供たちが求めるよい支援とは、利用しやすく効果がなければならない」 わけで、基本的学習の取得を忘れたかのような指導は将来の大きな課題を増幅させる結果を招きかねません。 情緒障害学級からの転換がその背景にあるならば、それは実際の指導側からの本意ではありません。 障害種別からニーズに対応した支援は、支援教育の大きなゴールなのですから。 一部にやみくもに感覚統合やSSTだけが指導であるかのような捉え方を強調するのは実に浅薄な理解です。 また、 言語障害学級の改革は、その歴史と役割を考えたとき大きな曲がり角に来ている気がします。 あわせ実際の教育相談の中で遅れが目立つのは、通常の学級にいて 知的発達がややゆっくりしている子供たちへの手厚い指導体制ではないでしょうか。 これまでの発達障害といった捉え方とは、別にこうした学習に遅れを来たしやすい子どもへの対応も大切です。 いろいろな支援形態がありますが、取り出しだけでなく、 通常学級での少人数指導などは、子供たちの側の抵抗感も少なく、もっと充実させるべきです。 本来、障害児と健常児の間は連続しているのですから,そこに線を引くシステムには限界があります。 教師たちは弾力的に対応する力を持ってはいますが、それをもっと可能にする 具体的システムこそが課題なのです。 一年の終わりに、特別支援教育の発展を心から願うものとして一言述べさせていただきました。 建設的な意見をぜひお寄せください。 kazuhiko ueno1229@icloud. com 第28回日本LD学会 開催される Learning Diversity を発信 11月9日10日の両日、 第28回日本LD学会が パシフィコ横浜で約4000人もの方々が参加されるなか 開催されました。 私も大会企画シンポジウム、学会企画シンポジウムなどで これからのLDを含む発達障害のある子供たちの明日に向けていくつか話題提供や指定討論をさせていただきました。 その中で 本学会の名称でもあるLD(特異的 小貫大会長・竹田先生・原先生・小野先生らと 学習障害 : specific learning disabilities から Learning Differences 学びの相 異 という 発達障害全体の理解と支援に必要な概念に さらに次世代に向けて Learning Diversity (学びの多様性)という考え方を初めて発信させていただきました。 これはこれからの学会の基本的なスタンスというか方向性を示す概念になるのではないかと私は思います。 どうぞ皆さんのお考えをお聞かせください。 「障害」から「個性」へ チャイルドヘルス「マイオピニオン」 : 2019年3月号 掲載 「障害」という言葉を使わず「症」という表記が、アメリカの精神医学の診断書 「DSM-5」や最近発表されたWHOの「ICD11」でも広がってきているように見えま す。 わが国でも「障害」の替わりに、「障碍」やあえて「障がい」とカナ表記にする自治 体や団体もあります。 言葉というものはその国の歴史や文化、つまりは人々の考え方そのものを反映するもの なのでこうした動きは大切です。 かつて法律的に用いられてきた「精神薄弱」は、現在 「知的障害」に統一されましたが、さらに医学では知的能力障害(知的発達症/知的発達 障害)という言い方が採用されています。 30年近くも前のことですが、私が長く携わってきた「学習障害(LD)」のある子ども や人々への理解促進と支援方法の研究に関心をもつ方々で設立された「日本LD学会」の 設立時、学会名に「学習障害」を使用せず、あえて「LD」とアルファベット表記にしたの も障害の2文字を使いたくないという気持ちが働いたからです。 私たちが使ってきた「障害」は、障害のある人 支援の必要な人 と、障害のない人 支援 の必要のない人 という2種類の人がいるように考えさせがちです。 それがさまざまな偏 見を生む背景にあります。 なかには支援は必要だし欲しいが、そうした障害というグルー プには入りたくない、入れられたくないと感じる方も多かったと思います。 LDやADHD、自閉スペクトラム症などの発達障害の場合、とくに知的遅れがあまり目 立たない子どもの場合は、これまでの障害のもつイメージよりも軽度、もしくは障害と健 常の中間にあるといわれます。 そこで発達障害は障害と健常の溝を埋める存在、その橋渡 しの役割を担っているのです。 支援の必要さも、それぞれの子どもや人々にとっては連続しています。 障害という名 称がその支援を受けにくくさせているのでしたら、「障害」を「個性」と言い換えてもい いのではないでしょうか。 知的障害も発達障害も、個性的存在であって、その特徴をよく 理解し、子どもたちが自立し社会に参加していくのに必要な支援を、その発達段階で常に 考えていかなければならないのです。 「障害は理解と支援を必要とする個性」というのが、私が長年主張してきた言葉です。 さまざまな個性があるゆえに、より深い理解や支援が必要とする個性もあるという意味で す。 そうだとすれば、たくさんの子どもたちがその対象となるので、一部の子どもを「障害」 という特別な存在として区分することもあまり合理的ではありませんし、意味もありませ ん。 もちろん行政的にはそうした区分が必要であることは理解しますが、だからといって 人間を二つのグループに分けるものではないはずです。 私たちは、人間を分けて理解しようとしがちです。 それが大多数と少人数になる分け方 だと余計、差別や偏見を伴いがちになるという傾向があります。 いささか大胆な意見です が、 「障害」をひとつの「個性」ととらえる立場からも、「特別支援教育」がこれだけ多くに 人々に支持されつつあるという現実からも、「特別支援教育」の特別を取った単なる「支 援教育」という呼び名でもそろそろいいのではないかと思っています。 上野一彦).

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