この 世界 の 片隅 に 解説。 岡田斗司夫ゼミ#153(2016.11)『この世界の片隅に』誰もが評論を諦める高難易度作品を語るよ!!宮﨑駿あなたが川上量生にそれを言っちゃいます?

町山智浩 『この世界の片隅に』徹底解説

この 世界 の 片隅 に 解説

片淵須直「」は、氏の漫画が原作の映画です。 各所で話題になっている本作品ですが、その圧倒的なまでに作りこまれた世界。 アニメ映画ならではの表現。 伝わってくる感情の分厚さ。 いずれをとっても、とんでもない作品です。 「アニメ映画で、しかも、戦争ものだし」と思う人もいるかもしれませんが、見る前の人は、ネタバレなしの前半を、見た後の人は、ネタバレをしている後半部分もふくめて「」の魅力について、その圧倒的な情報量を紐解きながら語ってみたいと思います。 原作漫画も非常に面白いのですが、映画になるにあたって、カットされる部分もありますし、追加される部分もあります。 そのあたりから、映画でのねらいも含めた中で考えてみます。 スポンザードリンク? また、原作との対比をした中で、映画の魅力を語っていきますが、原作との比較をすることでより映画の魅力を伝えることを前提としていますので、原作を読んでいなくても全然気にせず読み薦めていくことができますのでご安心ください。 昭和の時代を生きる女性 主人公の浦野すずは、いたって普通の女性です。 戦争に突入していく時代の中で、明るく生きることで周囲をかえていく、そんな朝ドラの主人公のような人ではありません。 ぼうっとしているところがあって、絵を描くのが好きな人ではありますが、特別な力が備わっているわけでもありません。 そんな、いたってどこにでもいそうな浦野すずという女性の、幼少期から20歳にいたるまでの話が「」となっています。 この映画では、すずの主観が映像に大きな影響を与えています。 実は、この映画、どこからどこまでがすずの心の風景で、どこまでが現実世界なのかわざとぼかして作られています。 ただ、基本的にはすずの主観に基づいていることから、非常に優しげな形で物語りは進んでいきます。 主人公の浦野すずは、ぼーっとしていて、ほんわかしているのですが、実は、流されているだけの人でもあります。 当時の時代状況というのも大きいのですが、彼女は、顔も名前もわからない男のお嫁さんになります。 「気に入らんかったら、断ってもいいんで」 といわれるのですが、断るほどの理由もないから断らないままに事が進んでいきます。 旦那さんは、後に幼少期に出合った少年だったことがわかるのですが、彼女は基本流されている人です。 この物語は、流されるままに生きていた女性が、戦争によって、現実を見て、やがては、それを受け入れながら前に進んでいく、という成長物語になっているのです。 毎日を楽しむ。 ですが、彼女が流されているのは、主体性がないから、ではありません。 彼女は「困ったねぇ」と言いながら、受け入れているのです。 当時は、水道はないので水を汲まないといけませんし、コンロもないので、自分で火をつけなければなりません。 物語をみていくとわかりますが、すずは、足が悪くなった母親のために雇われたようなものだったのです。 もちろん、旦那である周作は、すずとの縁を感じて結婚したのですが、旦那が寝ているところをおきて、義理の母親に教わりながら煮炊きをする姿は大変です。 この物語は、理不尽の連続です。 何もわからずにお嫁にきたすずは、姑に嫌味を言われますし、自分の好きな絵を描いていたら、にとらえられるしで、理不尽な目にわんさかあいます。 また、初夜を迎えるにあたって、おばあちゃんから言い渡されることがあります。 「結婚式の夜に、婿さんが傘を一本持ってきたか、言うてじゃ。 ほしたら、はい、新(にい)なのを一本、言うんで」 よくわからないといったすず。 「ほいで、向こうが、さしてもええかいの、というからどうぞという」 「なんで?」 と聞いたら、おばあちゃんは、何も聞くな、とでもいうようなきっぱりとした言い方で「なんでもじゃ」と言います。 いきなり教えてきて、理由は教えない。 理不尽です。 このやり取りは、俗に言う柿問答というやつで、結婚した男女がことをなすためにやる儀式のようなものだと考えてください。 でも、まだ子供のすずは、意味がわからないのです。 わかっているかもしれないのですが、暗黙の了解というものがあって、どうしようもないことがある、ということを知るきっかけとなります。 やさしいだけのおばあちゃんが見せる、きっぱりとした態度。 自分は何かが変わるのだ、という雰囲気を感じ取ったこともまたわかります。 昔は兄にいじめられて、理不尽の象徴が兄でしたが、嫁ぐことによって、そして、生きる中で様々な理不尽と出会うのです。 すずの、現実逃避。 さて、原作と映画の描かれ方として、違っている部分があります。 それは、すずの芸術的感性が強く描かれている、という点です。 原作漫画でも、その感性は描かれていて、漫画のコマそのものをつかって描かれているところですが、映画では、それがよりはっきりと描かれています。 「」は、冒頭でも書いた通りすずの主観が非常に大きな役割を果たしています。 彼女が通してみる世界を、我々もまた見ている、という点が重要になっておりまして、時々、どれがすずの妄想あるいは、想像力で、どこからが現実なのかわからなくなるときがあるのです。 物語の序盤で、旦那である周作と出会うところでは、彼女は人攫いにさらわれます。 ですが、それは、妹に聞かせるための作り話。 ですが、周作と出合ったことは事実だったと判明します。 おばあちゃんの家で、座敷わらしらしきものと会いますが、それもまた、現実にいるものなのか、はたまた、で出合ったおねえさんの若い頃なのか、それもまたわかりません。 ですが、彼女のみる世界は、不思議なものもいる世界だということがわかるのです。 芸術的感性以外でも、映画版が強く出している部分としては、彼女が実は、非常に弱い女性であるという点です。 食糧難で食べ物がない中でも、色々な工夫をして、楽しそうにして生きる彼女ですが、ストレスをまったく感じていないわけではありません。 義理の姉である径子にいびられたことや、日々のストレスから、身体的な影響がでてしまいます。 妹のすみからは「海軍の秘密知ってもうた」といわれて、自分が想像以上にストレスを受けていたことにショックを受けたりします。 実は、彼女の想像力や、絵描きは、逃避として使われているのです。 でも、逃避とはいえ、彼女が日々の事柄を工夫しながら楽しく乗り越えていく様というは、本当に素晴らしいです。 ですが、彼女は時々極端に元気をなくしますし、後半になると、目の前で大変なことが起きているのに、それを放っておこうとします。 自分の中にある、いや、人間であれば誰しもがもっている暗くて深い闇を、彼女もまた持っていることがわかります。 当時は、家を守ることが大事な時代です。 でも、その家がなくなってしまえば、楽になれる。 そういう誘惑もまた彼女は感じます。 彼女は決して強くはありません。 ですが、強くない彼女だからこそ、彼女の日常が、戦争に突入していく中で、生きるということがより鮮烈にうつるのです。 芸術に魂を。 との関連(ここからネタバレ) 彼女の芸術家としての点が強いと書きましたが、映画版では、それがかなり大きな才能として描かれています。 ここからは、そろそろネタバレが近づいてきますので、気になる方は、映画をご覧になったあとに戻ってきていただけるとありがたいです。 ーー 以下 ネタバレ -- 物語は、戦争に突入します。 すずは、子供のためにと思って、軍港にとまっている戦艦を描きます。 ですが、それは間諜行為であり、禁止されていることだったのです。 今の時代だとそうは思わないでしょうが、軍艦がどんなものなのか、どんな装備をしていて、どれぐらいの数があるのか。 そういう情報が敵にまわることは避けなければなりません。 戦中の日本では、軍事工場があるということもあって、東京の立川あたりからは、窓が目隠しをされていて何もみえなかったという話しもあります。 情報が統制されていた時代ですので、絵であったとしても、軍港の様子を描くなんてことをするのは、かなりヤ行為なのだったはずです。 ここでは、彼女は、「子供に見せてやろうと思って」と言います。 これぐらいでは、まだ彼女の芸術的な感性はそれほどではありませんが、爆撃が行われて、呉に大きな被害がおきるときがあります。 姪と一緒に畑にいたすずは、逃げるでもなく、空の飛行機を見続けてしまいます。 ここで、すずの視点となり、空にカラフルな絵の具が叩きつけられるのです。 彼女には、町や、人を壊す飛行機の姿がそのように見えた、というわかりやすい場面です。 それは、彼女が、飛行機を美しいと思い、その場面を絵として描きたい、と強く思っているということなのです。 ですが、普通の人間であれば、命の危機なので逃げるほうを優先させるはずです。 自分の命とか、そういうのを無視して、美しいもの、感動的なものと出合ったときに、そっちを優先させてしまう、という点では、監督映画「風たちぬ」の主人公もまた同じような感性をもっているといえるのではないでしょうか。 「風たちぬ」は説明するまでもないかもしれませんが、2013年に公開されたアニメ映画です。 「世界の片隅に」とまさしく同時代。 に従事する青年の、飛行機作りにかけた物語です。 飛行機の設計をしたが、それをつくることで多くの命が犠牲になるかもしれないとわかっていても、それでも、自分の飛行機作りへの夢をかなえようとします。 この映画もまた、自分の願いを実現させるためには、悪魔と契約してもかまわないといった覚悟を垣間見る作品です。 風たちぬは、人を殺すことになる飛行機をつくる自分、に対しての疑問を主人公を持つことはありません。 普通の戦争映画とかであればきっと「俺は、人殺しの道具をつくっているんじゃない」とかいいそうですが、青年は、そんなことはいわないところが、いいのです。 話しは戻りますが、「世界の片隅に」のすずもまた、絵を書きたいという衝動に抗うことができない人物だったりするのです。 暴力的なまでにやってくる創作という魅力。 そんなクリエイターとしてのすずが、戦争によって創作できなくなっていくというところも見所です。 死んでいたかもしれない。 この物語は、流されてばかりだった女性が、現実をみて、自分自身で決めていく、大人になっていくことを描いた物語です。 すずは、劇中で叫びます。 「ぼっーとして、何も考えん、うちのままでいたかった」 彼女もまた子供のままでいたかったはずです。 知りたくないものも、知ってしまうのです。 ですが、現実は、戦争は、彼女から大切なものを奪い去り、強制的に大人へとしてしまったのです。 その象徴の一つは、右手です。 彼女の絵を描くということは、彼女が理不尽なものから逃げるための逃避の手段であり、自分の夢ややりたいことを叶えるための道具でもありました。 また、彼女自身の甘えも失われていきます。 ぼうっとした彼女は、姪である晴美が軍港の様子をみたいといいます。 ですが、爆弾が落ちたばかりの状況で、危険だということをわかっていたはずなのに、彼女は、不用意に近づいてしまうのです。 壁が壊れたことで、見せてあげたかったものが見せてあげられるかも、という彼女自身の優しさが、結果として、最悪の結果を生み出してしまう、という皮肉もまた辛いところです。 多くの罪を背負った彼女は、それでも生きていきます。 さて、冒頭でも書きましたが、彼女は特別な人ではありません。 彼女は、流されて生きてきましたが、彼女は流された先で精一杯生きています。 もしも、彼女が「嫌なら断ってもいいんで」といわれて、周作との婚姻を断っていたら、原爆で死んでいたことでしょう。 幼馴染の水原哲と一緒になったとしても、その先彼女は死んでしまったか、青葉と共に死んだ水原を待つ悲しい人生になっていたことでしょう。 妹のすみちゃんに「広島にかえってきたらええんじゃない」といわれて、義理のおねえさんに「やっぱり、ここにおっていいですか」といわなかったとしても彼女は、の影響で死んでいたでしょう。 彼女は、確かに流されてはいますが、結果として、その瞬間を精一杯生きている、ということが大事なのです。 ラストの女の子は、何ものか。 長くなりすぎますので、最後にオマケを書き足した上で、締めたいと思います。 この作品は、すずの成長もそうですが、顔も中身もたいした知らない男女が、ちゃんと夫婦になっていく、という物語にもなっています。 旦那である周作さんは、結婚前にすずのことを覚えていても、すずは周作のことなんて覚えていません。 それでも、嫁として契りを結んだからには、北篠すずとして生きようと、彼女は覚悟を決めていきます。 それを、彼女が北篠という名前を書くことでみせる、というのもにくい表現です。 また、半ば無理やり夫婦になったせいで、ぎこちない二人。 どうしても素がみせられない中、幼馴染の水原哲の存在によって、嫉妬と敗北の中でゆらぐ周作が行う、非常に余計なお世話な気遣い。 そんな危機を乗り越えながら、お互いが感情をぶつけあい、やがて、夫婦として二人で歩いていく、というラストには涙が溢れます。 ラストにでてくる女の子の意味がわからない、という人もいるようですが、彼女が現れる一つの意味としては、自分のせいで姪と右腕を失ったすずですが、その失った右腕のおかげで助かった命もある、ということです。 ラストの女の子は、いわゆるです。 死んでしまった母親を見捨てた女の子は、シラミだらけで町の中をさまよいます。 本来であれば、のたれ死ぬか、生きられたとしても、人間としての心は失われていたことでしょう。 ですが、同じく腕を失ったすずをみて、死ぬ前に、右腕を失ってまで助けてくれた母親と重なり、人間の心を取り戻したのです。 そうでなければ、地面におちてようが、他人のものだろうが、彼女は落ちたおむすびを食べてしまったはずなのです。 それを、食べずに返そうとした、ということで、彼女が人間として踏みとどまった、ということがわかります。 そして、なくなった右腕のおかげで、すずは一人の女の子を救うことができ、結果として、義理のお姉さんにも希望を与えることができた。 たしかに、理不尽なことで傷つくこともあるでしょうが、その中で精一杯生きることで、誰かを救うことだってできる。 戦争に限らず、多くのものは失っても、失ったあとで得るものもある。 そういう、人が生きるうえで大切なことを教えてくれる作品が「」です。 何度見ても、心にしみる物語であり、まだまだ補足を付け加えたいところですが、とりあえずのところは、このあたりで、本記事は終了とさせていただきたいと思います。

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Makuake|片渕須直監督による『この世界の片隅に』(原作:こうの史代)のアニメ映画化を応援|マクアケ

この 世界 の 片隅 に 解説

C こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 2016年に公開されてすぐに口コミによる評判が広まり、高い評価を得た映画『この世界の片隅に』。 原作はこうの史代による同名の漫画であり、雑誌『漫画アクション』において2007~2009年に連載されました。 2011年と2018年には、2度にわたってテレビドラマ化されています。 本作は、広島と戦争がテーマのひとつとなっています。 こうの史代の代表作である『夕凪の街 桜の国』もまた、戦争と広島をテーマとした作品でした。 しかし、同作によって原爆作家と扱われることに疑問があった作者は、もう一度戦争と広島をテーマとして、そこに生きる人に焦点を当てた作品を作ることとなります。 その結果誕生したのが、『この世界の片隅に』です。 映画『この世界の片隅に』の監督は片淵須直。 アニメ好きな人にとっては有名な監督のひとりでしょう。 いくつものアニメーション作品において、絵コンテや脚本を手掛けているか片淵は、有名なジブリ作品のひとつである『魔女の宅急便』で演出補を担当しています。 監督作品としてはTVアニメ『名犬ラッシー』のほか、アニメ映画としては『アリーテ姫』、『マイマイ新子と千年の魔法』などが有名です。 片淵の作品といえば、人によっては『BLACK LAGOON』も外せないでしょう。 あのクライムアクション作品もまた、片淵が監督および脚本を担当しています。 作風がまるで違う『この世界の片隅に』を手掛けていることに衝撃を受ける人もいれば、腑に落ちるという人もいるのではないでしょうか。 さまざまなジャンルのアニメを手掛けてきた片淵ですが、こうの史代にとって、片淵須直が自身の作品を担当してくれることは何よりも衝撃だったといえるでしょう。 というのも、彼女は『名犬ラッシー』に憧れていたといい、片淵によるアニメ化はまさに運命だったと喜んだそうです。 そんな映画『この世界の片隅に』では、こうの史代のキャラクターがそのまま映し出されたかのようなアニメーションが広がるのが特徴です。 彼女の作風にマッチしたキャラクターデザインはもちろんのこと、全編を通じて描かれる主人公すずの生活感は、これ以上ないほどのリアリティを持って描かれます。 特に、全編を通じて登場する日常の生活シーンでは、作画枚数を多くすることによってゆったりとした動作を演出しており、単なる生活の様子を生々しく映し出すことに成功しています。 アニメーションによって当時の呉の様子が印象強く描かれている点も見逃せません。 実際、映画制作に際して片淵は何度も呉の街へ足を運び、入念なロケハンを行っています。 それだけではなく、戦時中の天気や当時の店の品ぞろえ、さらには空襲警報の発令時刻も含めて調査するなど、徹底的な時代考証を行っているのです。 また、設定だけではなく、広島弁と呉弁のアクセントの違いにも配慮するなど、台詞を含めた細部にも並々ならぬこだわりが貫かれています。 しかし、そのこだわりのおかげで、こうの史代の世界がフィクションでありながらも、異常なまでのリアリティを有して立ち上ることとなるのです。 ほのぼのとした呉の日常の先に、嫌な予感が拭えない C こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 本作は、広島で生まれたすずの幼少期に始まり、18歳で呉へ嫁ぎ、そこで彼女が戦争を体験する様子が描かれています。 すずはマイペースで、ちょっとぬけているところがあります。 家事はほぼ一通りこなせるものの、裁縫だけは苦手。 絵を描くことを得意としている以外は、いたって普通の女性です。 なお、原作では大人の女性としての側面が強く描かれているのに対して、映画のすずは少女のような雰囲気と、強い女性としての特徴を併せ持つキャラクターだといえるでしょう。 想像力に富んでおり、しばしば現実の世界から空想の絵画を通し見たり、描いた絵をもとに物語を作り上げたりする様子が見られます。 1944年、北條家の長男である周作に嫁いでからのすずは、家事を切り盛りしていきます。 周作は呉鎮守府の書記官、その父親である円太郎は広海軍工廠技師です。 母のサンは足を悪くしており、できる範囲ですずの家事を手伝いますが、いわゆる嫁姑のような諍いはなく、広島から来たすずに優しく接します。 一方、すずが嫁いで間もなく、周作の姉である径子が、娘の晴美を連れて戻ってきます。 当時としては珍しい恋愛結婚をした径子は、自分の意見をはっきりと述べるタイプであり、すずとは対照的なキャラクターです。 マイペースで事にあたるすずにきつい言葉を投げつけることが多いものの、だんだん周作の嫁として彼女のことを認めるようになります。 また、娘の晴美は礼儀正しく、初めからすずを姉のように慕っているのが印象的です。 そんな家族に囲まれて過ごすすずは、里帰り、径子の離縁による同居、小学校時代の同窓生である水原哲との再会などを経て、戦時中の呉を生きていくこととなります。 その様子からは、戦時中であるとは思えないくらいにほのぼのとした雰囲気が感じられることでしょう。 むしろ、時折挟まれる展開はコメディ作品のようであり、狙いすましたかのような笑いをもたらします。 憲兵がすずの描いた絵を「間諜行為」として詰問したときには一瞬の緊張感が走りますが、それすら憲兵の勘違いという点でもって笑いに転化されます。 こうした展開に、戦争から想起される暗いイメージを感じ取ることは難しいといえるでしょう。 しかし、その平和的な様子とは裏腹に、場面が切り替わるごとに表示される日付が、見る人へ緊張感をもたらします。 それもそのはず、本作の舞台は原爆が投下される広島です。 軍港のある呉もまた、1945年には呉軍港空襲によって甚大な被害を被った場所でした。 表示される日付はまさにカウントダウンとして、嫌な予感を伝えてくるのです。 この平和な日常がいつ崩れてしまうのだろうと、心配をせずにはいられません。 【解説】戦争映画ではあっても、反戦映画ではない? C こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 映画『この世界の片隅に』は戦争映画です。 しかし、本作から反戦というメッセージを読み取ることは難しいといえるでしょう。 また、単なる戦争映画とは異なり、戦争そのものに主眼が置かれているとは言い難い点も本作の特徴のひとつといえます。 戦争映画や反戦映画にありがちな特徴のひとつは、戦争そのものが作品の焦点となっているという点です。 悲惨な戦争によって焦土と化した国や死屍累々たる有様を映し、それをもたらしたのも人間なのだとして、戦争行為の愚かさを訴えるのはよくある手法でしょう。 もしくは戦争による悲劇的な展開を登場人物に負わせて、その人物を依り代にして反戦のメッセージを突きつけることもあります。 いずれにしても、こうした作品の中心にあるのは「戦争の愚かさ」であり、戦争そのものが作品全体に大きな影を落としているといえるのです。 もちろん、『この世界の片隅に』もまた戦争がありますが、作品の焦点となっているのは戦争ではなく、あくまでそこに生きる人間です。 しかも、戦争の主体として戦う兵隊ではなく、戦時中であっても普段の生活を生きる普通の人間なのです。 確かに、戦争によって家は焼け人は死に、人々がこれまでと同じ生活を送ることはできないでしょう。 けれども、戦争があっても終戦を迎えても、すずの生活は途絶えることなく、連続する人生として流れていくのです。 戦争が人生における出来事のひとつとして捉えられているところが、他の戦争映画とは大きく異なる点だといえるでしょう。 戦争を体験していない人が戦争を考えるとき、体験していないがゆえに、戦争がどうしようもなく自身から遠く離れたもの、自身から断絶したものとして捉えがちではないでしょうか。 映画というフィクションにおいては、その点が否が応でも強調されることとなるでしょう。 しかし、本作では戦争というファクターをすずの生活におけるひとつの通過点として描いています。 その描き方は、戦争を過去に起きた悲惨なものとして切り離すのではなく、我々の生きる時代が戦争のあった時代から地続きであることを認識させてくれるのです。 【考察】この世界におけるすずの居場所とは C こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 戦争に焦点を当てた作品ではないとはいえ、すずの心身に変化がなかったのかといえば、そうではありません。 むしろ戦争によって、すずには3つの大きな受難が襲いかかることとなります。 受難のひとつは晴美の死です。 すずは晴美を連れて、軍の病院に入っている円太郎の見舞いに行くことになります。 その帰り、呉に響き渡る空襲警報によって、ふたりは防空壕へ避難することに。 からくも爆撃をしのいだすずと晴美ですが、径子のもとへ向かう途中、戦闘機が投下した時限爆弾の爆発に巻き込まれてしまい晴美は亡くなります。 本作で印象的な演出のひとつに、死の描かれ方があります。 本作では、人の死に対して過剰に悲しむといったシーンはほとんど見られません。 すずの兄が戦地で亡くなったときも、家族の様子はあっけらかんとしたものでした。 また、すずの両親が原爆で死亡したことについても、すずは冷静に受け止めているように見えます。 それは、戦争という異常な事態において、普通であることを保とうとする働きなのか、もしくは死が日常のものとなり精神が摩耗した結果なのかはわかりません。 いずれにしても、晴美の死によってすずは深い悲しみに見舞われ、径子からはすずのせいで晴美が死んだと責め立てられることになります。 晴美の死がすずに重くのしかかるのは、ひとえに自責の念によるものです。 すずは町内の会合において、時限爆弾の特徴を聞かされていました。 それにもかかわらず、時限爆弾に気付くのが遅れてしまったと彼女は己を責めます。 あらかじめ注意深く行動していれば、せめて晴美だけでも助けることができたのではないかと考えてしまうのです。 もうひとつの受難は、その時限爆弾によってすずが右手を失うことです。 本作では冒頭から、すずが絵を描く様子が頻繁に描かれています。 絵を描くことはすずにとって、世界とつながるための方法であり、日常の一部であり、彼女にとっての普通なのです。 右手を失い、すずは絵を描くことができなくなりました。 それは彼女にとって普通から遠ざかることであり、日常の一部を失うことであり、そして世界から切り離されて居場所を失うことと同義です。 右手を失った彼女は、これまで自身の右手が触れてきたものを反芻していきますが、そのシーンは彼女の心象風景を写し出すかのようにして、歪になっていきます。 加えて、晴美を死なせたという自責の念が、すずの精神に影を落としていくことに。 それでも、です。 それでも、自責の念に堪え切れずいったん家を出ていこうとしたすずは、径子と和解し、周作を愛するようになって自分の居場所は呉であると決め、そこで生き続けていきます。 晴美を失い右手を失ってなお、彼女は世界のなかで、呉に自分の居場所を見つけることができたのです。 しかし、彼女が見つけた居場所はまだ戦時中であり、平時とはほど遠い場所にあります。 すずに襲いかかる最後の受難、それは終戦です。 なぜ終戦が受難になるのでしょうか。 物語の終盤、玉音放送を聞いた北條家の様子は、表面上はあっけらかんとしたものでした。 けれども、すずはこの放送によって作中で取り乱すこととなります。 「最後の1人まで戦うんじゃなかったかね!」 「まだ左手も、両足も残っとるのに!」 「だから我慢しようと思ってきた、その理由が……」 すずの独白から、誰かの死も右手の喪失も、戦争があったから我慢ができた、仕方のないものとして理由付けすることができたと考えられるのではないでしょうか。 しかし、戦争があっけなく終わり、これまで信じてきた理由が何とも脆いものだったと気がついたすず。 このときになってようやく、晴美の死も、右手の喪失も、外部に理由付けされたものではなくて、自分自身の悲しみとして受け入れることができたのだと考えられます。 それは、玉音放送を聞いたのちに、同じく晴美を思って泣き崩れていた径子も同様です。 終戦によって、失ったものを自分のものとして受け入れることができたのだとすれば、すずはようやく人間として、普通になったのでしょう。 彼女の同窓生であった水原哲は腕を失う前のすずに対して、こんなことを話していました。 「お前だけは、最後までこの世界で普通で、まともでおってくれ」 巡洋艦に乗っていた水原は戦争が異常なものであり、まともなものではないということを理解していたのでしょう。 そして、当時まだ何も失っておらず、その日を生きていたすずが、普通でまともな人間であったことを理解していたのでしょう。 戦争によって一度は異常な世界に足を踏み入れてしまったすずは、終戦とともに発した慟哭によって、ふたたび普通の世界に戻ってきました。 水原の願いは期せずして彼女のもとへ届いたといえるのです。 【解説】見ると元気をもらえる作品 C こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 「戦争映画を見て元気になる」という感想がいささか妙なものであり、ともすれば不謹慎であることは承知のうえです。 それでも、本作は見る人にある種の元気を与える映画だといえます。 確かに戦争は悲惨なものです。 戦争を体験したすずにとっても、これまでと同じ彼女のままではいられないでしょう。 しかし、すずにとって戦争はあくまで出来事のひとつであり、紆余曲折はあっても彼女の日常を変えることはありませんでした。 彼女の生活は戦争が終わっても、これまでと同様に続いていくのです。 物語のラストで、原爆に被爆し、街をさまよう少女がすずに引き取られるシーンがあります。 少女の母親は原爆によって右手を失い、亡くなっていました。 彼女はすずの失った右手を見て母親の姿を重ねたのでしょう。 戦争による右手の喪失が、誰かの新しい居場所を作るきっかけになっているのです。 それだけに、すずと少女の出会いは強く印象に残ります。 ふたりの出会いは、戦争があろうとなかろうと、もっとも大切にされるべきものはそこに生きる人間の強さだというメッセージのようにも見えるのです。

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【ネタバレ有】『この世界の片隅に』の感想とあらすじ・伏線を徹底解説!/2016年No.1の最高の名作でした!

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この世界の片隅にのネタバレ!すみちゃんの腕のアザはなぜ? この世界の片隅にのすみちゃんの 腕についたアザについてネタバレありで、まとめてみました。 すみちゃんの腕についたアザというのは 原爆症という原爆の放射能で受けてしまう被爆が原因です。 すぐ発症する人もいれば、 何十年後かに発症する人もいますし、 命を落としてしまう人もいます。 命は落とさなかったとしても、 ずっとその症状と付き合っていく人もいます。 どうして、すみちゃんが原爆症になったのでしょうか? 広島に原爆が投下された時、 すみちゃんとお父さんは、爆心地とは別の場所にいました。 しかし、お母さんは爆心地にいたんです。 そこで、行方不明になったお母さんを探すために すみちゃんとお父さんは爆心地へと向かったんですね。 その時にすみちゃんとお父さんは入市被爆してしまったのです。 この作品が凄いのは、登場人物の心情に寄り添うことでそのワケを「知る」意欲を押し付けがましくなく掻き立てるところだ。 — たけうちんぐ takeuching そしてその約2ヵ月後、 お父さんはなくなってしまいます。 では、 すみちゃんは、その後どうなったのでしょうか? 「すみちゃんのその後」をネタバレありで、まとめてみました。 【関連記事: 】 この世界の片隅にのネタバレ!すみちゃんのその後は? それでは、「この世界の片隅に」の 「すみちゃんのその後」についてこちらもネタバレありでご紹介します。 すみちゃんとお父さんが、探したものの、お母さんは見つかりませんでした。 お父さんの死後、すみちゃんは親戚のいる 草津に移ります。 ここははっきりとは描かれていませんが、 おそらく、 お母さんが帰ってくるかもしれないと信じて家で待っていたいすみちゃんを 親戚が草津で一緒に暮らすように提案したんだと思います。 爆心地にいたお母さんが生きている可能性は とても低くいのですが、 それを信じ切れないで帰りを待つすみちゃんを想像すると辛いですよね。 草津で生活をしながらだんだんと すみちゃんは体力が落ちてきます。 そんなすみちゃんのお見舞いを兼ねて、すずが訪ねます。 この二人のシーンは、とてもほのぼのとしていて 二人が子どもの頃に戻ったように話しています。 すみちゃんの体を蝕む原爆症が嘘のようです。 しかしそのシーンの後、 すみちゃんは「この世界の片隅に」のストーリーにでてきません。 もしかしたらどんどんと体力が落ちて 命を落としてしまったのかもしれませんし、 回復して草津で元気に過ごすことができたのかもしれません。 【関連記事: 】 できることなら回復して 幸せに生活していてほしいですね。 私がリビングに放置した「この世界の片隅に」を何度も読んでいる息子2が今日突然「お母さんすみちゃんってどうなったの?」と聞いてきて驚いた お母さんに何と答えろと。。。 多分「これは治るよ」と言ってほしいのだろうけれど、それは言えない とりあえず「その後の可能性は幾つかある」としたけれど — やいと。 maporhildur1225 この世界の片隅にのあらすじ 最後に、「この世界の片隅に」の あらすじ ネタバレ についてまとめました! 結末までは書きませんが、 ネタバレも少しありながらご紹介します。 【この世界の片隅にのあらすじ ネタバレ 】 「この世界の片隅に」鑑賞 ユジク阿佐ヶ谷 戦争中にも日常がある 食べて寝て 楽しいことに笑いあって ケンカだってする そうやって 夫婦の、家族の 絆を強めながら生きていく すずが最高にかわいい 前向きさ、ひたむきさ 周りに支えられながら たくましくなっていく姿が眩しかった — J KAMIJOYTOY 今回注目した登場人物のすみちゃんの姉である主人公すず。 絵を書くのが得意で いつも夢中になって書いているような女の子です。 ある日、周作という少年が、 父親と一緒にすずの実家にやって来ます。 小さい頃にすずと出会ったことがあり、 一目惚れしたのでお嫁にきてほしいとのこと。 すずは乗り気ではありませんでしたが、 周りから勧められて周作の家に嫁ぐことになりました。 戦時中なので裕福な生活はできないものの 周作の優しい父親と母親と4人で 仲良く過ごしていたすずですが戦争は激しくなる一方です。 そんな生活の中、 建物疎開をきっかけにして嫁ぎ先から帰ってきた 周作の姉径子と娘の晴美も入れて6人での生活が始まります。 その時、晴美を連れて出かけていたすずは空襲にあい、 時限爆弾を受けてしまいます。 晴美は命を落とし、すずは右腕を失くしてしまいます。 径子に責められ、さらに右腕がないことで絵も描けず、 晴美を亡くしてしまったことで自暴自棄になるすずでしたが、 それでもひたむきに生きていくストーリーです。 【関連記事: 】 まとめ 「この世界の片隅に」のすみちゃんの 腕のアザや、その後について ネタバレありでご紹介しました。 戦争が終わったからといって全部が終わったわけでは ないということがすみちゃんや お父さんお母さんから分かりますね。 【関連記事: 】 あわせて読みたい記事•

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