夏の高校野球。 「夏の甲子園」、戦後初の中止を決定…地方大会も行わず : ニュース : 交流試合 : 高校野球 : スポーツ : ニュース : 読売新聞オンライン

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日本高野連は、県境をまたぐ移動と長期の宿泊を伴う全国選手権、事前の地方大会で選手らの感染リスクを完全に排除できないと判断。 長期間の休校で夏休み短縮の動きがあり、地方大会開催で学業に支障をきたし、全代表が決まらない可能性があることなどから中止を決断した。 記者会見した日本高野連の八田英二会長は「球児の安全確保が担保されている情勢にはない。 ベストコンディションで試合に臨めるとは言い難い状況になった。 球児の安全、安心を最大限配慮した苦渋の決断とわかっていただけたら」と説明し、「大会出場を目指した球児という栄冠は永遠に輝いている」と励ました。 各地の春季大会も中止(沖縄は途中打ち切り)となり、3年生は今年の公式戦出場がなくなる。 このため、都道府県高野連の中には独自に大会を開催する動きもあり、八田会長は「財政支援をすることは理事会で了承された」と話した。 全国選手権(前身大会)は1915年に始まり、18年は米騒動、41年は戦局の激化で中止され、42~45年は戦争の影響で中断、78年からは全都道府県の代表が出場。 今夏は約3800校が地方大会に参加し、全国大会は8月10日から16日間の日程で行われる予定だった。 また、兵庫県での第65回全国高校軟式野球選手権大会(8月26日開幕)の史上初となる中止も決まった。 あわせて読みたい•

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《2020夏・高校野球独自大会》福島:聖光学院 甲子園を断たれたチームを一つにした主将の言葉

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7月18日に高校野球の福島県独自の大会が始まる。 歴代最多・13年連続で甲子園に出場している聖光学院。 <歴代最多となる13年連続で甲子園に出場している聖光学院> 全国でも知られた強豪校とあって、部員の半数近くは甲子園を目指して福島県外から集まってきた選手たち。 岡山県出身・小林聖選手:「自分たちが最初に東北勢で初めての優勝旗っていうのを持ち帰りたいっていうのが一番の思いで、この聖光学院に来させていただきました」 兵庫県出身・藤原楓凡選手:「中学のチームの総監督にここ勧められて、オープンスクールとかも来て、実際にここでやりたいって自分は思って」 甲子園での優勝を目指し、野球に打ち込んできた。 しかし-。 <新型コロナの影響で甲子園での全国大会とその予選となる地方大会の中止が決定> 福島県の高野連は独自大会の開催を決めたが、3年生にとっては最後の夏の甲子園への道が断たれた。 兵庫県出身・藤原楓凡選手:「甲子園がなくなったっていうことを聞いて自分自身はすごく悔しかったです」 東京出身・内山連希主将:「聖光学院に入学するときはみんな甲子園を目指して入ってきたと思うんですけど、それがなくなった状況の中でどういう風にチームを一つにして一つの方向に向けてやっていけばいいのかなって最初は思いました」 甲子園を強く意識していたからこそ、すぐには受け入れられなかった中止の決定。 チームに沈んだ空気が流れたと言う。 東京出身・内山連希主将:「自分たちの心の中に甲子園があったから今まで頑張ったり練習することができたと思うので『心の中の甲子園』目指して甲子園がなくても最後まで甲子園目指していこうって話してやってきました」 この言葉に背中を押されるように、チームは再び強い気持ちを持って練習を再開。 2回戦で散った2019年の秋の福島県大会の悔しさもバネに、13連覇中の絶対王者が今年も全力で夏の戦いに臨む。 東京出身・内山連希主将:「一つにまとまりつつあると思います。 秋のリベンジっていうものも含めつつ 夏の大会、全員で一つの束となって戦っていきたいと思います」.

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沖縄の高校野球情報

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64本。 これ、PL学園高校時代の清原和博 元オリックスほか が、練習試合も含めて3年間で記録した本塁打数である。 清原が高校3年だった1985年。 同年代に、清原を上回り、当時史上最多の78本塁打を放った男がいた。 しかもPLと同じ、大阪の此花学院 現大阪偕星学園。 しかもしかも、両者は85年夏の大阪大会、準々決勝で対戦しているのだ。 「そりゃあマスコミの方は、清原とライバルという図式を作りたかったでしょうね」 とその男・田原伸吾さんはいった。 「ただ、僕自身はそんなに意識はしなかったです。 清原は試合数も少ないでしょうし、練習試合でも強い相手としかやりませんから、本数だけで単純比較はできないですよ。 というよりそもそも、当時のPLといえば、何人もがプロになるんですから、歴代最強でしょう。 それに対してわれわれは、比べるのもおこがましいチームでしたから」 卒業後は明治大、さらに社会人の強豪・熊谷組からTDKで活躍し、むろん都市対抗にも出場している。 野球を始めたのは、大阪・堺リトルリーグだった。 田原さんによると、「伯父が、堺でバッティングセンターをやっていたんです。 この伯父という人は、東京オリンピックに出た陸上選手なんですが、器用な人で自分でマシンを作っていた。 それが、眉ツバかもしれませんが160キロ出るというふれこみで、確かにすごく速いんです。 でも、そのタマを平気で打っていました」 中学の堺シニアでは、全国大会にも出場。 岸和田シニアに在籍していた清原は、当時から評判の選手で、「中学時代から、大人の体をしていたという印象があります。 ただ、何回か対戦はしているんでしょうが、あんまりその記憶はないですね」。 審判が見失った? 幻の一発 卒業後は、熱心に誘われて83年に此花学院へ。 野球部を強化しようとしていた時期で、同期には米崎薫臣 元阪神 ら、資質の高い選手も何人かいた。 田原さんも、練習からフェンス越えの当たりを連発。 しかも、フェンスの外がすぐ崖になっているため、サク越えのボールはあきらめるしかない。 それじゃあ、いくらボールがあっても足りないから……と、練習では木のバットを使った。 ボールを飛ばす天性があったのだろう、すぐに試合に出るようになった。 「2年のときですかね。 プロのスカウトの方が来られて、"飛ばす能力がある"といってくれたらしいんです。 自分でもそれを意識してみると、確かに実際、人よりも飛んでいましたね。 ただ、だれに教わったわけでもないし、特別な練習をしたわけでもないんですよ。 親からもらった能力、としかいいようがありません」 本塁打数は1年で18本、2~3年で30本ずつ……というのが、田原さんの大ざっぱな記憶で、3年になるころには、野球を生活の手段にできるのかも……と考えるようになった。 本塁打数ではずっと、清原を上回っていたから、マスコミにも早くから注目され、よく比較されるようになった。 田原さん自身が記憶に残る一発もある。 「というより幻の一発なんですが、3年の夏、日生球場での美原戦です。 2回戦 盾津 、3回戦 大商大付 と連続でホームランを打って、この試合もライトへ完璧な当たりを打ったんです。 当時日生球場には、近鉄にいたマニエルの場外弾を防ぐマニエル・ネットがあって、僕の打球はそれを越えたんですよ。 高校生ではなかなか越えない、それだけ大きい当たりでした。 ですが、審判の判定はファウル。 見慣れていないからか、打球を見失ってしまったんですね。 あれがあれば、僕の通算ホームランは79本になっているところでした 笑 」 そして85年夏、「別格」のPLと当たった準々決勝は、1対5で敗れた。 清原にはタイムリーを打たれ、打線も9回まで桑田真澄 元巨人ほか に無得点。 9回2死一塁で田原さんが二塁打を放ち、一矢は報いた。 「手応えがよく、"ああ、入ったな"とベースをゆっくり回っていたんですが、日生球場の高いフェンスの一番上に当たり、あわてて二塁まで走りました。 それでなんとか1点取るんですが、あの当時の桑田は、とにかくカーブがすごく、高校生のタマじゃなかったですね。 打った球種? もちろん、ストレートですよ 笑 」 結局、高校3年間ではこのときのベスト8が最高で、甲子園には出ていない。 それはそうだ、なにしろ在学中の3年間は、KKのPLが5季連続出場するのだから。 ただ、と田原さんはいう。 「甲子園を目標にしてはいたんですが、僕自身は甲子園にそんなに意識はなかったですね。 高校時代は原点であり、いい思い出ですが、すべてではありません。 高校を出てからの人生のほうがはるかに長いわけですし……」。 大学、社会人と野球を続け、いまは海外赴任でバリバリと仕事をこなす田原さんらしい。 実は、この取材をしたのは13年ほども前のこと。 最近、SNSで見つけてくれた田原さんと久々に"テレ会話"をしたので懐かしくなり、再構成してみたわけです。

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