な な すけ。 市丸利之助

スケ(すけ)

な な すけ

河井家の概要 [ ] 河井家の先祖は、の家臣だったという説と、河井村出身のという2つの説がある。 本多氏家臣説では膳所藩主の娘が初代主・の嫡子・(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。 そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。 はじめに兄・清左衛門の家系は、その総領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。 で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。 弟の忠右衛門は、はじめ祐筆役となり、その後郡奉行となった。 この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。 継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、4年()に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。 つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。 河井継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。 その後、勘定頭、新潟町奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。 そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。 ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。 3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。 継之助の父で郡奉行を務めた4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。 ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、とも親交があった。 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。 また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。 こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年()にに抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。 継之助の祖父までの新潟町奉行の就任期間についてはを参照。 なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。 まず第1に、長岡藩のに「奉行格」という家格は存在しなかった。 そして第2に、歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある町奉行や郡奉行などとは別に長岡藩では、を補佐する役職として「奉行職(御奉行)」が存在し、藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義の老職)にもなった。 継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格」に就任している。 この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。 したがって、河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。 加えて奉行と奉行格を混同する場合もあるが、厳密にいえば奉行格は「奉行同格」(奉行と同等の格式)を指し、奉行本職に就任したわけでない。 ちなみに「長岡市史」では町奉行は兼務が原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭に就任した可能性が高い [ ]。 修養・遊学の時期 [ ] 誕生〜青年期 [ ] 河井継之助邸跡にあった2本の松の木(明治時代の撮影)。 号の「蒼龍窟」の由来とされる。 文政10年(1827年)、下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。 幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。 12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。 その後、の崇徳館でを学び始め、その際、都講の高野松陰の影響でに傾倒していった。 13年()に元服。 秋義を名乗る。 信堅系の河井家の当主は、元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、河井継之助秋義は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。 17歳の時、継之助は鶏を裂いてを祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。 その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。 3年()に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。 なお、梛野氏は安政の藩政改革を主導した村松忠次右衛門の母方であり、でも藩主嗣子・牧野忠訓の附役に梛野弥五左衛門が見えるので、姉婿・佐野与惣左衛門(武鑑で附役になっているのが確認できる)同様にこの藩主側近一族との縁組が継之助の出世にプラスに作用した可能性は高い。 継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏議書の類の本をよく写本した。 また、読書法についても後にとそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。 こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。 さらにこの時期には(130石)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、(350石、のち奉行役加判)、(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。 このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯。 継之助の妻の縁者)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、継之助を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。 初めての江戸遊学と藩政への登場 [ ] 嘉永5年()の秋頃、継之助はに遊学する。 江戸にはすでに三島やらがの許に遊学に来ていた。 継之助はまず、三島を仲介に(茶渓)の紹介での門をくぐった。 また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。 継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。 当時、大坂のにいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。 翌嘉永6年()、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。 斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる。 一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。 ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。 久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。 そのため継之助は、門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。 同年、が来航すると、当時老中であった藩主・は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。 それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。 ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。 反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。 そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。 藩政の刷新を企図し帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。 この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。 その後、とくに何もないままの日々を過ごす。 2年()、忠雅の世子・のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。 しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。 この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに奥羽へ遊歴した。 安政5年()、家督をついで外様吟味役になると、さっそく宮路村での争いを解決へと導いた。 備中松山・長崎への遊歴 [ ] 安政6年()正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。 そしてさらなるを修めるため、のの教えを請いに西国遊学の旅に出る。 初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。 山田の許で修養に励む間、佐賀、長崎、熊本も訪れ、知見を広める。 藩政に忙しい山田に代わり後に墓碑を書くことになるが相手をする。 翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。 山田方谷に譲ってもらったに書いてもらった忠告を、佐久間象山と同じく結局守れなかった。 藩政の主導者へ [ ] 京都詰・江戸詰に任命 [ ] 2年()、藩主・がになると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年()の正月に上洛する。 継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。 しかし、4月下旬に攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。 だが9月、忠恭は今度はに任命される。 そして継之助はに命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。 その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸主・を罵倒してしまい、結局この責任をとるかたちで公用人を辞し、帰藩した。 郡奉行就任と藩政改革の開始 [ ] 河井継之助がファブル・ブラントから購入した書籍代金の受領書(『河井継之助伝』今泉鐸次郎 著、1931年刊より)。 歩兵戦術書や地理に関する書籍などを購入している。 慶応3年()10月、がを行うと、中央政局の動きは一気に加速する。 この慶喜の動きに対し、討幕派は(1868年)にを発し、幕府などを廃止する。 一方長岡藩では、藩主・忠恭は隠居しが藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。 そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。 しかし、それに対する反応は何もなかった。 翌慶応4年()、鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、が始まる()。 大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。 藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。 暴落した米をその金で買って函館へ運んで売り、またとの為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。 同時にイギリス人の武器商人のウォーター、アメリカ人の武器商人のスミス、ファブルブラント商会(C. FAVRE BRANDT)、などから、、、、(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。 特にガトリングガンは当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持していた。 獨立特行 [ ] 新政府軍が征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県)に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。 その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えての影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。 小千谷談判の決裂 [ ] 5月2日(6月21日)、新政府軍監だったのは恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷のにおいて会談した。 継之助が「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、討幕と会津討伐の正当な理由は何か、旧幕府や会津を討伐すると言いながら本当は私的な制裁や権力奪取が目的なんだろう、長岡領内への侵入と戦闘は断る」と言った。 継之助の問い掛けと正論に岩村精一郎が反論できずに談判が決裂した。 北越戦争の開戦 [ ] 北越戦争を描いた。 画題は『越後国上杉景勝家督争合戦』であるが、時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い()に見立てて描いたもの。 一曜斎国輝()作。 長岡藩は7万4,000石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。 長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、官軍に恭順を主張していた世襲家老首座のは交戦状態となる直前に出奔。 世襲家老次座のや着座家の三間氏は終始継之助に協力した。 先法三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍への開戦前には恭順を主張するも開戦決定後は藩命に従った。 上級家臣のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。 継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。 北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。 しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、()にを奪われた。 この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模なが発生する。 ()に発生した吉田村・太田村(現在の)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。 長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して()までに全て鎮圧した。 これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。 継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。 また、多くの領民が処罰され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。 その後()、今町の戦いを制して逆襲に転じる。 ()夕刻、敵の意表をつく渡沼作戦を実施し、()に長岡城を辛くも奪還する。 の証言によると、奇襲作戦の最中、新町口にて河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。 長岡郷土史によると、新町口では無いところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。 指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。 これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。 一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。 長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の()に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。 これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。 後年、はで継之助の戦術を研究した卒業論文を執筆している。 河井継之助の最期 [ ] 墓地にある河井継之助の墓 重傷の継之助は1人で歩けず、会津へ向けてを越える際、「 八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。 峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。 継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来たの診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。 しかし、この時すでに継之助の傷はにより手遅れな状態にあった。 継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなくと行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。 またには武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。 後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。 継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、()に塩沢村(現・福島県)に到着する。 塩沢村では不安定な状態が続いた。 ()の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。 翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。 そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。 なお、継之助の終えん家(矢澤家)は昭和36年(1961年)、只見川電源開発による水没のため、現在は福島県只見町の内に移築されている。 継之助の葬式は会津城下にて行われた。 遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下 現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。 実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。 現在は臨済宗 妙心寺派 大寶山 建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑(「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑)が残されている。 また、只見町塩沢の医王寺にも村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある。 戦後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。 そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。 しかしその後、継之助の墓石は彼の藩政改革に反発する者や長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたと伝わる。 このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は、継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。 一方河井家は、主導者であった継之助がすでに戦没していたため、政府より死一等を免じる代わりに家名断絶という処分を受けた。 忠恭はこれを憂い、森源三(継之助の養女の夫)に新知100石を与えて継之助の家族を扶養させた。 16年()に河井家は再興を許され、森源三の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。 略年譜 [ ]• 10年():誕生。 13年():元服。 天保14年():生贄の鶏を裂いてを祀り、輔国を誓う。 5年():最初の江戸遊学。 、(茶渓)、らの門をくぐる。 嘉永6年():来航。 藩主に建言書提出。 御目付格評定方随役に任命され帰藩。 2ヶ月で辞職。 4年():家督を相続。 外様吟味役に任命。 安政5年():江戸へ再度遊学のため長岡を発つ。 安政6年():古賀の久敬舎に再入学。 西国へ遊学、のに入門。 その間、長崎にも遊歴。 元年(1860年):江戸へ戻る。 横浜でファブルブランドやエドワード・スネルらと懇意になる。 3年()• 1月、京都詰となる。 藩主の所司代辞任を要請。 9月、公用人として江戸詰。 忠恭の老中辞任を要請。 叶わず辞職、帰藩。 元年():外様吟味役再任。 3ヶ月後、に就任。 藩政改革を開始。 慶応2年():を兼帯。 慶応3年()• 3月、評定役・寄会組になる。 4月、奉行格加判。 を解決。 但し翌年11月に再燃。 10月、年寄役(中老)。 を受け、12月に藩主と共に上洛、朝廷に建言書提出。 慶応4年()• 4月に家老。 閏4月に家老上席、軍事総督に任命。 5月、小千谷談判決裂。 新政府軍と抗戦開始。 8月、戦闘中の傷がもとで死去。 享年41。 人物像 [ ] 河井継之助の書(長岡市立中央図書館蔵)。 さほど背は高くなかったがの鋭い目を持ち、声がよかったという。 徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。 しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。 物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、徳川幕府の崩壊を早くから予見していた。 藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。 河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったがすでに若いころから藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。 「私は十六歳の時、ある人の紹介で古賀の塾へ入りましたが所が、私の席の隣りに、眼のギョロッとした三十内外に見える人がおりました。 名を聞きました所が、越後の河井継之助であった。 ある日の事、河井の股へ大きな腫れ物が出来まして、寝起きも不自由な様であったけれども、少しも苦しいの、疲れたのと言う色がなく、勉強しておられた。 それで少しお休みになって治療をなされたらよろしかろうと言いますと、河井の申しますには、「人の世に処するというものは、苦しいことも嬉しいことも色々あるものだ。 その苦しいことというものに堪えなければ、忠孝だの、節義だの、国家の経綸だのと言うた所で、到底成し遂げられるものでない。 この苦しいことに堪えるということは、平生から練磨しておかなければ、その場合に限ってできるものでない。 こういう腫れ物のできて苦しむのは、誠にこの自分の志の強弱を試すのによい時機であるから、こういうとき、学問の上に力を得たか得ないかという事を試しているのである』そう言われた」 遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し 「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。 また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。 明治維新後、長岡の復興に尽力したで知られるは親類である。 小林の人物像が語られる時においては継之助は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」としぶしぶ開戦を支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。 北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。 なお河井継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。 例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。 「弾除けにするため町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないしは批判的な逸話もある。 しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないため信憑性が低く、後世の作り話と思われる(外部リンク参照)。 河井継之助に関する主な史料 [ ] 継之助の行動や人となりを知りうる史料に関しては、下記以外にも刊本・未刊本を問わずあるが、それらは基本的に戊辰戦争前後の長岡藩の動向について記されたものであるので、ここではあえて外した。 『河井継之助伝』 [ ] 著。 初版は43年()、博文館。 6年()に目黒書店から増補改版。 昭和55年()および8年()には象山社から増補版の再版が刊行。 継之助に関して編まれた唯一の刊本史料(伝記)であり、現在ある関連書籍はすべてこれを底本にして書かれている。 先祖は牧野家の家臣で自身は新聞記者・郷土史家であった今泉が、各地より蒐集した史料、関係者からインタビューした情報を基礎に構成。 具体的には河井継之助の史料(書簡など)やそれ以外の者の関係史料からの引用と河井継之助の家族や関係者、またその関係者の子女などからの証言の2つから成り立っている。 すなわち、史料学的に見れば『河井継之助伝』は2次史料・2級史料に分類される。 引用史料の中には「追考昔誌」「思出草」など、その原本や写本が現存しているものもある。 これらについては、著者が便宜的につけた表題であり、史料名そのものではない)。 また、戊辰戦争前後の事について書かれた現存の引用史料は残されたメモや当時の史料、記憶をたよりに後年編まれたものや回想録である。 ゆえに、これら『河井継之助伝』中の引用史料の扱いについても内容をそのまま鵜呑みにはせず、他史料で裏付けをとる必要もある。 小諸騒動にあっては、維新後の混乱期にごく短期間だけ小諸藩上席家老となった牧野隼之進成聖の嫡子・成功からの聞き取りに依拠したと部分が多いものと推察され、これと不仲(或いは反対派)であった牧野隼之進成聖の本家となる牧野八郎左衛門成道、及び真木要人則道、太田宇忠太一道、前藩主夫人の楠子などの評価を低く(或いは悪役に近く)書いている恨みがあると指摘する文献(牧野家臣団・加藤誠一著など)もある(参考となるページ・)。 また小諸藩重臣の知行、家禄の引用が極めてアバウトであるとも指摘されている。 小諸騒動はアカデミックな場で僅かに扱われているが、小諸騒動の継之助の調停については小諸藩文書等の小諸側の文書・史料からは継之助の具体的な事績・活躍がほとんど伝わらない。 関係者の証言に関しても、当時の様相を垣間見る上で貴重な手がかりである。 しかし、かなり年月を経たあとのものでもあり、そこには証言者本人の主観的判断や感情、記憶の入れ違いも存在しうる。 ゆえに、史料学的見地からもこれらの証言を扱う際にも慎重さを要する。 本文中で引用されている継之助の書簡についても、原本はごく一部を除けば現存していない。 しかしながら現在、継之助や幕末期長岡藩に関する1次史料(とくに藩政史料)がほぼ皆無の状況である以上、『河井継之助伝』は継之助の人物像や幕末期の長岡藩の様相を知る上で数少ない好史料であることは否定し得ない。 『塵壺』 [ ] 『塵壺』。 縦約8cm、横約17cm。 河井継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。 安政6年(1859年)から同年()までの西国遊歴中の事を記す。 原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。 昭和13年(1938年)には和同会によって 、また昭和49年()には安藤英男 校注『塵壷:河井継之助日記』<東洋文庫257>(平凡社)として活字化もされている。 昭和52年(1977年)には、新潟日報事業社より渡辺秀英校注付き桐箱入りの複製本が、500部限定で製作されている。 江戸〜備中松山〜長崎〜備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。 そのため、特筆すべきことのないようなときは日付と天気しか記していない日もある。 数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶により記述の細かさにばらつきがあったり別記を意図して内容を省略したりもしている。 ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。 西国遊歴は、これ以降の継之助の政治的行動を深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置を占める出来事であり、本史料は遊歴の内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる。 備中松山から江戸までの帰路については『塵壺』には記されていなかったため、その日程や内容についてはしばらくの間不明であった。 しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡が発見されたため(『長岡市史』資料編3に所収)、江戸までの道中の日程や大まかな様子が判明した。 なお、京都〜備中松山間において行きが山陽を通ったのに対し、帰りは山陰を通って帰った事がこの書簡で初めて分かった。 評価 [ ] この節で示されている出典について、該当する記述が 具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、。 ご存知の方はをお願いします。 ( 2018年10月)• 「長岡藩では河井を抑える人がなかろう。 どうも彼の男は豪ら過ぎる。 彼の男を北国の辺りの役人にするには惜しい」• 「あれはナカナカの人物であったが惜しいことをした。 河井のような者は少ない」• 「河井継之助は得易からざる人物である。 不幸順逆途を異にしたので、賊名を負うて斃れたが、もしも今日世にあるならば、台閣にたつべき一人である。 確かに一代の傑物である」• 「兄は俗謡を歌うことが好きで、就中あの長岡甚句の盆踊りと来ては大好きでありました」• 「兄は火には可笑しいほど臆病でありました。 実に火事ほど恐ろしいものはない、他人から来る火は仕方がないが、自分から出した火は取り返しがつかぬと、平常自分も家族の者も戒めておりました」• 「河井というやつはおかしな事を言うやつだ。 河井とはこの塾に長くいたけれども、一度も話した事がない。 しかしながら長い間に色々な人と会ったが、先づ人物としては河井程の者を見た事がない。 おれは河井の碁を打ち、将棋を差す所を見て河井の人物を知った。 今までにあんな愉快な将棋碁というものを見た事がない。 まるで眼中勝敗という事がなく、しかも勝ちを制して行く」• 「字を書くことが誠に下手であったが、しかし気骨があった。 塾の悪口に『河井は字を書くのではない、字を彫るのだ』と。 その字を書く有様が丁度、版木屋が版を彫る位に骨が折れる様に見える。 それに書物の数は一向多く見ない人で、読む物は必ず写している。 多く宋明の語録と明清の奏議類を読んで書物には誠に狭いけれども、歴史の事柄や、当世の事務を談ずる事においては、塾に一人でも河井に当るものがない」• 「その顔つきは厳酷の気味ありしだけに、その性質もまた厳格なりしが、弁舌爽快にして、気魄大に、その遣り口の万事豪傑肌なりしが如くに真実豪傑なりき」• 「旦那様は平素厳しい方でいらっしゃいます」• 「余は今日の明治元勲と称する、いわゆる元老諸公には、多少の面識あるも、未だ河井氏の如く『鋭い人』、『威厳ある人』を見ず。 親しむべく狎れるべからずとは、眞乎河井氏においてこれを見る」• 「河井氏は自身の頗る厚かりしだけに、道理に叶わぬことあれば、寸少の仮借なく是非を弁折して推理されしより、いずれもその厳しきに苦しみしかど、また美事善行に対しては、『豪い豪いそれはよかった』と激賞措かず、あたかも己の事の如くに満腹の情を禁じ能はざる風情なるより、先に氏の厳責に、余りの事とと腹立てる者も、この刹那に『コロリ』としてしまい、感激のあまり、死もなお辞せざる底に心服するに至れり。 百二十石の小禄に身を起こし、終に一藩の執政となり、彼の如くに藩政を改革し、また七万四千石の一小藩を掲げて数万の西軍に当り、半歳の久、その意を逞しうするを得ざらしめしに徴するも、氏が凡庸の器に非ざりしを知るべし」• 「河井君と話をする時には、息の油断も出来ない。 あんなに早く理屈が見えて、話に切込みの烈しい人は少ない。 確かに近代の豪傑である」• 「眼の玉が丸く鋭く、お体の丈もあまり大柄ではなく、中肉中背と申すほどでございましたが、眼の玉だけは、一遍見ると忘れることができぬほど偉そうでございました」• 「性剛邁、頗る才略あり。 極めて自身力強く、また豪気にして言語明晰。 談論風発、ほとんど当るべからざるの概あり。 その人に接するや、城府を設けず、好んで古今の人物を品隲す。 一朝志を得て要路に立つに及び、裁決流るるが如く、果断決行、いわゆる人の言い能わざる所をいい、人の為し能わざる所を為す者。 ゆえに往々同僚及び部下を罵倒して寒心せしめ、また俗吏をして驚心瞠目せしむることあり。 且つ事に臨み、その志望を達せんとするに際しては、世論の趣向、物議の如何に頓着なく、また利害得失を顧念計量するの遑なく、邁往猛進、彼岸に達するを以て、快と為すの風あり。 真に北越無二の奇傑というべし。 惜しいかな己を信ずるの厚き、頑強に失して、人を容るるに吝に、かつ名利の念、心頭を去らずして、すこぶる事を好むの傾きありしが為に、終に名利の犠牲となりて悲惨なる最期を遂ぐるに至れり」• 「戊辰の役に、命を一弾の下に殞したは、実に国家の為千古の恨事である。 今日もし廟堂の上にあらしめたならば、今の内閣諸公、誰かその右に出づる者ぞ」• 「河井氏はフランスの事情を研究されたが、特に兵器のことについて非常に熱心に調べておられた」• 「性豪活、つとに俊邁の気あり。 身体甚だ低からず。 肥瘠の中を得、色黒く、眉秀で、眼光烱々として人を射る。 一喝睥視すれば、即ち人仰ぎ見る能わず。 言語清朗にして、最も弁舌に長ず。 叱咤席を打て弁ずるときは、議論風生、凛として犯すべからざるの威あり。 我が越においては、不識公()以後の一人者なり」 河井継之助を扱った作品 [ ] 書籍 [ ] 河井継之助を扱った主な著書を挙げた。 幕末期の長岡藩関係の著書やビジネス系雑誌の記事などは含まない。 また同一の著者に河井継之助について書かれた複数の著書がある場合には、代表的な一冊のみを挙げた。 『少年読本第三編 河井継之助』(戸川残花()著、博文館、1899年)• 『北越戊辰戦争と河井継之助』( 著、イデア書院、1928年)• 『河井継之助』(「人物研究叢刊第17」、神村実 著、金鶏学院、1933年)• 『英雄と学問 河井継之助とその学風』(「師友選書第12」、 述、明徳出版社、1957年)• 『』( 著、新潮社、1968年)• 『河井継之助のすべて』(安藤英男 編、新人物往来社、1981年)• 『河井継之助余聞』(緑川玄三 著、野島出版、1984年)• 『河井継之助写真集』(安藤英男 著、横村克宏 写真、新人物往来社、1986年)• 『愛憎 河井継之助』(中島欣也著、恒文社、1986年)• 『河井継之助の生涯』(安藤英男 著、新人物往来社、1987年)• 『武士(おとこ)の紋章』( 著、新人物往来社、1990年)• 『良知の人河井継之助 義に生き義に死なん』(石原和昌 著、日本経済評論社、1993年)• 『小説河井継之助 武装中立の夢は永遠に』( 著、東洋経済新報社、1994年)• 『北越の竜河井継之助』(岳真也 著、角川書店、1995年)• 『河井継之助 薩長に挑んだ男』(『歴史読本』第40巻第7号「シリーズ人物検証 7」、新人物往来社、1995年)• 『河井継之助』( 著、成美文庫、1997年)• 『歴史現場からわかる河井継之助の真実』(外川淳 著、東洋経済新報社、1998年)• 『河井継之助 立身は孝の終りと申し候』(稲川明雄 著、恒文社、1999年)• 『河井継之助 信念を貫いた幕末の俊英』( 著、PHP文庫・PHP研究所、1999年)• 『河井継之助 吏に生きた男』(安藤哲也 著、新潟日報事業社、2000年)• 『河井継之助と明治維新』(太田修 著、新潟日報事業社、2003年)• 『怨念の系譜 河井継之助、山本五十六、そして田中角栄』( 著、集英社、2003年)• 『龍虎会談 戊辰、長岡戦争の反省を語る』(山崎宗彌 著、2004年)• 『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』(林田明大 著、三五館、2006年) 論文 [ ] 河井継之助について考察した主な論文を挙げた。 幕末期の長岡藩関係の論文などは含まない。 吉田公平 「鈴木無隠の「河井継之助言行録」について」(『東洋大学中国哲学文学科紀要』14号、2006年)• 『長岡郷土史』所収の該当論文(長岡郷土史研究会編、第1〜44号、1960〜2007年) ドラマ [ ] 過去に河井継之助を描いたテレビドラマがいくつか制作されている。 『』 昭和52年()〜放送の。 司馬遼太郎の小説『』『』『』『』の4作を原作とし、ドラマの主役は大村益次郎だが、継之助は準主役級で、後半の多くの話に登場する。 演じるの人気と相まって「河井継之助」の名が全国へ浸透することにつながった。 『最後のサムライ河井継之助』 平成11年()放送の制作による2時間の年末スペシャル。 「島田紳助の2000年に喝っ! スペシャル 幕末を駆け抜けた驚異のオレ流サラリーマン」という副題がついており、歴史の偉人を題材にした教養バラエティー番組の延長上に位置する作品。 が演じた。 『』 平成17年()放送の・制作による2時間半の年末大型時代劇。 原作に関する情報は不明だが、大筋で小説『峠』の内容を踏襲している。 が演じ、18代目勘三郎襲名記念作品でもある。 『鉄と麦と赤レンガ 〜河井継之助と外山脩造 志のリレー〜』 平成22年()放送のUX()制作によるスペシャル番組。 河井継之助の志を継いだ弟子のが関西財界の基礎を築くまでを描いた歴史ドキュメンタリー作品。 再現ドラマの収録は継之助終焉の地である福島県で行われ、河井継之助記念館に保存されている「河井継之助 終焉の間」が使われた。 継之助役には一般公募で選出された宮村達哉(新潟市在住)が演じた。 『長岡城を奪還せよ』 平成27年(2015年)2月28日放送のUX()制作によるスペシャル番組。 が開戦してまもなく、新政府軍の奇襲攻撃により、はあえなく落城する。 本来なら城が陥落した時点で終戦となるはずが、長岡藩は加茂に集結した会津、米沢など諸藩の力を結集して、長岡城を奪還する。 加茂に集結したの諸藩が開いた作戦会議、「加茂軍議」で会津、米沢といった大藩を御し、小藩の長岡藩が主導権を握るといった離れ業を演じたのが継之助である。 北越戦争の端緒となった「小千谷談判」、「加茂軍議」、敗走する長岡藩士とその家族等が抜けた「」の3局面を軸にドラマで「再現」。 と河井継之助記念館(新潟県長岡市)館長 稲川明雄のトークと共にそれぞれの場面、局面の厳しさ、の真髄を切り取っていく。 アニメ [ ]• 『』 2006年10月6日から2007年4月6日(配信開始日基準)までインターネットによる動画配信サイト・GyaOにて公開された、日本の連続オリジナルアニメ(Webアニメ)作品である。 全26話。 河井継之助(かわい つぎのすけ) 声 - 長岡藩の家老。 藩を守るため「闇のオークション」にてガトリング砲を落札。 オークションの際は針尾玄藩に護衛を任せていた。 北越戦争で足に傷を負い死亡。 舞台 [ ]• 『最後のサムライ』(3月4日 - 15日、、主演: 、脚本: 、演出: イヴァン・キャブネット) 参考文献 [ ]• 今泉鐸次郎『河井継之助伝』 目黒書店、1931• NHK「火を噴くガトリング砲」『歴史への招待14』 1981• 長岡市教育委員会、長岡市立中央図書館『長岡歴史事典』 長岡市、2004 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 安田鉚蔵を安井鉚蔵、槙内蔵介を植内蔵介と誤記または誤植をして出版された書籍があり、これより孫引きをしたと推察される書籍・文献がかなり存在し、この誤りを踏襲している。 長岡藩士に植姓・安井姓の士分は存在しない。 但し客分の筋目であった先法三家は藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる(もっとも藩士・村松忠治右衛門編集とされる「長岡藩戊辰戦争の記」(『長岡藩戊辰戦争関係資料集』『長岡市史双書』No. 31、1995年)には銃卒小隊長として先法家の一人と思われる槇小太郎が実戦に参加している記録がある)。 その他にも、などを死因とする説もある。 出典 [ ]• 河井継之助記念館 2018年11月10日閲覧• 『河井継之助の生涯』、pp. 175-176• 河井継之助記念館 2018. 3アクセス• 福島県観光交流局観光交流課 2018. 3アクセス• 産経ニュース 2018年4月30日 -2018年9月26日閲覧• 『長岡歴史事典』、p. 「鈴木総之丞日記」慶応4年5朔日の條 『河井継之助伝、p. 278』• 『歴史への招待14』、pp. 8-9、p. 17、p. 東洋経済(2017年10月17日)2017年10月19日閲覧• 神村実『河井継之助』(金雞学院、1933年)• - 国立国会図書館デジタルコレクション• 神村実『河井継之助』(金雞学院、1933年)• 神村実『河井継之助』(金雞学院、1933年)• 神村実『河井継之助』(金雞学院、1933年)• 神村実『河井継之助』(金雞学院、1933年) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (新潟県長岡市、2006年12月27日開館)• (福島県只見町、2010年4月17日改装)• - 新潟県長岡地域振興局 企画振興部• - 長岡観光コンベンション協会• - YouTube• - YouTube.

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な な すけ

この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 初代中村錦之助 2. 萬屋錦之介 出身地 職業 ・ ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台 活動期間 - 活動内容 俳優・映像制作会社経営 父 母 小川ひな 兄弟 (長兄) (次兄) (次々兄) (弟) 妻 1961年 - 1965年 1966年 - 1987年 1990年 - 1997年 子 (長男・淡路の連れ子) 男子 (次男・淡路の連れ子) (三男・淡路との実子) (四男・淡路との実子) 当たり役 映画 『』菊丸 『』源氏九郎 『』 『』 『』番場の忠太郎 『』飯倉七代 『』関の弥太郎 『』丹下左膳 『』 テレビドラマ 『』柳生宗矩 『』 『』叶刀舟 『』速水右近 『』新九郎 『』平松忠四郎 『』 『』 『』 受賞 主演男優賞 1963年『』 目次• 概要 [ ] 満4歳になる直前に、歌舞伎の初舞台を踏み、以降39歳までを名乗り、10月に小川家一門がをから「」に代えた1年後の11月、40歳を迎えた時に芸名を萬屋錦之介に改めた。 伯父に、叔父にがいる。 俳優のは弟で、、、、、はそれぞれ甥にあたる。 妻はいずれも女優の(初婚)、(再婚)、(再々婚)。 長男で俳優のと、芸能人ではない次男は淡路の連れ子である。 実子は淡路との間に三男の(元俳優、1990年にバイク事故死)と四男の小川哲史(の芸名で元俳優、2004年に窃盗罪・家宅侵入罪で実刑判決、2010年に自殺 )。 略歴 [ ] 暁星小学校卒、旧制暁星中学校を2年で中退。 初名は 中村 錦之助。 立女形を父に持つの御曹司で、1936年11月歌舞伎座で初舞台。 長兄・種太郎(のち)、次兄・梅枝(のち)、三兄・と同時で、満4歳であった。 女形・立役(男役)ともに務めて歌舞伎界にて役者修業を積んでいた。 特に女形として評価が高かったが、四男であり、歌舞伎界で主役級俳優を目指すのは困難な状況だったが、当時を抱え、ひばりの相手役として若手男優を探していたが着目し、錦之助を映画界にスカウトし、錦之助は転身を考えた。 しかし歌舞伎役者たちからは「映画転出は許さない」と抗議が殺到し、当時のでは「役者たちに歌舞伎・映画両方での活動を許せば、映画で人気を得た若造たちに梨園の秩序をかき乱される」という見方が大勢であり、父の時蔵は「中途半端はいけない。 映画界に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい。 もし映画で失敗しても歌舞伎に戻ることは許さない」と錦之助に決断を迫ったといわれる。 結局錦之助は歌舞伎を断念する道を選び、1953年11月15日歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年2月に映画界に転向する。 次々兄のは、錦之助と弟の賀津雄(嘉葎雄)が入りすると、自らも梨園を去って東映のプロデューサーとなり、弟たちを背後から支えた。 波紋を呼んだ錦之助の映画転身であったが、転身を勧めてきたのが、この当時にすでにスターだった美空ひばり側だったことも事態に負の要素となったといわれる。 その証左に、錦之助は映画で名を成してから父を数本の映画に出演させたが、その際に父は特に歌舞伎をやめる必要はなかったことがあげられる。 美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、を経て東映に移籍。 同社製作の映画『』に出演し、大ヒットにより一躍スターとなった。 以降はやらと共に映画の看板スターとなり、日本映画界の全盛期を支えた。 『』シリーズ、『』シリーズは当たり役となり、特に役はライフワークとなった。 その明るく気さくで豪快な性格から俳優仲間や裏方のスタッフなど、多くの人たちから「錦兄ィ」(きんにい)「錦ちゃん」と慕われ、親しまれた。 レコード歌手としてもデビューし、「やくざ若衆」「いろは小唄」などの曲をリリースしている。 昭和30年代後半から映画はテレビに人気を奪われ、映画産業が斜陽化の様相を呈するようになった頃から、錦之助はへの進出を図る。 東映俳優労働組合の委員長に就任したが、に内部のを収拾できなかったこともあり東映を退社。 に「中村プロダクション」を設立して独立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出した。 この頃の出演ドラマとして、『』や『』、『』、『』、『』等がある。 1956年の小川家による地方巡業『』『 八段目道行旅路の嫁入』で舞台に復帰。 毎年6月に東京・で定期興行を打っていた。 なお歌舞伎座での興行でありながら、錦之助の演目はほとんどが歌舞伎ではない新作時代劇であり、歌舞伎であっても全てが明治以降に作られたいわゆる「新歌舞伎」であった。 本人も古典・伝統歌舞伎をやるつもりはなく、「子別れ(演目の一つである"重の井子別れ"のこと)なんてできねぇよ」と言っていた。 映画界入り後に舞台をつとめた歌舞伎の演目は次のとおり。 『紅葉狩』(1971)• 『 御浜御殿綱豊卿』(1972)• 真山青果『頼朝の死』(1973、1982)• 真山青果『』(1976)• 『番町皿屋敷』(1974)• 『』(1980、1994)• 『』(1956年地方巡業)• 『 八段目道行旅路の嫁入』(1956年地方巡業、1994)。 復帰狂言『お祭』は、の「待ってました!」掛け声の後に役者が「待っていたとはありがてえ」という、復帰にからめたお馴染みのもの。 『道行旅路の嫁入』は本人は「ごちそう」(特別出演)として一瞬登場するだけである。 最晩年の1994年に演じた『極付幡随長兵衛』の長兵衛役は二代目吉右衛門のを忠実に演じたが、水野役のとは子役時代からの友人である関係から、錦之介は「孝夫ちゃんと一緒にできる」と久々の共演を楽しんでいた。 なお、歌手として「錦ちゃん祭り」というライブ・イベントを各地で開催している。 1971年10月、歌舞伎座の三代目中村時蔵十三回忌追善興行で「小川家」で一門をなすことを宣言し、屋号を萬屋に、定紋を桐蝶に改めた。 翌1972年に自身の芸名も中村錦之助から「 萬屋 錦之介」と改めた。 この際、名を()により「錦之 助」を「錦之 介」と変えている。 1978年公開の映画『』で主演したが、錦之介が12年ぶりに東映に復帰した作品となった。 錦之介演じるの「 夢でござる」という台詞は話題になり 、作品も大ヒットとなった。 1979年、テレビ朝日開局20周年記念番組『』で主演を務めた。 錦之介はに「45歳になったら必ずをやります。 その時は監督をして欲しい」と依頼していたという。 この作品で錦之介は、舞台・映画・テレビの全てで内蔵助を演じたことになった。 1982年、賞受賞。 1982年、中村プロダクションが倒産し、莫大な借金を抱えた。 さらに、歌舞伎公演の最中に倒れ、入院し、と診断され、さらに同年8月には摘出手術をし、同年11月退院。 翌1983年に重症筋無力症を克服した。 1990年、三男の晃廣が事故死。 右目剥離を発病。 1996年、長年の芸能活動を文化庁から表彰される。 同年を発症し、『』の役を降板した。 1997年3月10日午後2時41分、入院先のの東病院でのため死去。 64歳没。 に発表された『』の「・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」も同じく第9位になった。 人物 [ ] 1954年 生前の錦之介を知る人の話を総合すると、相当な凝り性だったようである。 『子連れ狼』でを演じたときには、胴太貫の使い手である一刀に影響されてか、一門の刀コレクションを始め、多い時にはその数が数百本に達したという。 また、占いにも凝っていたらしく、『』のモロボシ・ダン役で知られる森次浩司がに改名したのも、占い好きの彼の助言によるという。 また、自身も方位学に凝り、ひどい時には、方角が悪いといって、のために家に帰らず、ホテルに泊まることもしばしばであったという。 その結果、出身で退団後女優活動をしていたと不倫関係となり、当時の妻と離婚。 甲と再々婚することとなった。 歌舞伎界と別れた後も、いくつかの関わりを持っている。 甥のが襲名披露をする際は、自ら後見人を買って出て口上を述べ、歌舞伎界で後ろ盾のない獅童の力になろうとした。 また、の話によると、梨園の妻であった母親の存在が大きく、錦之介だけでなく、姑である母親の顔色もうかがわねばならなかったという。 また、屋号を萬屋にしたのは、母親の意向が強かったためとも言われている。 世界的スターであるが取締役のが製作する映画の常連であり、三船との共演も多かった。 テレビ時代劇では、錦之介は午後3時までしか撮影しないのが不文律となっており、オープン・セットやロケーションのナイト・シーンは、すべて〈ツブシ〉と呼ばれるで撮られた。 そのため、夜間撮影は錦之介以外のシーンに限られ、実際は殆ど無く、スタッフの間では「早く帰れる」と好評だった。 また、溺愛する息子達が子供だったころ『』の大ファンであり、「父ちゃんは偉い役者だって言うけど、仮面ライダーに出てないじゃないか! 」と言われ、『仮面ライダー』出演を本気でにオファーし、東映のスタッフ達を絶句させた。 当時はこういった大御所の俳優が特撮番組に出演することはあまり前例がなかったため、出演は叶わなかったが、息子達のために、地獄大使を演じていた友人の俳優・に頼んで、その衣装で潮に家に来てもらったことがあるという。 元のとは自宅が近所ということから、家族ぐるみの付き合いをしていた。 一方ではのファンでもあり、阪神の選手とも家族ぐるみの付き合いをしていた。 また、にも登録をしており、に優勝したヨロズハピネスなどを所有していたことでも知られる。 が後に語っていたところによると、錦之介が亡くなったことを知ったが「俺の兄弟の一人がいなくなってしまった」と語り、癌で闘病中だった自らの体調の悪化もあって錦之介の葬儀への参列を果たせずに残念がっていたという。 勝は錦之介が死去したわずか3か月後に他界している。 屋号「萬屋」 [ ] はに新しく制定した小川家の屋号である。 もともとは、小川かめ(嘉女)の生家「小川吉右衛門」家(屋号「萬屋」)にちなんだものである。 小川吉右衛門家は、「萬屋」という屋号で代々のをしていた。 つまり歌舞伎の関係者であった。 小川吉右衛門の娘であるかめは、三代目中村歌六の妻であり、初代中村吉右衛門(波野家を継ぐ)、三代目時蔵(小川家を継ぐ)の母であり、錦之介ら小川家5兄弟の祖母である。 次男三代目時蔵のみあえて母の実家の姓を名乗った。 三代目時蔵はそればかりでなく、小川家ごと「播磨屋」を脱して単独で屋号「萬屋」を名乗りたい意向を持っていたが、自身は果たせなかった。 錦之介ら遺児たちが1971年に「萬屋」を名乗ったのは、両家がもはや一門をなさないという主張であり、吉右衛門家への対抗意識による。 「萬屋」はそもそも中村吉右衛門家・小川家共通のルーツである。 このことは中村吉右衛門家も強く意識していた。 は初名を中村萬之助と名乗った。 また吉右衛門の弟子筋にも「萬(万)」の字をつけさせた(中村万之丞など)。 しかし、小川家が「萬屋」となった後は、中村吉右衛門家は「萬」の字を使わないようになったのである(例:中村万之丞は中村吉之丞と改めた)。 しかし9月、前年にが他界したため、本家ともいえる播磨屋が二代目吉右衛門とその門弟だけになるという状況となり、播磨屋の衰退を危惧したとの兄弟一門は、ふたたび屋号を播磨屋に戻している。 名跡「中村錦之助」 [ ] 錦之助は生前、母・小川ひなから、父や早世した兄の名跡である「中村時蔵」を襲名してその五代目となるように再三懇願されたが、本人は拒否を貫いた。 錦之助の名は本名の「錦一」に由来するもので、過去での歌舞伎に由来を持たない、まったく本人独自のものである。 もちろん初代である。 この名を歌舞伎・映画俳優時代を通じて名乗り続け、1972年に萬屋錦之介と改名した。 彼の息子は歌舞伎界には入らず、映画界に入ったものの大成せず、三男は交通事故死、四男が不祥事の末に自殺という結末だった。 そうとなれば、「中村錦之助」を名跡として復活させるには他人が名乗るしかない。 しかし、この名は歌舞伎・松竹から離れ映画界に転じてから、しかも映画・舞台の興行会社として松竹とは競合関係にある東映で大成した名である。 それゆえに、歌舞伎を仕切る松竹がタッチしたがらない名前、いわば的な存在である、と長らく言われ続けていた。 歌舞伎における軽い位置づけと裏腹に、映画界ではこの名の存在感があまりに重過ぎるため、このこともまた名跡復活にあたって壁になるかもしれないという懸念も長らく囁かれていた。 結局「中村錦之助」の名は、死後10年経った2007年4月2日、東京の大歌舞伎興行で、兄・の次男で、自身の甥である が、『鬼一法眼三略巻・菊畑』の虎蔵実は牛若丸と『双蝶々曲輪日記・角力場(すもうば)』の長吉、与五郎で二代目錦之助を襲名した。 「菊畑」の虎蔵実は牛若丸は初代が歌舞伎役者時代、最後に務めたゆかりある役どころである。 二代目錦之助はこの「錦之助」の名跡を「 歌舞伎では大したことのない名前」と語る。 「中村錦之助」という名は前述の通り映画界では威厳ある名前であるが、歌舞伎界においては全く軽いものである。 しかし二代目は「(映画界において大成した) 中村錦之助という名を歌舞伎に戻すのが私の役割」と語る。 まさに前例がない試みであり、二代目にとってみても生涯挑むべき目標とも言える。 萬屋は新興の一門であるにもかかわらず、男子に恵まれており、歌舞伎俳優となった者も多かったことから、「錦之助」以外のゆかりある名跡や名前は現在も全て使われている。 出演作品 [ ] 映画 [ ]• 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1961. 1961. 1961. 1961. 1961. 1961. 1961. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1963. 1963. 1963. 制作:東映京都• 1963. 1963. 1963. 1964. 1964. 1964. 1964. 1965. 1965. 1965. 1965. 1965. 1966. 1966. 1966. 1968. 1969. 制作:三船プロ 役名:• 1969. 1969. 1969. 1969. 1970. 1970. 1970. 1971. 1971. 1978. 1978. 1979. 1979. 1980. 1981. 制作:東映京都• 1981. 1982. 1985. 1989. 制作:西友 役名: テレビドラマ [ ]• (1966年、NET)• いのち (1966年、NET)• (1966年、TBS)• 真田幸村 (1966年、TBS)• (1968年、NTV)• (1969年、ABC)• (1971年) - 役• (1994年) - 役• (1971年、NET) - 役• ( ) - 速水竜之進 役• (1973年、NET)• 第15、16話 「」• 第26話 「直八子供旅」• (1973年、NET)• ( - ) - 役• ( - NET) - 叶刀舟 役• ( NTV) - 平松忠四郎 役• (1977年 ) - 速水右近 役• (1978年、KTV) - 役• ( - ANB) - 新九郎 役• ( ANB) - 大石内蔵助 役• ( - ANB) - 役• () - 役• () - 役• ( - CX) - 朝日奈河内守正清 役• (1981年、フジテレビ) - 小関十太夫 役• (1982年 TX) - 柳生宗矩 役• お春捕物日記〜危うし! 大岡越前 (1982年、フジテレビ) - 役• (1984年、フジテレビ) - 拝一刀 役• (1984年、フジテレビ)• ( ) - 役• ( NHK)• (1987年 NTV) - 役• ( NTV) - 笹野弥三郎 役• (1989年 TBS) - 新出去定 役• スペシャル「江戸は燃えているか! 加賀百万石の陰謀」(1990年 テレビ朝日) - 日向内記 役• (1991年 ANB)• (1991年 CX) - 雲霧仁左衛門 役• (1992 CX) - 煙の富蔵 役• 鬼麿斬人剣 (1995年 ANB・東映) - 源清麿 役• (1996年 TX) - 卯助 役• (1996年、) CM [ ]• - 脚注 [ ] 注釈 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2017年8月)• 萬屋錦之介 『わが人生 みち 悔いなくおごりなく』 出版局、1995年• 『萬屋錦之介 芸道六十年回顧写真集』 東京新聞出版局、1997年-錦之介本人が企画したが、図らずも追悼出版となった• 錦之介映画研究会編 『中村錦之助 東映黄金時代』 、1997年-追悼出版• 錦之助映画ファンの会編 『一心錦之助 オマージュ中村錦之助・萬屋錦之介』 、2009年• 『萬屋錦之介』 、1978年-中村プロ監修の写真集• 島英津夫 『親父の涙 萬屋錦之介』 、 関連人物 [ ]• :映画、テレビドラマでを主演。 :脚本家・監督、師であった• 外部リンク [ ]• - (英語)•

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鳥すけ

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は 鹿介(しかのすけ)。 巷間では山中鹿介の名でよく知られる。 幼名は 甚次郎 (じんじろう)。 の1人。 優れた武勇の持ち主で「 山陰の麒麟児」の異名を取る。 の筆頭にして、尼子家再興のために「 願わくば、我に七難八苦 を与えたまえ」とに祈ったで有名。 生涯 [ ] 出自・若き日 [ ] 幸盛の前半生は、確実なが残っておらず不明な点が多い。 通説によれば、14年8月15日(9月20日)に富田庄(現在の)に生まれたとされる(詳しくはを参照。 山中氏の家系も不明な点が多い。 山中家の系図はいくつか存在するが 、有力な説としてはの流れを汲む()の支流で、の一門衆である。 の弟であるを祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。 山中家は尼子氏の家老 であったが、父・が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた。 幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち 、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てた。 16歳のとき、主君・の攻めに随行し、因伯(と。 現在の)に鳴り響く豪傑、菊池音八をで討ち取った。 幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣であるの養子となるが 、後に山中家に戻り当主である兄の(甚太郎)に替わって家督を継いだ。 尼子氏の滅亡 [ ] 5年7月3日(8月2日)、は尼子氏を滅ぼすためへ進軍する。 毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)にをで破ると 、3年(1557年)にはを滅ぼし 、防長(と)を新たに支配していた。 また、永禄5年6月にはを勢力下に治め 、の一大勢力となっていた。 一方の尼子氏は、当主であったが永禄3年12月24日(1月9日)に急死したため 、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等 もあり勢力が衰えつつあった。 に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。 そして、永禄5年12月(1月)にはへ本陣を構え 、尼子氏の居城・攻めを本格化させる。 永禄6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、の第1とされる へ攻撃を開始する。 この白鹿城は、の北岸に位置し、に面したと月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。 9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、を大将とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。 戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した()。 退却の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いてを担当し、追撃する・の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。 なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している。 永禄7年()、尼子軍は率いる毛利軍と美保関 ・弓浜 で戦い、幸盛もこれに参戦する()。 このとき、日本海側からの補給拠点である白鹿城を攻略された尼子氏は、方面からの補給路を確保するため伯耆国の拠点確保と勢力の挽回に努めていた。 尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆国の重要拠点の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。 以後、伯耆国は毛利軍によって制圧されていくこととなる。 こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。 永禄8年4月(5月) 、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の八雲町) に本陣を構えると 、城下でをおこない 月山富田城へ攻撃を開始する。 4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う ()。 幸盛は塩谷口(しおたにぐち) で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。 4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ 、月山富田城から約25km離れたまで撤退した。 9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。 この戦いで幸盛は を一騎討ちで討ち取った()。 また同月、幸盛は、白潟(現在の)に滞在していた小河内幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多数の兵を討ち取った。 永禄9年5月24日(6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。 しかし、城を落とすことが出来なかった。 11月21日(1月1日)、城内の兵糧が欠乏し将兵の逃亡者も相次いだため 、これ以上戦うことが出来ないと判断した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。 そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し 、ここに戦国大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。 義久ら尼子3兄弟 は、一部の従者 と共に円明寺 へ連行され幽閉されることとなった。 幸盛は随従を願い出たが許されず、で主君と別れた。 その後、幸盛は尼子家を再興するため尽力することとなる。 尼子再興運動 [ ] 幸盛の尼子再興運動は、概ね3回に分けて見ることができる。 第一次尼子再興運動 [ ] 蹄の滝(布部)。 布部山の戦いに敗れた幸盛が逃れる際に、この滝から馬で飛び降りたと伝わる。 滝壷にはその際にできた蹄の跡が残る。 尼子氏滅亡後、幸盛はとなる。 その後、永禄9年 - 同11年の間( - )の幸盛の足取りは定かでない。 諸説によれば、で傷を癒した 後に順礼の姿をして東国へ赴き、()・()・()などの軍法をうかがい、のの家風を尋ね入り 、その後、に上ったとされる。 永禄11年(1568年)、幸盛はら尼子諸牢人とともに、京都ので僧をしていたの遺児・をさせると 、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがった。 永禄12年4月(5月)、毛利元就がを攻撃するため北九州へ軍を派遣すると 、挙兵の機会をうかがっていた幸盛は、出雲国へ侵攻を開始する。 このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのはであった。 の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられる。 もっとも、その後に毛利氏から要請を受けたの軍によって領内を攻められ 、支援はままならなかったようである。 6月23日(8月6日) 、幸盛らはもしくはから数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると 、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。 幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3,000余りの軍勢になったという。 そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる(真山城)を攻略すると 、続いて宍道湖北岸に位置する末次(末次町。 現在のの建設地。 )に城を築いて ここを拠点(末次城)とし 、の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった()。 7月中旬 、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる()。 この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり 、また、城内より投降者がでる など尼子方が優勢であった。 しかし、石見国で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な状態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の斐川地域の部あたり )で撃破すると()、その後、出雲国内において16の城を攻略 し、その勢力を6,000余りにまで拡大させた。 また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた 、などの出雲国の有力国人を相次いで味方につけると 、出雲国の一円を支配するまでになった。 さらに、伯耆国においても尾高城を始め、中央の、因幡国との境にあるなど、多くの主要な城を攻略。 謀略を用いて末吉城のを寝返らせたのをはじめ 、一帯を支配するを味方につける など、伯耆国全土にも勢力を拡大していった。 その他、ので城番をしていた姉婿の佐伯七郎次郎を謀略により寝返らせるなど 、因幡・・・においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。 加えて10月11日(11月19日)、が大内家再興を目指して周防国へ攻め込み 、築山館跡を占領する事態が発生する。 10月15日(11月23日)、相次ぐ領内の反乱により支配体制の危機を感じた元就は、反乱軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する。 10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰着すると 、10月25日頃に大内家再興軍の反乱を鎮圧する。 輝弘は富海で自刃し 、大内家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した()。 反乱を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城であるへ帰還している。 永禄13年1月6日(2月10日)、、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。 毛利軍は北上して出雲国へ入国すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先のや隠岐為清の反乱()などによって時間をとられ、出雲国の拠点である月山富田城を攻略することができないでいた。 そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部(現在の広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。 2月14日(3月20日) 、尼子再興軍は、布部で毛利軍と戦い敗北する()。 幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として残り、軍の崩壊を防いだ後に居城の末次城へ帰還している。 戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し 、尼子再興軍の包囲から城を解放する。 一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。 6月、布部の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城との2城となるまで追いつめられていた。 7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麦薙ぎが行われる など危険な状態となるが、9月5日(10月4日)、で元就が重病に陥り、吉川元春を残して毛利輝元・小早川隆景らの軍が国許へ帰還する と状況が一変する。 山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。 (清水町)の札打ち巡拝路にある、山中鹿介の槍砥石。 この石で幸盛が槍を砥いだとされる。 幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠点であるや末吉城など、出雲・伯耆の国境にある城を次々と奪還するとともに 、一時、要害を攻略して 再び月山富田城へ迫った。 また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連携を図るため、宍道湖北岸にを奪い 増築する。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城()へ攻め込む など、その攻勢を強めている。 さらに、の・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており 、日本海側のも取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。 元年10月6日(1570年11月3日)、出雲国における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直属の部隊・を派遣する。 この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が 、12月には満願寺城が落城する など、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していった。 そして、元亀2年8月20日(9月8日)頃には、最後の拠点であった新山城が落城。 籠城していた尼子勝久は、落城前に脱出して隠岐へ逃れている。 同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ 、吉川元春に捕らえられた。 捕らえられた幸盛はへ幽閉されることとなったが、との助命嘆願によりとに各1000貫の所領を与える約束がなされた。 しかし幸盛はこれを受け入れず、その後に隙をついて脱出している。 こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。 第二次尼子再興運動 [ ] 尾高城から脱出した幸盛は、海を渡って隠岐国へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬国に潜伏する。 そして、の海賊・やの重臣・らと連絡を取りつつ 、再び尼子家再興の機会をうかがっていた。 なお、このとき幸盛はを名乗っていたようである。 元亀4年()初頭、幸盛は但馬国から因幡国へ攻め込み、を攻略して拠点とすると 、様々な軍事活動を開始する。 幸盛は、因幡国を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していたと思われる。 このとき、因幡国の実質的な領主は、毛利方の国人・であった。 高信は、去る永禄6年()に当時の因幡国主・と争って勝利を収めると 、毛利氏と連携をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。 幸盛ら尼子再興軍は、豊数の弟で山名氏再起を目指すを味方につけると 、因幡国の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。 そして、元年8月1日(1573年8月28日) 、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると() 、高信の居城・攻めを本格化させる。 尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると 、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した()。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。 鳥取城には山名豊国が入り、尼子再興軍は、に本拠を構え居城とした。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000余りに拡大し 、東因幡一円の支配に成功した。 ところが11月上旬 、山名豊国が、田公高次などの懐柔により毛利方に寝返る。 尼子再興軍は、わずか1ヶ月余りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。 鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い 、因幡平定に向けて尽力することとなる。 因幡国内で毛利軍と交戦する一方 、美作三浦氏やの、の大友氏などの反毛利勢力と連携を図るとともに 、密かに織田信長配下のと連絡を取って 体制の立て直しを図っていった。 これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(12月)、美作三浦氏の居城・で軍を撃退し功績を挙げたとして、から火薬の原料となる1壷をもらい受けるなどしている。 天正3年5月(7月)、但馬国の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権やに対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。 但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡国のを攻略し、拠点をここに移す。 元の居城・私部城にはが入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡国から但馬・へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。 6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000 の兵を率いて因幡国へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。 尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し 、因幡における尼子再興軍の拠点はこの若桜鬼ヶ城の1城を残すのみとなるのである。 しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、方面でと毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多数の付城を築いて 因幡から撤退する。 ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡 、浦上氏の衰退 、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したこと などもあり、尼子再興軍は因幡国において完全に孤立化する。 さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年()5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡国から撤退する。 こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。 第三次尼子再興運動 - 幸盛の死 [ ] 因幡国より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。 京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。 その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。 天正4年()、幸盛ら尼子再興軍はの軍に加わり、但馬攻めや籾井城攻めに参加する。 11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する・軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。 その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。 天正5年()、幸盛は、信長の嫡子・に従い、攻めやが篭城する攻めに参加する()。 幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り 、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。 また、この戦いで幸盛は、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている。 10月、信長の命令を受けたが播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。 12月(1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点であるを攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。 尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行く。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。 城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏ととの仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行っていく。 天正6年2月1日(1578年3月9日)、の将・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。 この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。 2月中旬(3月下旬)、のが信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。 織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵 をもって播磨に進軍する。 そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。 5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、らと共に1万の軍 を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。 しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや 、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって 、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書写山まで撤退する。 その結果、上月城は孤立無援となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため 、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する ()。 降伏の条件として、尼子勝久及び弟のは切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。 その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され 、それ以外の者は許され解放された。 人質となった幸盛は、に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。 しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の)にて、毛利氏家臣のにより謀殺された。 享年34 または39。 その後 [ ] 鹿介神社(広瀬町布部)。 幸盛を祀った神社。 霊験あらたかにして、願解きには古武器類を奉納する習わしがあった。 幸盛の死は尼子再興運動の終幕ではあったが、上月城陥落時に尼子氏庶家率いる部隊は秀吉に従い難を逃れていたため尼子遺臣団の完全な解体とはならなかった。 尼子遺臣団の一部は庶家たる亀井家の家臣団として再編成され近世大名への道を歩み始める。 朝鮮出兵にも従軍、秀吉の逝去後は東軍に属しにて前衛の部隊として参陣、の寝返り受諾・下焼き討ち・近江水口城主の追撃包囲開城などに参加し、徳川に組み込まれる。 に隣接するを拝領、としてを行いにを派遣。 そして後に長州に程近いへ転封し、そのまま4万3000石としてを迎えた。 長男とされる(鴻池新六)は父の死後、武士を廃して鴻池村(現・)でを始めて財をなし、のちにに移住して以降の豪商の始祖となった。 衰亡した主家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。 特にには忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「 山中鹿之助」が創られていく。 これが世に広く知られ、を精神的な支柱とした以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話がに採用された。 出自の謎 [ ] 幸盛の屋敷にあったとされる。 現在は近くの常光寺の墓地に移転されている。 幸盛の前半生は、確実な史料が残っておらず不明な点が多い。 軍記史料も、生まれた場所や年など記載に相違がある。 出生の日 [ ] 一般的に、出生日は『』『後太平記』に記載される 、14年8月15日(9月20日)とされる。 『』によれば「6年7月2日(8月5日)に34歳で死亡」と記載され 、逆算すると天文14年に生まれたことになり、『』『後太平記』に記載される年と一致する。 しかし、もっとも成立の古い『』では、天正6年7月13日(1578年8月16日)に39歳で死亡したと記載される。 これを逆算すると、生まれた年は天文9年()になる。 また、『』 、『中国兵乱記』 においても天正6年に39歳で死亡したとする。 そのため、出生年を天文9年とする説がある。 なお、通説では、死亡した日は天正6年7月17日(1578年8月20日)とされる。 これは『山中系図草案』『片寄家譜』によるものである。 出生の地 [ ] 出生地においても定かでない。 一般には、の麓(現在の)に生まれたとする。 これは『』によって記載され 、現在も屋敷跡が存在する。 『』『後太平記』ではの麓(現在の)に生まれたと記載され 、屋敷があった地が伝えられている。 その他、の見上城で出生した説もあり 、には「山中鹿之助幸盛公生誕の地資料館」がある。 評価 [ ] 山中幸盛像「月百姿」(作・1886年、所蔵) 嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る 訳文:勇名をはせた幸盛(鹿介)は、鹿という名前であるけれども、誰が鹿と呼べようか。 幸盛は戦国乱世(食うか食われるかの世界)の麒麟である。 ここ数百年の史上に徴するも、本統の逆舞台に臨んで、従容として事を処理したる者は殆ど皆無だ。 先づ有るというならば、山中鹿介と大石良雄であろう 訳文:ここ数百年間の歴史を遡って見ても、本当の逆境に挑んで、慌てず落ち着いて処理した者はほとんどいない。 もしいるとするなら、山中鹿介とだろう。 私は常に山中鹿之介なるものを愛するのであります。 彼は尼子の忠臣でありまして、尼子の衰運回復すべからざる時に、身を致して顧みなかった男であります。 『』 尼子再興軍の大将は尼子勝久であったが、軍事計略のすべては幸盛の脳裏より出たものであった。 数年間、山陰山陽に武威を振るい、寡兵で大軍に勝つこと数え切れないほどであった。 その武名は天下に響き渡り、樵(きこり)の子供や猟師の老人までもが日常の会話にしたほどであった。 しかし、果報にも限りがあるように、天運を使い果たして意味も無く誅されたことは無残であった。 『中国兵乱記』 武勇の達人として天下にその名を知られていたが、天命を全うできず、39歳で討ち滅ぼされ、名を後世に残した。 惜しまない者はなかった。 『』 幸盛の勇力は抜群であり、才智にも長けていた。 当時の人は幸盛を「 より勝る」と言って褒めたたえた。 そのため、七重八重に取り囲んだ敵も幸盛の姿を見ると皆退却した。 また、幸盛が城に籠もると敵は和談して戦いを避けた。 『』 主家再興を自らの使命とし、各地をさ迷いながらも幾度の苦難を乗り越え、兵を起し戦い続けた。 その道のりは厳しく、100度打ちのめされ、1,000回挫折を味わうものであったが、進むことはあっても退くことはなかった。 最後は志半ばで倒れてしまったが、その義勇の名は一時天下に鳴り響いた。 人物・逸話 [ ] 月山富田城跡の太鼓壇公園に建つ山中鹿介幸盛の銅像。 1978年、幸盛没後400年を記念して建立された。 容貌 [ ] 勇猛な美男子であったとされる幸盛であるが、その容貌については諸説がある。 『』(幼少期) 普通の子供とは容姿が違っていて、眼光がすぐれ、手足も太く逞しかった。 幼いながらもその立ち振る舞いは、たいそうきっぱりしていて、不敵にすらあった。 『』(19歳 、品川将員との一騎討ちの時) 背丈は5尺あまりと見えて中肉で色白く、容貌がすぐれた男であった。 『』(34歳、死亡時) 幸盛は討ち取られたとき、たいへん立派な髭を生やしていた。 その髭は、針先のように鋭く尖って非常に堅く、障子を突くと簡単に貫くほどであった。 鎧冑の姿 [ ] 幸盛は 三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をした姿でよく知られる。 講談や小説などにおいてもこの姿で描かれることが多い。 月山富田城跡に建つ、幸盛の銅像もこの姿で作成されている。 通説では、この冑は山中家に先祖代々から伝わるもので、幸盛が家を継ぐにあたって譲られたとされる。 しかし『』や『』などの軍記資料によると、その冑の様相は多少異なる。 『』 「16歳の春、半月の前立てがある冑をつけていた」と記載され、鹿の角の脇立ての描写はなく、前立ても三日月でなく半月である。 『』・『』 「赤糸縅(おど)しの鎧に、牡鹿の角を備えた冑をしていた。 その牡鹿の角は、銀粉で装飾され5節に分かれていた」と記載され、鹿の角の立物はあるが、三日月の前立ての記載はない。 『』 『』に記載される「半月の前立がある冑」の描写ほかに、幸盛が病弱であった兄から冑を譲り受ける記載がある。 その冑は「長さ6尺の鹿の双角を前立てに挿めていた」とあり、冑に備え付けられた鹿の角は、脇立ではなく前立てにあったと記載している。 鹿介という名 [ ] 幸盛の通称(字)、 鹿介の命名についての逸話がある。 幸盛の幼名は甚次郎といい、病弱な兄に代わって家督を継ぐときに改名して鹿介と称した。 一般には、このとき譲り受けた冑に三日月の前立てと 鹿の角の脇立がついていたため、冑にちなんで名前を鹿介と改めたとされる。 その他には、山の中で鹿の如く走り廻る姿を見て名前を鹿介としたとする説 などもあるが、軍記資料に残る改名の理由は次のとおりである。 『』 長月(9月)のある日、甚次郎(幸盛)は同輩の秋宅甚介と寺本半四郎と共に夜番をしていた。 甚次郎は退屈していたので「苗字にちなんで名前を変えてみようではないか」と両友にもちかけた。 2人も「なるほど、それは良いことだ」と言って了解したので、3人はそれぞれ、山中鹿介、秋宅庵之助、寺本障子之助と名乗るようになった。 『』 幸盛は、の末子として生まれたが、2歳になったときにによって晴久(尼子家)が滅ぼされてしまっため、に抱えられ「山中」という所へ逃れ隠れ住んだ。 その地で16・17歳まで成長した幸盛は、人品骨柄に優れ手足の節々にひとつかみの毛が生えていたので、山中鹿介と名乗った。 『』 あるとき、甚次郎(幸盛)は兄の甚太郎から、長さ6尺の鹿の双角を前立てに備えた冑を譲り受けた。 甚次郎はその冑を身につけ戦場に出ると、人はその威風堂々とした姿を見てたちまち恐れ服した。 これにより、幸盛は自らを鹿之助(鹿介)と称するようになった。 所持品 [ ]• 総長約264cm(刃長172. 0cm、反り3. 0cm、茎長 92. 0cm)の(石州和貞 作)を使用していたとされ、へこの太刀をしている。 現在もこの太刀は大山祇神社に展示され、観覧することができる。 落城後、に投降した際に所持していたと伝わる「鉄錆十二間筋兜(てつさびじゅうにけんすじかぶと)」が現存する。 護符を兜の中に入れて用いたと伝えられ、現在は吉川史料館に展示されている。 「荒身国行の太刀 」を所持していた。 阿井の渡しで殺害された時に持参しており、その後はが所持した。 『享保名物帳』 によると、天下五剣の1つ「」を一時所持したとされる。 「不動国行の太刀」を所持していた。 武勇 [ ] 山中鹿之助幸盛 画「芳年武者无類」• 「」の筆頭とされる。 また、尼子武将の中で特に智勇・忠義に優れた3人 、「」(「尼子三勇」)の1人とされる。 山名軍で猛将として知られた菊池音八や、高野監物、有名な品川将員との闘い、松永久秀配下の河合将監をいずれも一騎討ちで討ち取っている。 首供養を2度行っている。 首供養は、33の首級を挙げたら1回行う。 つまり、生涯で66以上の首級を挙げたことになる。 幸盛は、生まれて数ヶ月で4・5歳の子供のように見え、2・3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、8歳のとき人を討った。 10歳の頃から弓馬・軍法を学び、13歳のときに敵を討ち取って手柄をたてた。 成長するにつれ、器量は世に超え、心は強く深謀遠慮、人を賞するにあたって依怙贔屓(えこひいき)がなかった。 16歳のある春の日、幸盛は「今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい」とに祈った。 ほどなくして、主君のがの伯耆尾高城を攻め、幸盛もこれに随行する。 この戦いで幸盛は、因伯(現在の)に鳴り響く豪傑、菊池音八をで討ち取り戦功を挙げる。 このため幸盛は、これより一生の間、三日月を信仰したという。 5年()、毛利軍はへ攻め入り、尼子軍拠点の月山富田城を包囲する。 幸盛が1人城下の民家で休息していると、毛利軍の兵30 - 40騎余が攻め寄せてきた。 幸盛は民家から出ると、最初に乗り駆けてきた2人の兵を切って落とし 、続いて来た兵も乱戦して16・17人を討ち取った。 残った兵も幸盛1人で切り立てて撃退している。 撃退後、幸盛は民家の年老いた尼に「飯はないか」と言って尋ね、出された椎の葉に盛られた飯を食べ、富田月山城へ帰った。 尼子氏が滅亡し、諸国を放浪していた幸盛が一晩の宿を借りて寺に泊まっていた際、盗賊14人が寺を襲ってきた。 幸盛は謀略を用い、1人で盗賊すべてを生け捕りにしてしまった。 盗賊は「今まで盗みをすること約100回、戦いも70回あまり行いましたが、このようなことは初めてです。 名前を教えてください」と尋ねたが、幸盛は「何を言う、さっさと去れ」と言って 、名前を告げずに立ち去った。 品川大膳との一騎討ちについては、史料により異同がある。 尼子側の記述『』や『』では、品川は弓を使って鹿介を攻撃しようとしたが、尼子氏の武将に弓を用いて邪魔をされ失敗し、鹿介と品川は接近戦を行い、一進一退の攻防の末に鹿介が品川を見事に討ち取ったと記されている。 毛利側の資料『』では、品川が優勢に勝負を進め、鹿介は追い詰められたが僚友のの助力で勝ったと記されている。 史料によって異同があり事実は不明であるが、参考として史料の成立としては『雲陽軍実記』の方が『陰徳太平記』より100年前後古く、『太閤記』は『陰徳太平記』より数十年早く執筆されている。 なお、それぞれの史書は、その成立上の経緯もあり、歴史上の事実とは異なる部分も多く、一次資料としての信憑性については、各項目を参照のこと(詳細は「」を参照)。 武辺への助言・判断 [ ]• 明智光秀の家臣であった野々口丹波が、幸盛に「自分は一騎討ちを3度行い首級をあげましたが、その時の様子は良く分からず朦朧としたものです。 しかし世の中には、たった1度の戦いで詳細に覚えている者もいます。 その人は生まれつき勇気があるのでしょうか」と幸盛に尋ねた。 幸盛はたいへん感心し、「あなたは正直な人だ。 言葉を飾り、嘘をついて名をあげようとする人が多い世の中にあってはめずらしい人だ。 自分も4 - 5個の首級をあげたときは、あなたと同じだった。 7 - 8個のときに夜が明けたようになり、10個の首をとることには、敵の内冑を突いた場所までよく見え、子供の遊びのように杖で討ち倒すことができた。 あなたも経験を重ねれば、自分の言ったことが分かるだろう」と答えた。 明智光秀の家臣であった野々口彦助(野々口丹波と同一人物か? )が、幸盛に功名をあげる方法を尋ねた際、幸盛は「合戦の前には必ず目が見えなくなるものだ。 よく心得ておかれよ」と言ったが、彦助は最初それほどのこととも思わなかった。 しかし、朝霧がなびいて物の色も区別がつかない戦場に立ったとき、彦助は幸盛が教えたことを思い出した。 「ここで目が見えないのは私が気おくれしているからだろう」心を静めるため目をふさぎ、そして目を開くと、心もさわやかに目もはっきり見えたので、みごと敵の首を取って功名をあげたとされる。 ある日、初陣を終えた2人の若者が幸盛にそれぞれ話しかけた。 ひとりは「敵に向かうと震えが生じて、しっかり敵を見ることもできず、討ち取った敵がどんな鎧であったかも覚えていません」と話した。 別のひとりは「自分はそうではありません。 敵がどんな鎧を着て、どんな馬に乗り、組み合った場所など鮮明に覚えています」と話した。 2人が帰った後、幸盛は傍の人に「最初に話した若武者は、立派で勇敢な武士になるだろう。 後に話した若武者は、はなはだ心もとない。 もしかしたら、他人のあげた敵の首を拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。 さもなくば、次の戦で討たれてしまうだろう」と語った。 はたして後日、その言葉のとおりとなった。 心遣い [ ]• らが美保関で反乱を起こした際()、幸盛らはこれを制圧するため攻めるが、為清に反撃され窮地に追い込まれる。 その後、横道兄弟(横道高光、横道高宗)、らが救援に駆けつけ奮戦、結果、為清を捕縛しこの戦いに勝利した。 この時、は幸盛らに遠慮して、横道らに感状を出すことを差し控えていた。 しかし幸盛は「この合戦で彼らの加勢がなければ、自分の一命はなかったことでしょう。 緒戦に敗れた我々に遠慮することはありません。 賞罰は明らかにし、政道に依怙贔屓があってはなりません」と勝久を諫め、早々に感状を渡すよう言上した。 勝久はこれを喜び、すぐに横道らに感状を渡したとされる。 の家臣であった野々口丹波が幸盛を我が家へ招待した後に、光秀からも「風呂を炊いたから家に来ないか」と招待があった。 野々口の家はあばら家であったが、幸盛は「野々口と先約があるので、いけません」と笑って光秀に答えた。 光秀もまた笑って、「幸盛をこれで招待してやれ」と野々口に言い、雁1羽と鮭1尾を授けた。 山中幸盛の。 6年7月8日 遠藤勘介宛書状より。 幸盛から配下の進藤勘介に宛てた書状が残っている。 捕らえられ、阿井の渡しで殺害されるまでの間に書かれた、幸盛の最後の書状とされる。 長年の牢人時代を労い、上月城のでの戦いぶりを「生涯忘れない」と褒め、今後は何処へでも仕官するように(自分との主従関係は解除する)という内容である。 その他 [ ]• 幸盛の母、山中なみはたいへんな賢母であったとされる。 幸盛の父は若くして亡くなったため、なみ1人の手で幸盛は育てられた。 稼ぎ手がいなかったため家は貧しく、衣服を買うお金に困るほどであった。 そのため、自ら畑で麻を育て、その麻で幸盛に服を作っていたが、自分はぼろぼろな服を着て生活していた。 また、同じように貧しい子供がいれば、服を与え、宿泊させ、食事をふるまった。 世話になった子供らは皆これに感心し、大きくなってから幸盛に協力するようになったとされる。 なみは幸盛に対し「そなたに従う人々と苦楽を共にしなさい。 戦いに敗れたときに仲間を見殺しにしたり、また手柄を独り占めにするようなことをしてはいけません。 」と言って教えた。 幸盛も常にその言葉を忘れず、教えに従ったとされる。 幸盛がを擁してへ攻め入ったとき、かつての同僚・は毛利方に属し の末石城の城番をしていた。 元通と旧交のあった幸盛は、元通を味方にしたいと考え、まずその心情を探ろうと計画する。 幸盛は元通に禅僧を遣わすと、今の心情を扇に書くようお願いする。 元道は「 ふるから小野の 元柏(もとがしわ)」とだけ記し禅僧に渡すと、幸盛にこの扇を届けるよう伝える。 届いた扇を見た幸盛は「これは『 いそのかみ ふるから小野の 元柏 元の心は わすられなくに』 という古歌の一節だ。 元通も尼子のことが忘れられないだろう」と考え、再び禅僧を元道へ遣わし、尼子に味方するようお願いする。 はたして元通はお目付け役の中原善左衛門を切り、尼子再興軍に味方することとなった。 なお、元通はその後上月城落城まで付き従い、尼子勝久と共に切腹し自害している。 尼子氏滅亡後、幸盛は尼子家再興を目指し出雲で戦いを繰り広げていたが、敗れて末吉城で降伏することとなる。 その後、尾高城へ幽閉されることとなった幸盛は「赤痢になった」と偽って何度もへ通い 、あまりの頻度に付き添っていた監視役が付いてこなくなると、その隙を突いて逃げ出すこと に成功したという。 6年7月(8月)、幸盛の籠もっていた上月城は毛利軍に攻められ、援軍の軍が撤退したこともあり、毛利氏に降伏することになる。 幸盛は降伏に際し、の助命を再三にわたり毛利軍の・に申し立てたが、両将は「勝久が切腹しなければ、城内の者を悉く皆殺しにする」と言って許さなかった。 万策尽きた幸盛は、勝久に向かい涙を流しながら「 このたびは殿の命を救うため再三にわたって申し立てしましたが、元春・隆景は承知しませんでした。 この上は、力なく武運も尽きたと思って御自害ください。 自分もお供するのは当然ですが、特に敵の吉川元春は憎い仇なので、偽って降参し近くに寄ったとき刺し違え、当家多年の鬱憤を晴らすつもりです。 命を惜しみ不義の降人と思われるのは口惜しいですが、すぐに三途の川で追いつき、その時こそ忠義に嘘偽りのないことをお示しします」と申し立てた。 それに対し、勝久は「自分は、普通なら法衣を纏い抖藪(とそうあんぎゃ)をして生涯を終える身なのに 、一時的とはいえ尼子家の大将として数万の軍勢を率いることができた。 わずかな期間であったが良い夢を見させてもらった。 今ここに自害するに及んで何の恨みがあるだろうか。 ましてや、自分が死ぬことで部下の命が助かるならば、むしろ大将としては幸いなことだ。 また、元春と刺し違えて仇をとることはたいへん立派なことだが、元春は智勇に優れておりそのような機会は訪れないだろう。 それよりは、生き長がらえ、別の尼子庶子を探し出し、その者を大将として助け、尼子の再興を目指して欲しい」と言って幸盛に別れを告げた。 幼いときに毛利氏に祖国を滅ぼされた幸盛は、300ばかりの屈強の者達を率い、各国より依頼を受けて戦う傭兵団として内を巡っていた。 この有様を聞いたは「幸盛は武略が備わりその器量も無双の勇士であるが、表裏の侍で今日は敵、明日は味方となる弓箭の本意に背く武士である」としてに殺害を主張し、それによりを送られ幸盛は殺害されてしまった。 幸盛が毛利の刺客・綿抜左馬介(卯月一日左馬介)に殺害された際、幸盛には2人のがいた。 その小姓らは、幸盛の亡骸を川岸へ埋めてを作ると、3月上旬のことでもあったのでの花の枝を折ってその塚の上へ刺し「殺害されたとはいえ山中鹿介も名誉ある侍の1人である。 もし天に情けがあるならばこの花を根ざし給へ」と言ってを唱えし果てた。 左馬介がこの2人の亡骸を幸盛の塚に並べて埋めると、その後、この枝は根付き大木になるまで成長した。 しかし誰が言い出したのか「この木を飲めばが治る」との噂が広まり、国内外より人が来ては削っていったのでそのうち削り枯れてしまった。 墓所 [ ] 静観寺山門前()にある幸盛の首塚 阿井の渡しの墓(落合町阿部) 幸盛は、備中松山に在陣する毛利輝元へ送られる途中、阿井の渡しで殺害される。 正徳3年(1713年)10月、幸盛の死を哀れみ、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、この地に墓石を建立した。 碑文に次のように記載される。 「尼子十勇、儕輩絶倫、不得伸志、無遭干時、忠肝義膽、爰樹爰封、殊勲偉績、千載流芳。 前田時棟謹銘」。 観泉寺境内の墓(岡山県高梁市落合町阿部) 幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。 寺内には幸盛の位牌も安置されている。 戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。 また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。 戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる。 内の墓(紫野大徳寺町) 寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。 この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。 この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。 墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。 「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。 年三十四にて備中阿部に戦死す。 実に惟れ天正六戊寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」。 実泉院内の墓(京都府京都市) 宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。 幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。 墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。 「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。 年三十(四)にて備中阿部に戦死す。 実に惟れ天正六戊寅五月廿二日也。 子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。 金光院内の墓(京都府京都市黒谷町 ) 金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。 傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。 幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。 「雲州山中鹿介、潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」。 幸盛寺内の墓(鹿野町鹿野) 元は明照山持西寺と称し、宝徳年中(1449年 - 1452年)に凝阿上人によって開かれた寺である。 場所も今の場所でなく、鹿野西北山麓にあった。 文禄元年(1592年)、鹿野城主であった亀井茲矩が、幸盛の菩提を弔うため、明照山持西寺の住職照誉に命じて寺を現在の場所に移し、名も鹿野山幸盛寺と改称し建設した。 慶長13年(1608年)には、茲矩によって、備中の遭難地より幸盛の遺骨の数片が集められ、境内に幸盛の墓が建設されている。 墓碑銘には次のように記載される。 「天正十一癸未七月二日 為幸盛寺殿潤琳淨了居士 沙門蓮社照誉上人建之」。 寺内には幸盛の位牌も安置される。 戒名は「幸盛寺殿潤淋淨了居士」。 巌倉寺内の供養塔(広瀬町富田) 慶長7年(1602年)7月、堀尾吉晴の夫人(奥方)が幸盛の忠義を讃え、巌倉寺の境内に建立した。 一時、第2次世界大戦中に食糧増産のあおりをうけ、甘藷(さつまいも)畑になり、境内の世代墓の片隅に移転されていた。 寺内には幸盛の位牌も安置される。 位牌の裏には次のように記載される。 「天正六年戊寅七月十七日 於備中阿部渡為毛利氏討死 寛永二十年癸未二月 當山二十二世観譽建之」。 戒名は「幸盛寺殿潤林淨了居士」。 静観寺山門前の首塚() 備中松山城で毛利輝元の首実検を受けた幸盛の首は、ここの地に送られたとされる。 当時、毛利氏に身を寄せていた足利義昭はこの地に滞在していたので、その首実検に供するためである。 石碑は自然石をそのまま利用して刻文はなく、近くに「山中鹿之助首塚」の標石がある。 寺内には幸盛の位牌も安置される。 戒名は「幸盛院殿大譽淨了大居士 」。 系譜 [ ]• 父:(三河守)• 母:なみ(浪)の娘• 祖父:• 叔父:• 叔父:• 正室:千明(高松院)の長女• 長男:• 次男:山中幸範• 養女:時子(栄壽院、英樹院)(室)• の二女• 次女:()(室)• 末裔:• 末裔:• 末裔: 山中幸盛を主題とした作品 [ ] 小説• 『英雄にっぽん 小説山中鹿之介』(・1971年、のち・2002年、・1974年)• 『山中鹿之介』(・1988年)• 『出雲の鷹』上下巻(文藝春秋・1980年、のち・1984年)• 『小説 山中鹿介』(・1997年、のち人物文庫『山中鹿介』改題・2009年) 学陽書房:• 『山中鹿之介』(文藝春秋・1997年、のち・2000年) 文藝春秋:• 『山中鹿之介 毛利に挑んだ不屈の武将』(PHP文庫、1997年)• 『名将 山中鹿之助』(、2007年)• 太田忠久『三日月の影』(ハーベスト出版、1991年)• 『戦国名刀伝』(文春文庫、2003年)• 『尼子十勇士伝-赤い旋風篇』(新日本出版社、2010年)• 乾緑郎『鬼と三日月-山中鹿之介、参る!』(朝日新聞出版 2013年)• つるみ犬丸『駅伝激走宇宙人 その名は山中鹿介! 』(メディアワークス文庫 2014年)• 『山中鹿之助』(、2015年) 絵本• 文:鹿介を子どもたちに伝える会 絵:玉井詞『山中鹿介-やまなかしかのすけ』(ハーベスト出版 1998年) 漫画• 『山中鹿介幸盛』(広瀬町観光協会 2003年)• 『山中鹿介物語-尼子再興記』(株式会社スクウェア・エニックス 2010年) テレビドラマ• (、)演: 舞台• 『KIRINJI 新説・山中鹿介』(演出: 2019年) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 自筆状 にそのように自署している。 ただし、現代では鹿之介という表記も非常に広く及んでいる。 海音寺潮五郎は「武将列伝・山中鹿之介」で、鹿介が正しいことに触れた上で、シカスケと読み誤りやすいのであえて鹿之介と表記する旨を注記している。 鹿之介、鹿之助、鹿助は間違って広まった名前である。 『太閤記』では山中甚次郎(巻十九 山中鹿助伝)。 『陰徳太平記』では池田甚次郎(巻第五十六 山中鹿の助最後の事)。 『後太平記』では山川甚次郎(巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事)• ありとあらゆる苦難のこと。 「七難」は7種の災難でにより内容が異なる。 『』では、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。 『』では、人衆疾病難・他国侵逼難・自界叛逆難・星宿変怪難・日月薄蝕難・非時風雨難・過時不雨難。 『』では、日月失度難・星宿失度難・災火難・雨水難・悪風難・亢陽難・悪賊難。 「八苦」は人生上の8種の苦難のこと。 生・老・病・死の4苦に愛別離(あいべつり)・怨憎会(おんぞうえ)・求不得(ぐふとく)・五陰盛(ごんじょう)を加えたもの(より)。 個人所蔵のものが2点 と島根県が所蔵するもの がある• 『佐々木文書』「尼子家分限牒」によれば中老。 ただし、尼子家分限牒は江戸時代に製作され、その信憑性については諸説ある。 幸盛は一時期、亀井姓を名乗っていたため 亀井家の養子であったとされる。 永禄4年(1561年)、毛利氏による石見国への侵攻に際し、から毛利氏(・)との和睦の斡旋を受けていた 義久は、積極的に毛利軍と戦うことをしなかった(毛利氏は朝廷の斡旋に従わなかった)。 その結果、石見の尼子方のは見捨てられた格好となり、滅亡又は毛利方へ味方する者が続出した。 そして、この情勢を見た他国の尼子方の国人も次々と毛利方へ鞍替えした。 『中国兵乱記』では、撃退は4度、敵の首は5つ。 『二宮佐渡覚書』では、永禄6年10月29日(11月14日)に落城。 現在の。 現在の)。 幸盛は第2陣に在する。 『二宮佐渡覚書』では星上山でなく京羅木山と記載。 『雲陽軍実記』では4月17日は凶日なので、1日伸ばした18日とする。 月山富田城への3つの進入口の1つ。 塩谷口は南側に位置する。 他は、北側の菅谷口(すがたにぐち)と西側の御子守口(おこもりぐち)。 品川 大膳(しながわ だいぜん)あるいは棫木 狼之介(たらぎ おおかみのすけ)ともいう。 『陰徳太平記』では、船陰に隠れていた幸綱に、幸盛は膝口をしたたかに切られ負傷している。 開城時、義久らに従う尼子家家臣は、わずか134名しかいなかった。 義久、、倫久の3人。 義久へは、宇山右京亮・立原備前守・本田豊前守・同与二郎・大西十兵へ(大西十兵衛)・牧彦右衛門・力石兵庫・津野森四郎二郎・福頼四郎右衛門・本田太郎左衛門・真野甚四郎・高尾惣五郎・正覚寺(大塚助五郎)の21名。 倫久へは、多賀勘兵へ(多賀勘兵衛)・佐藤助三郎・重蔵坊・山崎惣左衛門の5名。 秀久へは、松浦治部丞・松井助右衛門・他9名(宇山被官・矢田五郎左衛門・作野助四郎・立原被官・河上助四郎・小者之聟・本田被官・広江彦五郎・中間源右衛門)。 長田にあった。 現在は屋敷跡が残る。 『陰徳太平記』によれば、但馬国の垣屋播磨守を頼ったとする。 当時、毛利氏とは友好的な関係であった。 毛利氏は、京都に送り込んだ使僧のを通じて信長に合力を要請。 「雲伯因三ヶ国合力」として、織田軍の木下藤吉()、坂井右近(坂井政尚)が2万の兵でに攻め込み、生野銀山、子盗、垣屋などの城を攻略している。 また、「備作両国御合力」として、木下助右衛門尉、同左衛門尉(木下祐久)らが2万の兵でに攻め込み、増井、寺蔵院などの城を攻略。 その後、に進んでに攻め込む予定であることが記されている。 同日、同人に宛てた尼子勝久の寄進状には「但馬国」と記載されており、他の資料の関係から「但州(但馬国)」の誤りではないかとの指摘もある。 『雲陽軍実記』『陰徳太平記』によれば、但馬国から海賊・奈佐日本之介の手を借りて隠岐国へ渡り、隠岐の国人・隠岐為清の協力を得て島根半島に上陸したとする。 『陰徳太平記』では、15城。 綱寛は、以前より尼子方から誘いを受けており 、大友宗麟の勧めもあって 尼子方へ寝返った。 毛利方についていた、三刀屋久祐、高瀬備前守、米原綱寛が、幸盛の誘いにより尼子方についた。 ただし三沢氏、三刀屋氏は後に毛利につく。 以後、日野衆は、尼子再興軍が上月城の戦いで滅ぶまで、一貫して支え続けていく。 毛利方の山田重直が、尼子方の因幡国の荒神山城(現在の河内)を攻撃している。 永禄13年3月 - 元亀2年5月にかけて、尼子方の日野衆と毛利方の宮氏が備中・備後の国境付近で戦っていた。 雲州牢人(尼子再興軍)が、美作国のを攻めた。 1月28日には多久和城(三刀屋町多久和)を毛利軍が攻め落としており この布部の地を抜けると月山富田城はすぐそこである。 高瀬城は元亀2年3月19日に落城 、伯耆の岩倉城は元亀2年5月14日に落城 など• 同じ頃、伯耆における尼子再興軍の最後の拠点・八橋城も落城している• 天正元年8月1日に、尼子再興軍が鳥取城下で武田軍の兵を討ち取っていることが分かる。 その他、甑山城の戦いは『』や『』にも記載がある。 『』は天正元年8月1日。 『』は天正元年8月。 『』は元亀3年8月に戦いがあったと記載。 『太閤記』では鳥取城の本丸に尼子再興軍が、二の丸に豊国が入ったとする。 また、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの軍記資料では、その後、幸盛は鳥取城を退出し、京に上り織田信長に謁見。 そして再び因幡国へ攻め入り、再度鳥取城を落としたとする。 『陰徳太平記』では13城。 鳥取城下や岩井方面(鳥取県岩美郡岩美町)で合戦に及んでいる。 山名豊国らの仲介によって、天正3年正月頃には和平に向けた合意がなされていた。 『雲陽軍実記』では45,000の兵。 このとき、山名豊国が但馬国の山名祐豊にも因幡への出兵を要請していた• 三村氏の居城・松山城は6月7日の時点で既に落城。 なお、『備中兵乱記』によれば5月22日に落城。 三村氏の当主・三村元親は6月2日に自害。 浦上氏の居城・が、9月14日までには落城していた。 9月11日、三浦氏の居城・高田城が落城し、これにより三浦氏は事実上滅亡した。 『太閤記』では、天正3年正月10日に近江国の安土山へ行き信長に謁見。 その後、岐阜にいる織田信忠へ会いに行った。 『 陰徳太平記』では元亀2年、明智光秀の仲介で信長に謁見した。 『太閤記』では信貴山城を攻めた際、『渡辺助允覚書』では片岡城を攻めた際のこと。 また『渡辺助允覚書』では河合将監を河人将監と記載。 勝久は、このとき遠く離れた出雲のへを出すなど、出雲への復帰の意思を示している。 天正6年1月末に出陣、翌日に上月城の手前60余りで布陣した。 『備前軍記』や『陰徳太平記』などによれば、 上月城を秀吉軍が落とす。 と上月城の所有が二転三転している。 吉川元長の書状には「此方の軍は3万」と記載されているが 、此方とは吉川軍だけか、または小早川・宇喜多軍を含めてかは不明。 『家忠日記』では毛利軍は8万• 『桂岌円覚書』によれば53人。 「芸州へ不忠の者五三人、勝久同前に打果し・・・」。 ただし、『後太平記』巻第四十二 「山中鹿之助被誅事」には、6年()に39歳で死亡したと記載され、年齢があわない。 26年()12月29日、の前日に、当時の(党首)であった板垣退助は以下のように話を続け、解散に屈してはならないと党員を激励した。 「彼は常に 七難八苦に遭わしめ給えと、三日月を拝したということであります。 又彼の述懐に、 憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力ためさん ということを申しております。 彼の三日月を拝したというのは、如何なる意を以て拝したのであるかということは、出雲の人に就いて聞きましても分りませんが、私自ら解釈したつもりで居りまする。 彼の満月となります時は必ず欠くるものである。 彼の三日月の微々として雲間に光る処が、其不満なる有様、是れ士志の同感をなす処であるということでありまする」。 元和元年(1615年)、賀陽郡刑部郷経山城主であった中島大炊助元行が、自己の体験した合戦とその功績を子孫に残すため著したもの。 『名将言行録』にも記載あり。 『桂岌圓覚書』の内容に加え、幸盛が頸にかけた袋の中に「大海のつぼ(茶入れ)」を持っていたこと、及びこれら太刀と茶入れは毛利輝元に献上され「荒身国行の太刀」については輝元が所持したことが記載されている。 『陰徳太平記』・『後太平記』にも同様の内容が記載。 後に輝元からに献上されたとされる。 『』によれば、尼子十勇士とは、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した、勇力の優れた10人の人物と記載する。 その中でも幸盛を第一とした。 山中鹿介、立原源太兵衛、熊谷新右衛門の3人。 幸盛が最初の兵を切って落とすと、次の兵は馬から降り立ち、3尺5寸の太刀を抜いて向かってきた。 幸盛は「やさしのおのこや(けなげな奴だ)」と言って、おがみぎりに切ると、相手は微塵になって谷底へ転がり落ちていった。 神仏がご覧になっている前で殺生は良くないと思い、寺の住職と相談して盗賊は解放することにしていた。 (原文)永々被遂牢、殊当城籠城之段無比類候、於向後聊忘却有間敷候、然者何へ成共可有御奉公候 恐々謹言 七月八日 幸盛(花押) 〆進藤勘介殿 山鹿 (書き下し)永々牢を遂げられ、殊に当城籠城の段、比類無く候。 向後において、いささかも忘却有るまじく候。 然れば、何くへなりとも、御奉公あるべく候 恐々謹言 (訳)長い間の牢人生活を終えられ、特にこの前の籠城戦(上月城の戦い)では、比類の無い戦いぶりでした。 このことは今後一生忘れません。 これからは何処へでも奉公されますように、恐れながら謹んで申し上げます• 崔元暉、呂栄公の母にも劣らないと記載される。 元通は以前尼子家に使えていたが、永禄6年()ののときに降伏して、以後毛利氏に従っていた。 禅僧は「幸盛殿と元通殿は現在敵味方に分かれていますが、幸盛殿は元通殿と旧交忘れがたく、貴殿をなにかと心配しておられます。 貴殿がご健在であることをお伝えしますので、この扇に何か一筆お書きください。 持ち帰って幸盛殿に見せれば安心なさるでしょう」と言って元通へお願いした。 意味は「古い枯れた幹ばかりの野に 古くからある柏 その柏のように 以前からの気持ちを忘れてはいません」。 古今和歌集 巻第十七 雑歌上886 題知らず よみ人知らず• 『雲陽軍実記』では昼夜70 - 80回。 『陰徳太平記』では一晩に170 - 180回厠に通ったと記載。 『雲陽軍実記』では、厠の透垣(板と板、または竹と竹との間を少し透かしてつくる)を乗り越え、底樋(ため池などの底の水を取水する)のを抜けて逃げたと記載。 『陰徳太平記』では、 厠の樋を游り(くくり)て逃げ出したと記載。 勝久は当初、京都の東福寺の僧であった。 出典 [ ]• 『尼子盛衰人物記』p309• 『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬シリーズ4-』p104• 『島根縣史 六-守護地頭時代』 大正15年6月30日 島根県内務部島根縣史編纂掛• 尼子義久家臣人数帳(『佐々木文書』「佐々木文書237」)• 『後太平記』巻第三十六「出雲国馬潟原合戦之事」• 『中国兵乱記』一の巻「毛利元就が雲州へ攻め入った事」• 『雲陽軍実記』第三巻「杉原播磨守盛重と山中、立原、秋上等三保関軍のこと」• 『陰徳太平記』巻三十七「杉の原盛重伯州泉山の城に入る 付 弓の浜合戦之事」及び「泉山合戦之事」• 『雲陽軍実記』第三巻「富田惣攻め三所合戦 並びに毛利勢、荒隈帰陣の事」• 『陰徳太平記』巻三十八「富田城下三箇所合戦之事」• 『陰徳太平記』巻三十九「富田所々付け城 並 山中鹿助夜討事」• 「永禄9年11月28日下城、相届供仕衆中(『佐々木文書237』)• 『二宮佐渡覚書』「尼子三兄弟御供の衆」• 山本浩樹『西国の戦国合戦-戦争の日本史-』(吉川弘文館、2007年、P180)• 『吉川家旧記五』• 『雲陽軍実記」第四巻「所々尼子方蜂起 並びに富田合戦の事」• 『陰徳太平記』巻四十三「諸国毛利家に背く 付 立花の城明け渡す事」• 『太閤記』巻十九「元就群難之事」• 『雲陽軍実記』第五巻「毛利大勢攻め上り多久和城明渡し 並びに布部大合戦の事」• 『』国主之部「鳥取タノモ崩之事」• , p. 『陰徳太平記』巻第五十一「山中鹿助と大坪甚兵衛与合戦之事」• , p. 『中務大輔家久公御上京日記』天正3年6月17日条「国立国会図書館所蔵」。 天正3年、が京へ上った時につけていた日記。 6月17日の日記のなかで、2・3日前に山中鹿助が若桜鬼ヶ城の城主を謀略により生け捕り、城に入ったことが記されている。 , p. 『陰徳太平記』巻第五十一「私部の麓合戦之事」。 吉川軍27,000、小早川軍20,000の兵。 『備中兵乱記』巻の中「元親が阿部山へ落ちたこと」• 『備中兵乱記』巻の下「元親の最後の事」• 『備前軍記』巻第四「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」。 『陰徳太平記』巻第五十四「尼子勝久上月城に入事」。 『家忠日記』天正6年5月「増補史料大成」• , p. 118。 また『山中家譜草案』は、享年37歳と記載されるとする。 『島根県口碑伝説集』「幸盛誕生の地と垂水神社」。 , p. 169. , p. 264. 「山中幸盛」と題する七言絶句(漢詩)より。 「 山陰の麒麟児」と呼ばれるゆえんとされる。 (原文)「存孤杵臼何忘趙 乞救包胥暫託秦 嶽々驍名誰喚鹿 虎狼世界見麒麟」• 『』第七章 世人百態より。 , p. 149. 『陰徳太平記』巻三十九「 山中鹿の助品川狼の助合戦之事」より。 「赤糸縅しの鎧に小男鹿の五鎖打たる角を、銀にて泥みて卓物とし・・・」• , p. 177. 鎌倉時代中期の京の刀工「来国行」作の太刀。 『老翁物語』より。 『後太平記』巻第四十二「山中鹿之助被誅事」• 『享保名物帳』 下巻 「宗近、國近、國俊、國次、長谷部、信國、了戒、當麻、包永、貞宗の部」。 『常山紀談』巻十一による• 『耳嚢』巻一による。 『』より。 『雲陽軍実記』より。 『陰徳太平記』巻四十三 神西三郎左衛門志を変する事 より。 『雲陽軍実記』第五巻「毛利元就公病死、山中鹿之助偽りて降参、並びに勝久公隠州落ちの事」。 『陰徳太平記』巻第四十八「山中鹿の助出奔 付り 尼子勝久走於隠州に逃之事」。 『陰徳太平記』巻五六「上月城没落 付 勝久自害の事」より。 , p. 344-345. , pp. 223—224. , pp. 224—225. , pp. 230—231. , pp. 231—232. , p. 232. , p. 215. , p. 212. , pp. 228—229. 2017年10月20日. の2017年10月21日時点におけるアーカイブ。 参考文献 [ ]• 山口県文書館 編修『萩藩閥閲禄 第一巻〜第四巻、別巻、遺漏』(マツノ書店、 1995年)• 東京大学史料編纂所 編纂『大日本古文書-家わけ第九 吉川家文書之一-』(財団法人 東京大学出版会、 1997年 覆刻)• 三坂圭治 校注『戦国期 毛利氏史料撰 』(マツノ書店、 1987年) 中に『桂岌圓覚書』『老翁物語』を含む)• 米原正義 校注『戦国期 中国史料撰』(マツノ書店、 1987年) 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妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ4』(ハーベスト出版、1971年)• 妹尾豊三郎『詩文に表れた月山と幸盛-戦国ロマン広瀬町シリーズ9』(ハーベスト出版、1976年)• 『山中鹿之助 - 歴史新発掘 - 川中島合戦の落し子の生涯』叢文社、2010年。 土井大介「」『藝文研究』第95巻、慶應義塾大学藝文学会、2008年。 徳地町史編纂委員会編集『徳地町史』(徳地町役場、2005年) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 山中氏の• - 宗家• - 本家・主家• - 主君• - 主君• - 尼子家中• - 尼子家中 先代: 歴代当主 1560年 - 1578年 次代:.

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