遥かなる霊峰。 【ポケダンDX】伝説/幻のポケモンの入手方法・ダンジョン攻略法│ホロロ通信おすすめゲームと攻略裏技最新まとめ【ホロロ通信】

遥かなる霊峰攻略

遥かなる霊峰

基礎データ 全国図鑑 No. 250 ジョウト図鑑 No. 8m おもさ 199. 他言語版の名称 英語 Ho-oh イタリア語 Ho-oh スペイン語 Ho-oh フランス語 Ho-oh ドイツ語 Ho-oh 概要 地方の伝説に語られる伝説のポケモン。 原作ゲーム「」の金版のパッケージを飾っており、銀版を飾ると対になる存在。 リメイクである「」でも同様。 名前の由来は恐らく『』または『平等院鳳凰堂』から。 作中で「」とも称される翼や尾羽を持っている。 をもつだけあり、体の色は炎を連想させるような朱色と黄色である。 色違いはパッケージ作品同様の金色の姿になっている。 「ポケモン神話」においては、世界中を飛び続ける、心正しき者の前に姿を現す、虹の麓に生息している、飛んだあとにはが残る、虹色の羽は幸せをもたらす、ホウオウを見たものには永遠の幸せが約束されるというように、顔と巨体に似合わない「 極楽浄土」の象徴のような伝承が主に語られる。 地方には「生命の蘇生」に関わる伝承を残している。 エンジュシティには、・・を死者蘇生させたという伝説が残されており、アルフの遺跡にも当時絶滅していたはずの化石ポケモンと共に姿が残されている(ホウオウが蘇生させたという暗示?)。 回復アイテムである「」を所持し、隠れ特性は「」という的な側面まで有している。 なお、エンジュシティからは150年前に飛び去ってしまったというが、今でもエンジュの僧侶達に守られ、に追いかけられ、俗に言うに待ち伏せされるというっぷりである。 初登場したゲームの発売は現実世界の1999年だが、その2年前の1997年に『金・銀』の制作が発表された際に 最初に登場したポケモンである。 、、がこれに続いた。 当時タイプは明かされておらず、謎のポケモンという立ち位置だった。 出現場所もルギアは下に潜る場所なのに対してホウオウは上に進んでいく。 更に公式イラストのポーズも『金・銀』時代はホウオウが翼を上に振り上げているのに対し、ルギアは翼を下に振り下げている。 また、『HGSS』では左右逆を向いたポーズになっている(これは『』以降のパッケージを飾ったポケモン共通の仕様でこの2体に限った話ではないが)。 奇遇にも どちらにも「生命」に関わる設定(こちらは復活・再生)がある。 『金・銀・クリスタル』では専用曲はなかったが、リメイク版である『ハートゴールド・ソウルシルバー』で和風な専用曲が追加され、ファンの間ではかなり評価されてる曲である。 海外でも人気が高い曲だが、作曲者の一之瀬剛曰く「和を押し出しすぎてポケモンっぽくない」ので没にする予定だったとのこと。 2016年3月にオープンした「キョウト」のシンボルポケモンに採用された。 ホウオウが降り立つスズのとうがあるのモデルがであるためと思われる。 これを記念し、全国のポケモンセンターやポケモンストアで色違いである金色のホウオウが期間限定で配信された。 ゲーム上での特徴 バージョン 遭遇場所 出会うための条件 レベル 金 ストーリー中にを入手する 40 銀 スズのとう エンディング後ににじいろのはねを入手する 70 クリスタル スズのとう ・・をそのデータで捕まえている 60 全 48匹 をリライブ後、バトル山をクリア 70 入手後にを配信で手に入れる 70 エメラルド へそのいわ エンディング後にしんぴのチケットを配信で手に入れる 70 HG スズのとう バッジ8個目入手後のイベントで来る 45 SS スズのとう エンディング後ににじいろのはねを入手する 70 捕獲後にHGを差してARサーチャーをプレイ 5~ OR 戦後にで拾える探知機をのに渡し、を入手する 50 US でホウオウのいる世界に行く 60 『ハートゴールド』のみストーリー上で来ることになるが、捕獲率係数は一度も変えられていないため、もともと任意遭遇だったホウオウは 最も低い係数のまま(要するに捕まえにくい)。 なお、第3世代開始から『HGSS』発売まで配信なしでのホウオウの入手方法が外伝作品『ポケモンコロシアム』しかなく、本編での確実な入手方法が存在しないことから『FRLG』から『Pt』までのソフトでは 幻的扱いを受けていた(全国図鑑完成の条件に含まれず、攻略本での記載もそれになっていた)。 本編で入手可能になった『HGSS』から元に戻り、全国図鑑の完成にも必要になった。 性能 HP 攻撃 防御 特攻 特防 素早さ 合計 106 130 90 110 154 90 680 ステータス面では「こうげき」及び「とくぼう」が特に高い。 およびルギアとは種族値がシャッフルされている。 特殊耐久だけで言えばルギアと同等という凄まじいスペックを持つが、3匹の中ですばやさは最も低い。 準専用技()の「」は威力 100、命中 95、追加効果で 「やけど」5割という申し分ない性能を持つ。 多少相性が悪くても相手をやけど状態にしてしまえばこちらのもので、「」「」「」などを駆使すれば、特性「」を生かし たとえであろうが相手によってはPPを0にして強引に勝てる場合もある。 また、から物理攻撃になったため、自身の高いこうげきを存分に活かせる……のだが、技のエフェクトは どう見ても炎を飛ばしているようにしかみえない。 初出の金銀、時代には「」の上位版みたいなエフェクトだった。 そのため物理炎の概念すら無い金銀当時のほうが何故か物理技っぽかったりする。 物理わざでは他にも「」「」「」「」などを覚える。 特に「ブレイブバード」はタイプ一致威力 120と申し分なく、物理耐久が低めなポケモン達に大ダメージを与えられる。 また「こうげき」ほどではないが「とくこう」もやや高いため、特殊ベースの戦法も可能。 こちらの場合は「」からの「」や「」が強力。 何気に「」も覚えたりする。 変化技は上記「はねやすめ」が強く、相手に先制できればタイプ相性を変えながら技を受け続けることができる。 その他「」「」なども使える。 反面弱点は割かしメジャーで、とが2倍弱点、は伝説では数少ない である。 特殊技であれば非常に高い「とくぼう」からちょっとやそっとでは倒されないが、いわタイプの技はほぼ物理技なので呆気なく散る。 「やけど」させても4倍はさすがにきつい。 また忘れがちだがホウオウはすばやさ90族である為、伝説ポケモン相手でなくても意外と抜かれることが多い。 攻撃面でも難点があり、一致技以外の物理技に乏しい。 上記で挙げた以外に有用そうなのは「」くらい。 特殊技は充実しているが、肝腎のひこう特殊技が(「」を除けば)「」「」しかない。 このため登場当時は「せいなるほのお」に合わせ特殊技を中心にして戦っていたが、『DPt』にて同技が物理技化した上に 『DPt』当初「ブレイブバード」を覚えられなかった(『HGSS』から習得)ため、伝説最底辺まで評価が落ちた。 つまり の上司は唯一神という笑えない状態だった。 ただこのポケモン、ではなくである。 で追加された隠れ特性は「」である。 能動的に使うとすれば「ブレイブバード」で受けた反動を技を使わずに回復させることだろうか。 ただその場合「はねやすめ」でタイプを変えながら技を受ける戦術が使いづらくなってしまう。 どちらかと言えば交代戦向けの特性と言える。 第7世代『』で手に入るホウオウは本来覚えない 「」を覚えている。 ほのおタイプを無理矢理消して弱点を2つ減らすことができるが、特殊技なので物理主体のホウオウとは相性があまり良くない。 一応「とくこう」は110あるので両刀ができないわけではないが。 バトルではやと一緒に使う戦術が一番イメージしやすいが、第4世代、の時期にホウオウが出場できた公式大会ではと仲良くしていることが多かった。 ホウオウが大会でよく使われるややといった非伝説に強く、ルンパッパが伝説、特にカイオーガやグラードンを強く牽制できるため、相性が良かったのだ。 ホウオウ単体で見ても 「非伝説に強い」というメタな立ち位置にいるポケモンである。 このため前評判を覆し大活躍を見せた。 その後は同タイプのに役目を奪われ失速したが、ファイアローが弱体化したことで再び復活した。 アニメでの活躍 第2世代のポケモンでありながら、の第1話 系での放送日は1997年4月1日 に登場している。 ただし、 ホウオウであることが公式に言及されたのはのときである。 当時は名前すら判明していない状態だったが、その神秘性からにとって忘れられないイベントとして記憶されている。 なお、前述の通り1997年春の当時に金銀の制作発表が既にあり、ホウオウの姿も公開されていた。 だがそれ以降アニメ本編ではちょい役や回想で出ることこそあれど、ホウオウがメインの話はほぼない(辛うじて「ニューラとせいなるほのお! 」がある程度)。 扱いが酷いと捉えられることもあるが、それが逆にホウオウの神秘性を高めているという意見もあり、本編中では依然としてサトシが旅立つ際などの分岐点においてその姿を現す謎のポケモンという立ち位置を貫いている。 「」エピソード6:再生にて(世界観が違うとはいえ)約20年振りに映像作品に登場。 映画での活躍 前述の通り「 アニメには最も早く登場」したホウオウであったが、反対に「 映画には最も遅く登場」した(世代的には同期であるは『』にて登場している)。 伝説ポケモンといえど、 ゲームでの新作が出る度に比較的早くに映画にも反映(サブタイトルに名前も付される)される事が多いが、 それでもホウオウだけは例外とされ、長らく映画には登場していなかった。 映画そのものには『』で初めて姿を見せたが、多くの伝説ポケモンが登場した『』にも登場しなかった…が、2017年に劇場版20周年記念作品『』で 実に20年越しの銀幕デビューを果たした。 「キミにきめた! 」ではアニメ本編同様冒頭でサトシとピカチュウの上空に現れ、にじいろのはねを落としていった。 にじいろのはねはホウオウに認められたトレーナーの証でホウオウが降り立つ地へと導く。 しかし、悪しき心を持つ者が触れると黒ずみ輝きを失ってしまう。 映画終盤、との激闘を乗り越えたサトシの前に再び現れピカチュウと激闘を繰り広げた。 その他 シリーズ 以降の作品に登場。 DXとではモンスターボールから出現し、画面奥に移動した後「」で広範囲にわたる火柱をあげる。 では「」の火炎の間に低確率で出現。 2本の火柱を高くふき上げてくる。 ポケダン イベント関連の大トリで登場、遥かなる霊峰にて待ち受ける。 ダンジョンの難易度もさることながら本人も物凄く強い。 何せ敵キャラとしては 同ゲーム中最強のとくこうを持つ上に一致高威力の 「」でこちらを消し炭にする。 全体攻撃がないのが唯一の救いか。 無事クリアできたならパッチールに報告しよう。 ちなみにパッチールイベントは最後パッチールと会話することで終わるのだが、1回しか発生しないイベントなのに、あろうことか リーダーがホウオウか否かで内容が若干変わってしまう。 ではダンジョンが長くなり、より難易度が上がっている。 だがポケモン広場で任意のポケモンを動かすことができなくなったため、ホウオウがパッチールと直接会話することはできなくなった。 エンディング後の仲間に出来ない伝説のポケモンとして登場。 なぜかこいつだけ 色違いが出現することがある。 期間中に公開されたCMにや対をなす存在であるルギア共々登場していたが、実装はかなり後になり、グローバルチャレンジ終了後の にようやくとしてジムに出現するようになった( こいつより先にという……)。 同じほのお/ひこうタイプの伝説ポケモンであると比較すると、攻撃が低い反面HPと防御に優れたバランス型の性能になっており、総合CP値もこちらの方が上。 だが、 ほのお技がゲージ技の「」しかないというほのおポケモンとしてはあまりに致命的すぎる弱点を抱えている。 これ以外のゲージ技は フルゲージ技であるにも関わらず威力がわずか90という 「」とタイプ 不一致の 「」という何とも微妙過ぎるラインナップ。 通常技もタイプ 不一致の「」と「」しかない。 その後、「」が追加されたが、こちらもゲージ技と併せて運用しようとなると、ほのお・・ひこう・のいずれかを引き当てなければならないので微妙なところ。 これで個体値も粘ろうとなるとべらぼうな厳選難易度になってしまう。 このため、一致技に恵まれ攻撃も優秀なファイヤー・・と比べるとイマイチな性能になってしまい(というか、最近ではを覚えたリザードンやにすら火力で抜かれてしまうという始末…)、「一致技が充実しないせいで伝説にしては微妙」という悲惨な事態になっている。 そのせいで専らコレクション向けのポケモン…… と思われていたのだが。 2017年12月にがレイドボスに登場したことで、何と グラードンのゲージ技を全て軽減し、かつ「」で弱点まで突けるポケモンとして名乗りを挙げるようになった。 耐久が高いことで長く居座ることもでき、グラードンが強化される晴れの場合でも問題なく戦えるどころか こちらもくさ・ほのお技の威力が大幅に強化されるため、「ソーラービーム」が物凄い威力になる。 ニッチな役割ではあるがようやく活躍の場が用意され、レイドバトルではかなりのポテンシャルを誇るようになった。 また、の実装後は、 「めざめるパワー」による奇襲性の高さや、 ほのおタイプの愛称補完として「はがねのつばさ」と「ソーラービーム」を覚えられること、他のほのおタイプのアタッカーが習得している「」が弱体化した(使用後に攻撃力が大幅に下がる仕様が追加された)ことにより、 安定してダメージを狙える「」や「」の評価が相対的に上がったこと等もあり、ホウオウも以前と比べるとプレイヤーからその能力を評価されるようになってきてはいる。 このように、現在ではほのおポケモンとしての運用よりも、 状況に応じて技を使分けていく方が真価を発揮できるという、伝説ポケモンとしては少々トリッキーな性能のキャラになっている。 ……そこまで本編を踏襲しなくても。 なお、レイドボスとして登場した時の注意点として、前述の通り ゲージ技に「」が紛れ込んでいることがある。 相性が良いとされるや、(は除く)はいずれも くさ技がとなっているので注意が必要。 伝説キラーことバンギラスもいわタイプ持ちなのでソーラービームをまともに受けるとまず助からないと考えた方が良い。 このため、いわタイプのポケモンよりも、くさ技を等倍で受けられるの方が安定して戦えることもある。 特にの複合であるはすべてのゲージ技を「」以下で受けられるのでオススメ。 ジェネレーションチャレンジ2020・ジョウトではタスク報酬として出現。 こちらは特別技として「 じしん」を覚えている。 が、と違い、じしんを覚えても性能としてはまだ微妙な立ち位置に留まっているのが現状。 一応こちらの弱点を突いてくるでんきポケモンに対しては打点になるが。 事件 ~までの期間、突如レイドボスとして再臨。 さらにルギアと同様まで実装された。 ……のだが、当時は 丁度同じのもレイドボスとして実装されていた時期でもあり、5卵からラティ兄妹の孵化する確率が半減してしまったことで、厳選の妨げになってしまうという事態を招いてしまうこととなった。 特にドラゴンタイプでも最強クラスの存在と目されているが出現していた(を含む)地域での怒りの声は凄まじく、「 はっきり言って邪魔」「 ラティオスが孵るかと思って待っていたら結局ホウオウが出てきて時間の無駄になった」といったコメントが多数公式ツイッターに寄せられた。 同様に、ホウオウの色違い入手を狙っていたユーザーにとっても、「 実際に孵化するまでラティオスとホウオウのどちらが手に入るかわからないのでやりづらい」という困惑の声が上がることとなった。 そもそも運営はこの3か月ほど前にも、レックウザをレイドボスとして実装した際にも中盤でとの再出現を被せてプレイヤーから顰蹙を買ったという事例があったばかりであり、「 あれほど苦情が殺到したのにまた同じことを繰り返すのか」「 運営は失敗から学習しようという意識がないのではないか」とまで言われた。 この後も、ホウホウはどういうわけか 他の伝説ポケモンと同時に復刻されたり、別の伝説ポケモンの実装時期の終盤に割り込むような形で復刻されることが多い(しかも復刻期間も短め)。 このため、他の伝説ポケモンと比較して相対的に色違い入手や個体厳選の難易度が上がっており、プレイヤーからは改善を望む声が上がっている。 2020年4月30日~5月14日に開催されたイベント「」において、イベントクリア報酬バディーズとして新規参戦。 イベントクエストでは『HGSS』のホウオウ戦のアレンジBGMが流れており、大胆なアレンジが加えられている一方で原曲のフレーズやモチーフもしっかり取り入れられた仕上がりになっている。 相方は「金銀/HGSSライバル」ことだが、彼は『HGSS』での経験から自らの過去を見つめなおして改めている節があり、イベントシナリオでも「オレの前にホウオウが現れるわけがない 自分はホウオウが好むような正しいトレーナーではない 」と自虐したり、目の前にホウオウが姿を見せた時でさえ「がいるからか」と自分を勘定に入れない発言をするなど自己評価は低かった。 だが、シルバーが「一度見逃せば二度と出会えないだろう伝説のポケモン」よりも「の窮地に駆け付けること」を優先した結果、ホウオウは彼の元に再び舞い降りることとなった。 つまり、シルバーがホウオウを力ずくでバディにしたのではなく、 ホウオウの方からシルバーを選んだというのが重要である。

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はるかなる れいほう

遥かなる霊峰

島国とも呼ばれる日本は、国土の大半を山々で埋め尽くされています。 その数は、少なくとも2万はあると言われています。 それらの山々の中でも、特に名高く、由緒ある山は、江戸時代では「日本名山図会」にて88山が選別されています。 その後、昭和の時代に入ると「日本百名山」と呼ばれるくくりでもまとめられるようになり、時には「日本二百名山」、「三百名山」として、より多くの山々が含まれることもありました。 「日本百名山」は登山家であり、小説家としても活躍した深田久弥氏が、自らの登山体験を踏まえたうえで、山々を選定しています。 その基準となったのは、1. 山の品格、2. 山の歴史、3. 山の個性です。 そして深田氏自身が登頂した山ということが大前提にありました。 その後、2006年には山と渓谷社より「新日本百名山登山ガイド」が発刊されました。 また、山岳雑誌の「岳人」によるアンケートにより、登山の対象として面白い山々100峰なども選定されています。 こうして日本の山々は、多くの山岳家をはじめ、自然を愛する人々から崇敬され、その名を歴史の中に刻んできました。 日本列島に存在する古代霊峰 日本の著名な山々を思い浮かべる際、百名山という自然の美を基本としたくくりだけでなく、時には、霊峰と呼ばれる宗教的な意味合いを含む基準を用いて選定することもあります。 霊峰とは、山々の中でも、古くから信仰の対象として崇拝されてきた山々を指します。 日本では古代から山は神聖な場所と考えられ、そこに神が住まわれるという宗教観が根強く存在しました。 よって多くの山々では神仏が祀られている場合が少なくありません。 地域に土着する風習や宗教観に基づいて山の随所に祠が建てられ、祭りごとが行われることは日本固有の文化です。 それら地域に土着した宗教観を超えて、歴史的かつ宗教的な意義のある由緒や言い伝えにより、山全体が神聖化された山々を霊峰と呼びます。 最も有名な霊峰は、「日本三名山」「日本三大霊峰」とも呼ばれる富士山、白山と立山です。 この三名山の共通点は、それぞれの山がご神体として崇められ、山の麓だけでなく、その山頂にて神が祀られていることが挙げられます。 富士山では山の神霊を祀る浅間信仰が広まりました。 立山は山岳信仰のメッカとして修験道者が集まり、立山信仰の神として伊耶那岐神が立山権現として祀られています。 また白山も古代より山岳信仰の対象として修験道の霊峰となり、白山信仰が古くから広まりました。 これらの山はいずれも修験道のメッカとして多くの行者が神を崇めるために登山したという歴史を共有しています。 また、日本三名山に加え、奈良の大峰山と釈迦ヶ岳、鳥取の大山、愛媛の石鎚山を挙げ、富士山、立山、白山と合わせて「日本七霊山」と呼ぶこともあります。 しかしながら七霊山には諸説があり、釈迦ヶ岳を外して月山を加える説もあれば、白山の代わりに御嶽山を選別する説など様々です。 どのような条件をもって霊峰を選ぶかは、それを選定する学者や評議会の考え方や選定基準に左右されます。 よって、「日本七霊山」には定説がありません。 最近では山と渓谷社より「日本百霊山」という本も出版されており、より多くの山々が霊峰として紹介されています。 世界遺産の登録基準10項目 霊峰と呼ばれるからには、それなりの基準が必ずあってしかるべきです。 霊峰を選定する際に参考となるのが、世界遺産として登録されるための基準10項目です。 世界遺産となるためには「顕著な普遍的価値」が見出されることは言うまでもありません。 その基準として10項目が挙げられていますが、その中でも以下の5項目(10項目中3? 7項目)が、霊峰を選定する際の基準として参考になるガイドラインと言えそうです。 以下にそれら5項目を抜粋しました。 iii 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在 少なくとも希有な存在 である。 iv 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。 v あるひとつの文化 または複数の文化 を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。 又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である 特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの• vi 顕著な普遍的価値を有する出来事 行事 、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい。 vii 最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。 日本の霊峰は、どれもが類まれな自然美を有することは勿論、宗教文化を継承してきた形跡が山麓から山頂まで随所に見られ、古代からの歴史の流れを肌で感じることができます。 そして霊峰を囲む地域で執り行われる祭りごとは、長年にわたる宗教的な伝統行事の一環であり、山の存在そのものと密接な関連があります。 人々と霊峰とのふれあいは、日本固有の伝統に相まみれて、長年にわたりその山を聖なる場所と位置付けることに寄与し、いつの日も特別視されるようになったのです。 日本の霊峰は、当然のことながらこれら世界遺産としての条件もクリアーできるほど、特有の美と歴史を誇ります。 古代霊峰の歴史的背景 これら世界遺産の基準を用いたとしても、古代の霊峰を選別することは容易くありません。 どの山が霊峰か、という問いかけについては諸説があり、細かい選定基準が定まっていないからです。 様々な尺度や見方があることから、結果として、霊峰と呼ばれてきた山々は日本列島の随所に存在します。 しかしながら、奈良時代や飛鳥時代をさらに遡り、古墳時代、そして弥生時代から霊峰として崇められてきた可能性のある由緒ある山々のみに絞るならば、検証すべき霊峰の候補は限られてきます。 果たして古代の人々が信仰の対象とした霊峰を特定することはできるのでしょうか。 どのような歴史的背景により、霊峰として人々から崇められるようになったのでしょうか。 霊峰と呼ばれる山々には、古代に遡る由緒があるだけでなく、その他にも古代の人々が注目した何かしらの共通点があるはずです。 それら歴史の流れと霊峰の実態を理解することにより、山に纏わる由緒と共に、「霊峰」として崇められるようになった理由を見極めることができるはずです。 霊峰として選ばれる山々の選定は、その選択基準によって大きく左右されるだけに、正しい歴史的解釈と宗教概念をもって見定めることが重要になります。 そこで日本の古代史を振り返りながら、国生みの時代を経て、いかに山々が「霊峰」として崇められるようになったか、そのきっかけと可能性について考えてみました。 太平洋に浮かぶ多くの諸島においても、古代より宗教的行事が山々で営まれてきた島は少なくありません。 しかしながら、日本のように整然としたしきたりや細かな儀式が長年にわたり踏襲され、山々においても神が崇められ、その頂上や麓にも神社が建立され、複数の山そのものが神聖化するというような事例は世界でも類をみません。 古代、何らかのきっかけがあったからこそ、日本固有の「山の宗教文化」が培われることになったと考えられます。 その背景を探るためにも、古代史の流れを理解するための前提となる様々な歴史的要点を、グローバルな視点から見直すことが不可欠です。 そこで、諸説はあるものの日本の有史が始まった可能性のある紀元前7世紀前後と同時期に、西アジアにて国家を失ったイスラエルの民が離散して世界各地へと移住したという史実に注目し、離散したイスラエル人と日本の接点を考えてみました。 すると古代、アジア大陸よりイスラエルからの移民が大陸沿いに海を渡り、最終的に日本列島に住み着いて国生みを実現し、日本の有史が始まったという想定も、可能性として見えてきます。 そしてイスラエルからの渡来者が国生みに関わったと考えることにより、古代史における様々な疑問が解かれていくことがわかります。 これが「日本とユダヤのハーモニー」を考察する原点となります。 例えばイスラエルの民は、聖書に書いてある言葉を神の言葉と信じる民族としても知られています。 それ故、西アジアから渡来したイスラエルの民が日本の霊峰を見出した張本人であるとするならば、それらの高き山を霊峰として求めなければならない理由があったはずです。 果たして、聖書には霊峰についての教えが記載されているのでしょうか。 聖書には神が山に降臨し、山に住まわれるということが、複数個所に記載されています。 モーセはシナイ山にて天から降臨する神と出会っただけでなく、ダビデ王の時代では、王自身が神と山の関係が大切であることを詩篇に綴っています。 ダビデ王は「主の山に登る」こと(詩24)、「神の山」(詩36)、「聖なる山」(詩43)の大切さを書き記し、「神が住まいにと望まれた山にとこしえに住まわれる」(詩68)と謳いました。 そして、その山は「高い山」であり、「主なる神がそこに住まわれる」(詩68)ことから、「聖なる山で拝みまつれ」(詩99)、「私は山にむかって目をあげる」と謳い続けたのです。 後の時代では、日本に渡来したと想定されるイザヤもその預言書にて、「主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえる」(2:2)ことから、「高い山にのぼれ」(40:9)、「わが聖なる山」(56:7)と書き綴っています。 また旧約聖書のミカ書4章には「末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ、もろもろの峰よりも高くあげられ、もろもろの民はこれに流れくる」とも記されています。 イスラエルの民にとって、高い山こそ、神が住まわれる場所と考えられていたことがわかります。 イスラエルの民は神を愛するがゆえ、古代、海を渡って日本列島に渡来した当初、国生みの一環として列島をくまなくリサーチしたうえで、神が住まわれる聖なる山をまず、探し求めたのではないでしょうか。 世界の島々の中で、日本の山岳信仰史が際立っている理由は、山に住まわれる神を信じたイスラエルの民の存在があったからに他なりません。 その宗教文化と伝統を長年にわたり列島各地で継承してきたが故、今日でも大勢の日本人は山を愛し、山に建立された神社や祠、そして山頂にて神を祀ることに努めています。 そしていつしか、ご来光を崇めるような風習がごく当たり前のこととして、庶民の間でも定着してきたのです。 もうひとつ見逃せないポイントは、古代、イスラエルからの渡来者は、船に乗って日本列島に到来し、優れた海洋民族の側面を持っていたと推測されることです。 イスラエルは国の西方が地中海に面しており、古代から船による行き来が盛んでした。 よって先陣をきって東方へと向かった初代の渡来者は、船を用いて大陸の海岸沿いを東に向かって航海したに違いありません。 その先頭集団の中には王族や神の預言者も存在したと考えられ、必然的に大切な神宝も船内に携えられてきたことでしょう。 その第一陣は、タルシシ船のような大きな船でアジア大陸を陸沿いに進み、琉球から南西諸島を北上して淡路島を基点とする日本列島に到達したのです。 それが国生みの原点と考えられます。 古代の民は優れた航海技術を携えており、天体や地勢を観測しながら方角を見定めつつ、船旅の拠点を定めることができました。 その航海の指標として重宝されたのが、船上から眺めることのできる海沿いの岬や半島であり、その背後に聳え立つ内陸の高山だったのです。 神が住まわれる山は、ひときわ聳え立つ高山という教えを聖書から学んでいた民だけに、船から眺めることのできる高山は船旅の指標となったに違いありません。 そして島ごとに海上から見届けることのできる最高峰を確認しては、上陸後、その頂上にてまず神を祀るための祭壇を築き、そこで神を崇め祀ったことでしょう。 こうして海から眺めることのできる地域の最高峰は、霊峰となる可能性がある山として一線が引かれるようになり、山の麓だけでなく、その頂上にも祭壇や祠、または社が造られるようになったと考えられます。 西アジアから到来した初代の船団は、航海の行き止まりとなる淡路島を長い船旅の終点とし、そこを日本列島の中心と見据えたようです。 それが記紀に記されている国生みの始まりと言えます。 そして淡路島を基点として、そこから船で島々を巡りまわり、列島の実態を把握し続けたのです。 その結果、多くの島々が見いだされて名付けられ、国生みが完結したと考えられます。 その過程にあって、本州の太平洋岸を航海した古代の民は、まず、高さと美しさを誇る富士山の雄姿に圧倒されたのではないでしょうか。 まさに霊峰の筆頭として名高い所以です。 これらの歴史的背景を前提とするならば、日本の霊峰が特定された経緯や理由が見えてくるようです。 古代にまで遡る由緒ある歴史が存在し、山そのものが古くから信仰の対象となり、今日まで多くの人に崇められてきた山こそ、真の霊峰になりえます。 また、これらの霊峰は、他の霊峰や聖地と、地の繋がりをもっていることにも注視する必要があります。 それは複数の聖地や霊峰が一直線に並ぶことをも意味し、その仮想線は、レイラインとも呼ばれています。 霊峰とは、必ず他の霊峰や聖地と結び付く場所に存在するものなのです。 こうして島々の最高峰や高山が特定され、そこで神が祀られたのです。 古代の霊峰として認知される条件が見えてきました。 古代霊峰の選定基準とは? 古代の民は如何にして、日本列島に霊峰となるべき山を見出し、そこで神を祀る社を建てたのでしょうか。 大陸より渡来してきた民は、高度な航海術と天文学を携えてきただけでなく、神は高い山に住まわれることを信条としていたと想定し、その視点に沿うように海の向こうに見える日本列島の島々を思い浮かべるならば、霊峰を見出すヒントが見えてくるようです。 海上より山の頂上が見える山 前述したとおり、海を越えて日本列島に渡来した古代の民は、必然的に船で日本列島周辺を行き来することになり、海上から陸の地勢を見届けることが重要な課題となりました。 そして遠く離れた内陸に山の頂上が少しだけ見える位の標高を誇る高山が指標として求められたことでしょう。 それは、山側から見るならば、その頂上から日本海や太平洋を一望できるほど、見通しが素晴らしいことを意味していたのです。 新天地にて神を祀る場合、その場所が容易に特定できなければなりません。 よって、海上から見届けることができる地域の最高峰であり、上陸した後も、その場所、方角、位置づけがわかりやすい場所にあることが大切でした。 古代の指標となるべく、360度にわたり、周囲の光景を見渡しながら遠くまで地勢を確認できることが、古代霊峰の必須条件だったと考えられます。 山頂と麓にて神が祀られている 古代より神が崇められてきた霊峰であるならば、人々が長年にわたり神を参拝してきたという軌跡が、山の随所に残されていると考えられます。 その最たるものが、山頂に建立された神社です。 その山頂にある社を奥宮として、山の麓でも神社が建立され、いずれにおいても人々がいつ何時でも神を拝することができるように整備されていることが重要です。 こうして霊峰の頂上まで登ることのできない人であっても、麓にて神を参拝することができるようになり、より大勢の人が山の神に歩みよることができるように配慮されていることも大事です。 古代の霊峰では、山頂と麓、双方で神を祀ることが当たり前だったのです。 レイラインにて他の聖地と結び付いている 古代の霊峰は、日本列島の指標として大切な位置づけを占めていました。 何故なら、それらの霊峰を拠点として、新たなる港や集落を列島内に造成する場所を特定し、神を祀る神社の場所も見出していくことができたからです。 その主だった手法がレイラインの構築です。 霊峰が座する地点を基準に、レイラインと呼ばれる仮想の直線を他の聖地と結んで引くことにより、その線上に、神社を建立すべき聖地や、港を建造する場所、さらには別の霊峰までも選定することができます。 それ故、古代の霊峰であるならば、その場所を拠点としてつながる複数の神社や聖地、他の霊峰などがレイライン上に複数見つかるはずです。 レイラインを構築する基点となっていることが、由緒ある歴史の証拠であり、それが霊峰であったことの印と言えるでしょう。 記紀に名前が記されている山 日本書紀や古事記には、神代から歴代の天皇紀に関する記述の中で、いくつかの山の名前が登場します。 史書に山の名前が記されているということ自体、その山の重要性が公に証されていると共に大切な情報源となります。 それらの山々において、神々とも呼ばれた日本人の先祖が古代、活躍されたのです。 その背景には、宗教的な要素も多分に絡んでいたことでしょう。 特筆すべきは四国の石鎚山と、琵琶湖そばの伊吹山です。 どちらも聖なる霊峰として、今日まで多くの人々から愛されてきています。 無論、すべての霊峰の名前が記紀に記されているわけではないことから、名前の記載は必須条件ではありません。 しかしながら記紀に名前が記載されることにより、より霊峰としての信憑性が高まることに注目です。 古代イスラエル人の行動範囲となる緯度内にある山 イスラエルの祖国は地中海に面しており、その緯度は日本列島とほぼ同じです。 イスラエルの民が歩んだ行動範囲の歴史を振り返ると、そのエルサレムと呼ばれた首都を中心に、南西方向にはアフリカ大陸のエジプト、カイロ周辺まで、そし北方はダマスカス、今日のシリアからハランに至るまで、歴史の流れの中で旅を繰り返しています。 イスラエルの民は長い年月の間、地中海に沿うカナンと呼ばれる地を中心に生活圏を拡大してきたのです。 その南北の上限と下限をみると、北は族長時代の父アブラハムの故郷があったハランの町、北緯37度12分、南は北緯31度14分のベエルシェバ、そしてエジプトのカイロがあります。 それらを日本の地図と合わせると、まず、北のハランとほぼ同緯度にある日本列島の地域は能登半島や、福島県の会津若松界隈です。 多少のオーバーシュートがあったとすれば、佐渡から山形の南方、仙台も含まれるかもしれません。 そして南方を見ると、エルサレムと同緯度には日本の中甑島(鹿児島)にヒラバイ山があり、ベエルシェバと同緯度には鹿児島の最南端、枕崎や指宿市があります。 また、エジプトのカイロまで含むならば、その緯度線には屋久島が存在します。 つまり古代のイスラエルの民が、長年にわたり天文学の知識と経験を活かして生きてきた緯度圏とは、日本の鹿児島から北陸、福島の間を網羅する緯度線の間に存在していたのです。 それ故、日本列島という新天地にて、新たなる霊峰を見出し、列島内に新たなる拠点を短期間で設けていくためには、これまで先祖代々培われてきた天文学をフルに活かすことができる、従来からの居住範囲であった緯度線の範囲に収まることが望まれたことでしょう。 それ故、国生みの当時、日本列島に霊峰を見出す際も、まずはその緯度線のエリア内にて山々が探しもとめられたと推測されます。 それ故、霊峰をはじめ、神社の建立や磐座の存在なども、南方は九州の鹿児島界隈、北方は山形、宮城をリミットとして、その緯度線の間に霊峰や神社、指標となる拠点が見出されていくことになります。 「日本八霊峰」の選定 古代霊峰として認知されるには、単に山の麓や山頂にて神が祀られているだけでなく、山そのものが地の指標となり、そこを基点として他の霊峰や神社、地の指標などと結び付くレイラインを構築していることが重要です。 霊峰とは地域信仰における中心的な存在であることから、いつの日も多くの人が遠くから遥拝し、時には山頂まで登りつめ、そこで神を崇めてきたのです。 また、古代の霊峰は、海上からも視認できるという比類なき標高をもつ山でなければなりませんでした。 船から見ても指標の山として位置づけることができるからこそ、古代の渡来者は短期間の間に、その存在を大勢の人に知らしめることができたのです。 これら霊峰としてのハードルを満たすことのできる山々が日本列島には存在します。 国生みの時代、日本人の先祖は海を渡って列島に到達した当初、本州を中心とする島々の周辺を航海しながら、ひたすらそのような高山を地の指標として見出すことに努めたことでしょう。 そして「神は高い山に住まわれる」という信仰心があったが故に、まず海上から見える標高の高い山々が注視され、それらの中から、地の利がある山が特定されたと考えられます。 こうして厳選された山の頂上では神が祀られ、山の麓にも社が建てられて、いつしか山全体が霊峰として認知されるようになったのです。 古代の霊峰は地域の拠点となる高山であったことから、必然的にレイラインの指標としても用いられることになりました。 その結果、多くの神社がその霊峰と結びつくレイライン上に建立されることになります。 未踏の日本列島に到達し、山道さえもないジャングルのような雑木林を内陸奥地まで足を踏み入れ、レイライン上の大切な場所を特定し、そこに社を建立して神を祀ることは、決して容易いことではありません。 それでも多くの神社は、これらの霊峰同士や地の指標となる岬や島々を結びつけたレイライン上でも、特にレイラインが交差する地点に綿密に位置づけられて建立されました。 霊峰や地の指標を含む2本のレイランが存在すれば、どんなに遠い場所や山奥であっても、その交差点をいつでも特定することができたのです。 そのためにも、古代の霊峰を地の指標として用いることが不可欠でした。 こうして後世において、多くの神社がそれらのレイライン上に建立され、日本列島の各地に人が移り住み、国土が開発されていくことになります。 古代より多くの人々が比類なき霊峰として崇めてきた山々は少なくありません。 その中から、富士山、立山、白山、石鎚山、剣山、伊吹山、大山、筑波山の8峰を厳選し、「日本八霊峰」と呼ぶこととします。 いずれも地域の最高峰であり、海上から山の頂上を見定めることができるだけでなく、歴史的な背景を証する由緒に恵まれ、レイラインの基点となる指標としても古代より重要視されてきました。 その結果、これらの山々を通り抜けるレイライン上に多くの神社や聖地が並び、霊峰としての筆頭候補であることを確認できます。 東北地方の山々は本リストには入っていないものの、月山と岩木山の由緒と自然の美観は特筆すべきものがあります。 特に岩木山は本州最北端の拠点として極めて重要であり、その頂上から眺める北海道や日本海を含む360度のパノラマの光景を見るだけで、誰しも大自然が育んできた地域最高峰の美しさに心を奪われてしまうに違いありません。 これら2峰が八霊峰に含まれなかった理由は、古代イスラエルの民が目安としていた北緯を超える雪国に存在することから、先祖代々培われてきた天文学を駆使した地勢検証の枠組みを超えてしまったこと、そしてその結果、レイライン上の基点として用いられることが難しく、他の聖地との結びつきがレイライン上にほとんど見られないことです。 しかしながら八霊峰に選定されずとも、岩木山や月山のように素晴らしい霊峰が日本には数多く存在することも心にとめておく必要があります。 また、「日本八霊峰」の中に大峰山とも呼ばれる山上ヶ岳と釈迦ヶ岳が選ばれなかった理由は、双方とも海上から見て確認することができない熊野の中心部に位置すること、そして大峰山が鹿島神宮と富士山頂近くを結ぶ直線上に存在すること以外、どちらにもレイラインが存在しないことが挙げられます。 他の霊峰や聖地との結びつきがないということは、熊野山奥の探しづらいエリアに存在する山ということになり、古代の指標として山頂にてまず神を祀る、という目的を達成するには不向きの場所であったと考えられます。 今日、山上ヶ岳の頂上には「お花畑」と呼ばれる樹木が広がり、頂上にて神が祀られてきたという痕跡も乏しく、古代より山全体が霊峰となる風格とはズレがあるようです。 釈迦ヶ岳の山道は、今日、かなり荒れ果てており、熊野山中の登山道として一般の方々にお勧めできるようなルートはありません。 古代より人々が参拝する霊峰であるならば、永年に亘る人々の行き来により、必ずや山道が整備されてくるものです。 釈迦ヶ岳山頂の「釈迦如来像」の歴史も不透明であり、古代の民がそこで神を拝したという痕跡にはなりえないことも、「八霊峰」のひとつとして選択されなかった理由です。 「日本八霊峰」たる所以を検証 「日本八霊峰」を一座ずつ解説するにあたり、特にレイラインの重要性に焦点をあてながら、霊峰の特異性に注視してみましょう。 富士山• 霊峰を語る際、誰しも筆頭にあげるのが富士山ではないでしょうか。 日本最高峰の標高3776mを誇る富士山は、比類なき日本の指標として古代より崇められてきました。 富士山の雄姿は太平洋の海上から眺めることができます。 その頂上からは、関東平野を一望できるだけでなく、中央アルプスに聳え立つ山々さえも見渡すことができます。 北東方向には茨城の筑波山、北方には八ヶ岳や浅間山があり、北西方向にある信州アルプスを見渡すと乗鞍岳や御嶽山が見えます。 そして南方には大島の三原山も臨むことができます。 多くの山々を眺めることができるという事実そのものが、富士山の重要性を証しています。 日本列島において富士山が最も高い山であることは一目瞭然です。 それ故、古代より富士山は比類なき地の指標となっただけでなく、高き山に神が住まわれるという信仰心を背景に、その頂上では神が祀られるようになりました。 こうしていつしか山全体が霊峰化したのです。 しかしながら、富士山は活火山であり、数百年に一度は噴火を繰り返し、頂上に造営された祠や社もすべて跡形もなく消え去っただけでなく、山全体の容姿も大きく変貌してきました。 しかしながら、噴火の度に人々は新たなる祭壇を衣替えした富士山頂に造営し、山への信仰心を守り続けてきたのです。 富士山信仰は古代から、富士山の噴火と結び付いていました。 富士山本宮浅間社記によると、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火し、第11代垂仁天皇の命により、浅間大神が祀られることにより富士山が鎮められ、浅間神社の起源となりました。 浅間という呼称は火山を意味しているという説があり、それにちなんで、活火山として著名な阿蘇山、浅間山も命名されたと考えられています。 景行天皇の御代では、日本武尊が駿河国で野火に焼かれそうになった時、浅間大神に祈ることにより難を逃れたことが記紀に記されていることからしても、富士山信仰は着実に広まっていたことがわかります。 その後も富士山は度々噴火を繰り返しながらも、富士山の頂上を極める信仰登山まで盛んになり、各地で浅間神社が建立されることとなりました。 富士山が古代の霊峰であることは、レイライン上に並ぶ山や神社が、いずれも歴史的にみて、最も由緒ある古代の聖地であることからしても理解することができます。 富士山を結ぶレイライン上には、出雲大社、諏訪大社、石上神宮、鹿島神宮、そして宇佐神宮など、日本書紀や古事記に記載されている由緒ある古代の神社が名を連ねます。 これほどまでに著名な神社が名を連ねるレイラインは富士山を基点とした事例しかありません。 富士山とレイラインでつながる聖地は、古代に建立された神社だけでなく、由緒ある山々も存在することに注目です。 富士山とは、出雲大社は伊吹山、石上神宮は石鎚山、そして諏訪大社は立山と共に、それぞれが結びついています。 また、筑波山は紀伊半島の最南端にある紀伊大島と共に、富士山と一直線のレイラインを形成しています。 さらには由緒ある古代の神社、鹿島神宮が、辰砂の発掘で知られるようになった古代の採掘場である若杉山とも富士山を介してつながっていることは注目に値します。 これらレイラインの検証から、富士山を基点として多くの聖地や山々が同一線上に並んでいることを確認することができるだけでなく、それらレイライン上に浮かびあがる山や神社の歴史的背景をそれぞれ検証することにより、富士山が霊峰化した時代背景までも垣間見ることができるようになります。 富士山が霊峰であることは、レイライン上に並ぶ多くの古代聖地が地の力を結集すべく結び付いていることからしても、理解することができます。 北アルプスの飛騨山脈に聳え立つ富山県の最高峰、標高3015mを誇る立山は北陸4県の最高峰であり、3000m級の高山としては、日本列島において最北端に位置付けられています。 立山は雄山、大汝山、富士ノ折立の三峰を合わせた総称であり、この三山をもって一つの平ら、かつ広大な山のように遠くから仰ぎ見ることができることから、比類なき美しいランドマークとして誰の目にも印象的に残ります。 複合火山なる立山の麓に広がる室堂平周辺には、国内最高所の硫黄泉として知られる地獄谷が湧き出ています。 その温泉と共存するがごとく、現存する氷河が初めて日本で発見されたのも立山でした。 立山は古代より霊峰として崇められ、立山信仰を育んできました。 その頂上からは日本海を展望できます。 それは海上から逆に、立山の頂上をも望むことができることを意味します。 神が降臨する高山を探し求めながら日本海を船で旅した古代の渡来者も、立山の存在を容易に認知することができたのです。 また、空気の澄み切った日には、富士山をも一望できます。 山の頂上から富士山との繋がりを視認できることから、いつしか霊峰としても認知されるようになったことでしょう。 こうして8世紀の初頭、慈興上人が正式に立山を開山することとなります。 立山には山そのものを御神体として祀る雄山神社が建立され、古くは立山権現と呼ばれていました。 その祭神は伊耶那岐神と天手力雄神であり、創建の時代はわかっていません。 祭神が国生みの創始者である伊耶那岐神であることから、国生みの時代に、伊耶那岐神ご自身が日本海から立山を見出し、そこで神を祀った可能性も否定できません。 立山信仰の基本は修験道であり、山麓には信仰登山の拠点となる寺が建てられています。 そして立山に登り、巡拝することにより、死後の世界を疑似体験するという修行を積むことができると信じられてきたのです。 立山が古代の霊峰であるならば、海上からその頂上を遠くに眺めることができるだけでなく、立山と他の聖地を結ぶレイライン上には、記紀に記されている山や、歴史的にみても由緒ある神社が並ぶはずです。 立山のレイラインを検証すると、その想定にもれることなく、古代聖地が並んでいることがわかります。 まず、国生みの祖である伊耶那岐神が葬られたとされる淡路島の伊弉諾神宮と、淡路島から見える最高峰、剣山を結ぶ線上に立山が存在することは重要です。 剣山は伊耶那岐神が国生みの際に最初に見出した、淡路島から見える最高峰であったと考えられます。 その剣山と伊弉諾神宮の場所に繋がる山こそ、立山であり、それが霊峰となる所以と言えます。 神代の舞台となった出雲大社の御神体とも言われる八雲山と、山幸彦、海幸彦の伝説に絡む対馬の海神神社を結ぶ線上に立山があることも重要です。 それは、国生みに繋がる山として、地の力を共有するべく、立山そのものが聖地として特定されたことを意味します。 また、出雲から諏訪へと続く武甕槌神に纏わる伝説と関わる諏訪に建立された諏訪大社下社が、富士山頂とレイラインを構成しているだけでなく、伊吹山と古代指標として重宝された室戸岬を結ぶ線も立山につながっていることからして、立山が富士山、八雲山(出雲大社)、剣山、そして伊吹山という古代の霊峰に結び付いている事実を地図上で確かめることができます。 こうして立山の霊性は、ゆるぎないものとなったのです。 立山と同様に石川県最高峰、標高2702mの白山も山全体が古くから信仰の対象となりました。 白山の御祭神、三柱には立山と同様に伊耶那岐神が含まれています。 その他、二神は伊邪那美命と菊理媛尊です。 今日、白山神社は全国に3000社あまり建立されています。 最古の国生みの時代から、白山は国生みの神々から知られていたことは想像に難くありません。 日本海を北陸方面に航海するならば、天気の良い澄み切った日には必ずや白山を遠くに目にすることができるからです。 白山が知られるようになったのは、崇神天皇の御代です。 紀元前91年頃、白山に神地が定められ、そこに社殿が建てられ、白山が崇められるようになりました。 崇神天皇の時代と言えば、国家が動乱の局面を迎え、元伊勢の御巡幸が始まる時です。 その重大な時期に白山信仰が広がることにより、修験道のメッカとなるべく土台が造られていったのです。 白山は奈良時代に行者として名高い泰澄により正式に開山されました。 そして修験道のメッカとして多くの行者に知られるようになり、白山信仰は修験道の象徴として体系化されていきます。 その結果、いつしか白山修験は熊野修験に続く勢力にまで発展し、多くの行者が求めた登山信仰の基となったのです。 白山のレイラインは立山のものと比較すると、ずっとシンプルです。 それでも地の力を共有するという大切な意味合いにおいて、他の霊峰とつながっていることがわかります。 まず、日本八霊峰の一つに挙げられている筑波山と同緯度にあることは、極めて重要な事実です。 真東に筑波山を拝することができるということは、筑波山から見ても同様に、白山を真西に見出すことができることを意味します。 同緯度線上にある霊峰同士が相互に崇めあうことにより、地の力が共有されると信じられていたことでしょう。 また、日本八霊峰に挙げられているもう一座の霊峰、剣山と羽黒山を結ぶレイライン上に白山が存在することも需要な視点です。 羽黒山は出羽三山のひとつであり、その東には東北の霊峰として名高い月山があります。 よって、羽黒山を介して、白山は剣山に紐づけられていた、とも考えられるのです。 こうして白山も八霊峰の一座として、多くの人々から崇められる対象となりました。 石鎚山• 石鎚山は四国山地の西部、愛媛県にて、西日本最高峰となる標高1982mを誇る霊峰です。 石鎚山は日本百名山、日本七霊山として知られ、石槌山、石鉄山、石土山と表記されることもあります。 古くから石鎚山は山岳信仰の対象として行者が登山する山でした。 飛鳥時代の657年、修験道の開祖として知られる役小角 えんのおづね は、石鎚山近くの龍王山中腹にて修行の途中、石土蔵王権現が現れ、7世紀末までに石鎚山は開山されました。 それから間もなく熊野権現が勧請され、奈良時代に石鎚山は、修行道場としても知られるようになりました。 直後の平安時代には空海も石鎚山で修行をしたことが、空海自信が書かれた「三教指帰」に記載されています。 12世紀、平安時代後期に書かれた「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野権現、すなわち熊野の神さまと石鎚山との繋がりについての記述があります。 そこには、遥か昔、中国大陸の唐にある天台山の王子信が飛来し、九州の彦山に天下った後、伊予国の石鉄の峰、石鎚山から淡路島の諭鶴羽山に渡られ、その後紀伊半島の最南端、熊野新宮のそばにある神倉山に降臨され、最終的に熊野本宮の大斎原に鎮座されたと記載されています。 石鎚山が霊峰と言われる所以は、史書にその名前が記されているだけでなく、古代の聖人が石鎚山で修行を重ねたという実績があるからに他なりません。 石鎚山を御神体とする石鎚神社の奥の宮は、山頂の頂上社です。 また、山の中腹には中宮となる成就社が建立され、山麓の口の宮には本社があります。 御祭神は石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)であり、石鎚大神とも言われることもあります。 石鎚山の登山は、鎖禅定とも呼ばれる鎖の絶壁を登ることでも有名です。 試しの鎖からはじまり、一の鎖、二の鎖、三の鎖と続き、合わせて239mにもなる急斜面の岩場を、鎖を頼りに上り詰めることになります。 そして三の鎖を登りきったところが、頂上社になっているのです。 石鎚山は西日本最高峰として瀬戸内から頂上を見ることができるだけなく、日本海を望む大山もはっきりと目視することができ、頂上からの見晴らしもパノラマで格別なことから、古代、レイラインの指標として重宝されてきました。 その実態はレイラインのマップから確認することができます。 最初に注目したいレイラインは、石鎚山と熊野本宮大斎原を結ぶ直線です。 史書によると、熊野権現は石鎚山と諭鶴羽山を経由し、熊野の高倉山に降臨された後、熊野本宮大斎原に鎮座されました。 その大斎原が、石鎚山と同緯度に存在します。 熊野奥地の川沿いにて、大斎原の場所が見出された理由はまさに、石鎚山の存在なくしては語れません。 さらには天孫降臨の時代に遡り、瓊瓊杵尊が高千穂に天下ったという記紀の記述から、高千穂と石鎚山を結ぶレイラインを検証すると、その線上に古代、海洋豪族が重要視した金刀比羅宮が並びます。 この同一線上の南側には、イスラエルのエルサレムと同緯度にあるヒラバイ山が存在することにも注目です。 天孫降臨がイスラエルと結びつき、その結果、高千穂と金刀比羅宮の場所が石鎚山を基点として探し出されたと考えられます。 徳島の小松島にある日峰山は、淤能碁呂島(おのごろじま)としての可能性を秘めている由緒ある島です。 石鎚山と日峰山を結ぶレイライン上の東方には、古代、海上から紀伊半島にアクセスする際の船着き場として用いられた伊雑宮があります。 後の伊勢神宮の奥宮とも言われる場所です。 また、富士山と石鎚山との関係も重要です。 2座の霊峰を結び付ける線上には、記紀にも登場する古代神宮として名高い奈良の石上神宮が存在します。 そして初代神武天皇の宮があったとされる場所には、今日、橿原神宮が建立されています。 その場所は、石鎚山と諭鶴羽山を結ぶ線上にあることからしても、皇族にとって、霊峰石鎚山の存在は極めて重要であったと言えます。 石鎚山のレイラインから、いかに古代聖地が霊峰を基点として、互いに結び付いているかを知ることができます。 それらのレイライン上には、富士山、諭鶴羽山、剣山、釈迦ヶ岳が並ぶだけでなく、古代聖地として著名な熊野本宮大斎原、高千穂、伊雑宮、 石上神宮や、橿原神宮も並びます。 これら最も古い年代の聖地が名を連ねることからしても、石鎚山が霊峰として認知されたのは、およそ国生みの時代にまで遡ることがわかります。 石鎚山こそ、古代から崇められてきた霊峰だったのです。 日本百名山のひとつに選定されている剣山は、石鎚山とほぼ同等の標高1955mを誇る西日本第二峰、四国徳島県の山です。 剣山の頂上周りには、祖谷川を源流とする御神水が湧き出ており、日本の名水百選に名を連ねています。 剣山の頂上から尾根伝いを眺めると、ミヤマクマザサと呼ばれる緑の葉に包まれた「馬の背」とも呼ばれる広大な緑の草原が広がっています。 剣山の頂上はしめ縄で祀られており、頂上近くの宝蔵石に隣接して剣山本宮宝蔵石神社、そして宝蔵石を拝する形で剣山本宮が建てられています。 また、山の中腹には大剣神社があり、背後に聳え立つ50mほどの巨石を御神体としています。 そして麓の見ノ越には劔神社が建立され、そこが剣山頂上へ向かう登山道の入り口ともなっています。 剣山は、同じ四国の石鎚山と同様に、古代から修験道の山として、多くの行者が登山に訪れてきました。 その背景には、剣山に纏わる伝説が存在します。 剣山周辺の集落には古代のミステリーが存在し、例えば町役場の案内書には、ソロモンの秘宝が隠されている可能性について記載されています。 ソロモンの秘宝とは、聖櫃、すなわちアークとも呼ばれる契約の箱と、そこに秘蔵された中身のことです。 旧約聖書によると、聖櫃の中にはモーセが携えていた十戒の石板が秘蔵され、また、聖櫃と共にアロンの杖とマナの壺も聖櫃のそばに置かれていました。 それらが日本に持ち運ばれてきたのではないか、という噂が絶えないのです。 古代、剣山を目指して長く険しい山道を登った人たちは、まず、穴吹にある巨石を祀る石尾神社に参拝し、その近くにある杖立峠を越えて、剣山に向かったと伝えられています。 その石尾神社は巨石をご神体としていることから、社殿らしい建物は何もありません。 そして何十メートルにも連なる巨石の割目の奥深くには、昔から、「金の鶏」が隠されていたという伝承が残されてきました。 イスラエルの聖櫃の一番上には、向い合うケルビムと呼ばれる金の鳥が羽を広げた形状の装飾物が知られています。 剣山参りの前座となった石尾神社の金の鶏とは、果たしてイスラエルの聖櫃と何かしら関係があるのでしょうか。 いずれにしても、剣山周辺の地域は古代から、何かしらイスラエルとの関係があるようです。 近くの神明神社は積み石風の祭祀遺跡として知られています。 南向きに位置し、3つの入り口から入ると、5か所に祈り場が存在します。 これら石の並べ方、配置の在り方は古代のユダヤ礼拝所に酷似していることから、神明神社そのものがユダヤルーツではないかと言われています。 しかしながら古代の霊峰として、これまで剣山の名前が挙げられることがあまりなかっただけでなく、古代イスラエルとの関係も正式に取りざたされるようなことがありませんでした。 歴史の背景の中に、長年うもれてきてしまったのでしょうか。 ところがこの剣山こそ、日本列島が誇る霊峰として、古代より極めて重大な位置づけにあることがわかってきました。 最も注目すべき点は、剣山が淡路島から望むことができる最高峰である、ということです。 淡路島は大きな島であり、島の随所から周囲の山々と見渡すことができます。 北方には六甲山脈をながめ、南東方向には吉野や熊野の山々を望めます。 また南西方向には四国徳島の山々が並んでいます。 それらの山々の中で、頭ひとつ出ている最高峰が、剣山です。 淡路島から遠くに四国の山々をのぞむと、天気の良い日、一つの山の頂上だけがすこしだけ飛び出しているのが見えます。 古代イスラエルの民は、東の海の島々の中でも、ひときわ聳え立つ最高峰を探し求めていたと考えられます。 それ故、国生みの時代にて最初に淡路島に到達した時点で、剣山の存在が見出されたことでしょう。 よって剣山の歴史は大変古いものと考えられます。 その証となるのが、剣山と他の聖地を結ぶ多くのレイラインの存在です。 剣山のレイラインには、古代聖地がずらりと名を連ねます。 それ自体が、剣山が古代の霊峰であり、最重要視されていた指標の山であったことの証と考えられます。 まず、石鎚山と同様に、高千穂、熊野本宮大斎原と剣山とのつながりを見てみましょう。 すると、高千穂と剣山を結ぶ延長線には古代聖地の基点として比類なき位置づけを誇る三輪山があり、熊野本宮大斎原と結ぶレイラインの西方には宗像大社が存在します。 いずれも記紀において、国生みの時代から神代にかけて登場する聖地です。 奈良盆地を囲む一角の小高い山が三輪山の聖地となった背景には、おそらく剣山と高千穂を結ぶ線上にあることが重要視されたのではないかと推測されます。 また、神代の事象は南西諸島から対馬、宗像を経由して記録されていると考えられることから、宗像にて神が祀られた後、石鎚山と剣山を指標として、それらのレイラインが通る熊野本宮大斎原の聖地が定められたと想定できます。 また、石鎚山と同じく、剣山も淤能碁呂島に比定される可能性がある小松島の日峰山と結び付き、そのレイライン上には富士山と香取神宮が並んでいます。 日峰山は、剣山と富士山を結ぶ線上にあることから重要視されるようになり、後には、その一直線上に香取神宮が建立されたと考えられます。 そしてスサノオと絡み、出雲大社のご神体ともいわれる八雲山と金刀比羅宮が、剣山と一直線を構成していることにも注目です。 金刀比羅宮は剣山と八雲山の地の力を受け継ぐべく、綿密に計算された場所に建立され、しかもその場所は前述したとおり石鎚山と高千穂とも紐づけられていたのです。 聖地をまたがるレイラインが交差する地点に建てられた金刀比羅宮だからこそ、多くの人に愛されてきたのです。 その後、崇神天皇の時代では元伊勢の御巡幸が始まり、再び剣山はひそかに注目される存在となり、元伊勢御巡幸のすべての巡幸地とレイライン上で結び付くことになります。 それは剣山が神宝と纏わる重要な秘蔵場所であったことを後世に伝えるためのメッセージであったかもしれません。 いずれにしても、剣山は国生みの時代から重要視され、特に神宝の秘蔵が重要視された前1世紀以降、新たに注目を浴びる存在となり、そこが邪馬台国の舞台へと発展していくのです。 その発展の起因となる立地条件の重要性を、元伊勢に関するレイラインからも検証することができます。 剣山を基点として選ばれた元伊勢の御巡幸地だからこそ、最終目的地が剣山であったと推測できるのです。 剣山こそ、古代の霊峰の中でも、きわめて重要な位置づけを占めていたことがわかります。 伊吹山• 伊吹山地の主峰として、琵琶湖の東方に聳え立つ伊吹山は、日本百名山に数えられ、滋賀県最高峰の標高1377mを誇ります。 伊吹山の標高は日本アルプスの半分にもいたりませんが、アジア大陸からの強風と豪雪を真っ向から受ける位置づけにあり、ギネスブックには世界一雪が積もった場所としても知られています。 1927年2月、伊吹山には11. 82mの雪が積もり、観測史上1位の世界記録となりました。 また、1日あたりの降雪量としても2. 3mを記録し、これも世界記録となっています。 伊吹山の標高はそれほどまで高くはないのに、例年にわたり「風の通り道」とも言われる強風と豪雪にみまわれてきたのです。 その頂上からは琵琶湖から日本海や比叡山、東方には日本アルプスまでも見渡すことができる伊吹山は、古代から山岳信仰の対象となりました。 無論、日本海の海上からもくっきりとその姿を見ることができます。 古代、西アジアより到来した渡来人は海洋豪族とも言われる高度な航海技術を擁する民であり、日本列島に到来した後、早くから琵琶湖周辺において水路を見出し、瀬戸内から日本海に、そして太平洋側の伊勢湾の方にまで、琵琶湖を経由して行き来するようになったと想定されます。 よって、その琵琶湖近くに聳え立つ伊吹山は貴重な目印であり、遠くから見極めることのできる地の指標だったのです。 古代より伊吹山で祀られているのは伊吹大明神であり、時には「巨大な白猪」や「白い大蛇」に変貌する神が宿る山として畏れられてきました。 日本書紀や古事記には、日本武尊が東征からの帰途に伊吹山にて伊吹大明神の返り討ちにあい、病に冒されて命を失った話が記録されています。 石鎚山と同様に、伊吹山は役小角により開山され、平安時代では比叡山、比良山、愛宕山、神峰山 かぶせん 、金峰山、葛城山と並び、近畿地方の七高山の一つとして知られるようになりました。 その後、9世紀半ばには伊吹四大寺が創建され、現在では頂上に伊吹山寺山頂本堂が建てられています。 伊吹山のレイラインは、スサノオが活躍した出雲の八雲山とほぼ同緯度の線が基本となります。 その線上には、琵琶湖に浮かぶ聖なる島、竹生島も存在します。 出雲神話においては、スサノオと草薙剣の話が有名です。 その背景に聳え立つ八雲山と結びつけられた伊吹山でも、後世において同じ草薙剣を持つ日本武尊が、歴史の舞台に登場しました。 伊吹山を通る同緯度線は富士山までつながり、東征に向かった日本武尊の働きを象徴しているようにも窺えます。 鳥取県最高峰の大山は標高1729mを誇ります。 四国の石鎚山、剣山の頂上からは大山をくっきりと望むことができることから、古代より重要な指標となっていました。 大山は古くは大神岳、おおかみのたけ、とよばれてきました。 大山は奈良時代、出雲の国造りに貢献した依道によって開山されたといわれています。 「大山寺縁起」によると、大山は熊野山、金峰山と共に元は一つであり、それが三つに分かれ、いつしか山岳信仰の対象となりました。 大山の麓には奈良時代に創建された大山寺があり、必然的に修験道の道場になりました。 そして平安時代以降、最盛期には100あまりの寺院と3000人の僧兵を抱える勢力までになり、室町時代には、天台宗山岳仏教の道場としても知られるようになり、大山は「修験の山」としての位置づけを確立したのです。 その大山寺の境内から自然石を敷き詰めた石畳の参道を700mほど登ると、全国最大級の壮大な権現造りで有名な大神山神社奥宮があります。 従来、その場所は大山に登る行者のための遥拝所として始まり、大山寺の本殿として、大山全体の山岳信仰の聖地となっていた歴史があります。 その社殿が大神山神社奥宮となり、その御祭神として、神代にて国造りに貢献された大己貴神が祀られたのです。 その奥宮に保管されている八角神輿は江戸時代後期に作られたものであり、台座の高さは3mを超え、全体の重量は1トンを超えます。 大山のレイラインは大変シンプルな線引きにまとまっています。 伊吹山と同様に大事なことは、大山が日本最高の富士山とほぼ同緯度で結びついていることです。 その線上には伊吹山が存在するだけでなく、琵琶湖に浮かぶ小さな聖地、竹生島も並びます。 大山は、地の力を富士山と伊吹山、双方と共有していたのです。 また、他の古代霊峰の多くが高千穂に紐付けられているように、大山も高千穂とレイラインで結び付いています。 古代の渡来者は、南西諸島を北上して海をわたり、九州から四国、淡路へと航海してきました。 その海路の途中、九州の最南端で船を停泊さす拠点としたのが、今日の鹿児島県、日置市の船木神社です。 西アジアから渡来してきた船木一族こそ、皇族を先導して日本列島に導いた海洋豪族と想定され、1? 2世紀では、元伊勢の御巡幸において伊勢への船旅を導いただけでなく、その後、紀伊半島や播磨、淡路、そして四国の若杉山にも拠点を設けています。 その船木一族の古代拠点と大山を結んだ線上に高千穂が存在するということは、高千穂という山奥にて、大山と船木を結ぶ直線上に高千穂の聖地が特定された可能性を意味します。 日本海の海上から目の当たりにできるだけでなく、四国の剣山や石鎚山からも望むことができ、古代で最も古い港であろう船木と、高千穂を介してつながっている大山こそ、日本八霊峰のひとつとして名乗りをあげるにふさわしい名山と言えるでしょう。 筑波山• 関東平野を一望できる標高877mの筑波山は紫峰とも呼ばれ、海上からの視認性もすばらしく、古代から重要な指標として用いられていました。 筑波山の頂上からは太平洋を一望できるだけでなく、広大な関東平野の先には富士山から日本アルプスの山々まで遠く望むことができます。 筑波山のレイラインは特筆すべきものばかりであり、どれもが重要な関係性を持っています。 特に複数の古代霊峰とレイラインでつながっていることに注視する必要があります。 まず、筑波山の真北には、東北地方の霊峰として名高い月山が聳え立ちます。 そして筑波山から西方を眺めると、その先には霊峰白山の存在を確認できます。 また、剣山は古代由緒ある石上神宮と筑波山を結ぶレイライン上に存在します。 筑波山は伊吹山とのレイラインも構成し、その西方の先には宗像大社中津宮が建立されています。 次に富士山との関係を見ると、その直線上には紀伊半島最南端の紀伊大島がつながります。 紀伊大島は太平洋側を航海する際に、大変重要視された地の指標であり、多くのレイラインとのつながりをもっています。 紀伊半島の最南端から富士山を目指していくだけで、その先に筑波山を見出すことができたのです。 さらには筑波山と古代聖地として名高い諏訪大社上者前宮を結ぶレイライン上の西方には大山があります。 つまり筑波山は日本八霊峰のうち、石鎚山と立山を除く他の山々、すべてとのつながりを持つ位置づけにあったのです。 それ故、古代でも地の力を共有する極めて重要な霊峰として、いつの日も大勢の人々から拝されてきたのです。

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ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX攻略 炎の大地~遥かなる霊峰

遥かなる霊峰

島国とも呼ばれる日本は、国土の大半を山々で埋め尽くされています。 その数は、少なくとも2万はあると言われています。 それらの山々の中でも、特に名高く、由緒ある山は、江戸時代では「日本名山図会」にて88山が選別されています。 その後、昭和の時代に入ると「日本百名山」と呼ばれるくくりでもまとめられるようになり、時には「日本二百名山」、「三百名山」として、より多くの山々が含まれることもありました。 「日本百名山」は登山家であり、小説家としても活躍した深田久弥氏が、自らの登山体験を踏まえたうえで、山々を選定しています。 その基準となったのは、1. 山の品格、2. 山の歴史、3. 山の個性です。 そして深田氏自身が登頂した山ということが大前提にありました。 その後、2006年には山と渓谷社より「新日本百名山登山ガイド」が発刊されました。 また、山岳雑誌の「岳人」によるアンケートにより、登山の対象として面白い山々100峰なども選定されています。 こうして日本の山々は、多くの山岳家をはじめ、自然を愛する人々から崇敬され、その名を歴史の中に刻んできました。 日本列島に存在する古代霊峰 日本の著名な山々を思い浮かべる際、百名山という自然の美を基本としたくくりだけでなく、時には、霊峰と呼ばれる宗教的な意味合いを含む基準を用いて選定することもあります。 霊峰とは、山々の中でも、古くから信仰の対象として崇拝されてきた山々を指します。 日本では古代から山は神聖な場所と考えられ、そこに神が住まわれるという宗教観が根強く存在しました。 よって多くの山々では神仏が祀られている場合が少なくありません。 地域に土着する風習や宗教観に基づいて山の随所に祠が建てられ、祭りごとが行われることは日本固有の文化です。 それら地域に土着した宗教観を超えて、歴史的かつ宗教的な意義のある由緒や言い伝えにより、山全体が神聖化された山々を霊峰と呼びます。 最も有名な霊峰は、「日本三名山」「日本三大霊峰」とも呼ばれる富士山、白山と立山です。 この三名山の共通点は、それぞれの山がご神体として崇められ、山の麓だけでなく、その山頂にて神が祀られていることが挙げられます。 富士山では山の神霊を祀る浅間信仰が広まりました。 立山は山岳信仰のメッカとして修験道者が集まり、立山信仰の神として伊耶那岐神が立山権現として祀られています。 また白山も古代より山岳信仰の対象として修験道の霊峰となり、白山信仰が古くから広まりました。 これらの山はいずれも修験道のメッカとして多くの行者が神を崇めるために登山したという歴史を共有しています。 また、日本三名山に加え、奈良の大峰山と釈迦ヶ岳、鳥取の大山、愛媛の石鎚山を挙げ、富士山、立山、白山と合わせて「日本七霊山」と呼ぶこともあります。 しかしながら七霊山には諸説があり、釈迦ヶ岳を外して月山を加える説もあれば、白山の代わりに御嶽山を選別する説など様々です。 どのような条件をもって霊峰を選ぶかは、それを選定する学者や評議会の考え方や選定基準に左右されます。 よって、「日本七霊山」には定説がありません。 最近では山と渓谷社より「日本百霊山」という本も出版されており、より多くの山々が霊峰として紹介されています。 世界遺産の登録基準10項目 霊峰と呼ばれるからには、それなりの基準が必ずあってしかるべきです。 霊峰を選定する際に参考となるのが、世界遺産として登録されるための基準10項目です。 世界遺産となるためには「顕著な普遍的価値」が見出されることは言うまでもありません。 その基準として10項目が挙げられていますが、その中でも以下の5項目(10項目中3? 7項目)が、霊峰を選定する際の基準として参考になるガイドラインと言えそうです。 以下にそれら5項目を抜粋しました。 iii 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在 少なくとも希有な存在 である。 iv 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。 v あるひとつの文化 または複数の文化 を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。 又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である 特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの• vi 顕著な普遍的価値を有する出来事 行事 、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい。 vii 最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。 日本の霊峰は、どれもが類まれな自然美を有することは勿論、宗教文化を継承してきた形跡が山麓から山頂まで随所に見られ、古代からの歴史の流れを肌で感じることができます。 そして霊峰を囲む地域で執り行われる祭りごとは、長年にわたる宗教的な伝統行事の一環であり、山の存在そのものと密接な関連があります。 人々と霊峰とのふれあいは、日本固有の伝統に相まみれて、長年にわたりその山を聖なる場所と位置付けることに寄与し、いつの日も特別視されるようになったのです。 日本の霊峰は、当然のことながらこれら世界遺産としての条件もクリアーできるほど、特有の美と歴史を誇ります。 古代霊峰の歴史的背景 これら世界遺産の基準を用いたとしても、古代の霊峰を選別することは容易くありません。 どの山が霊峰か、という問いかけについては諸説があり、細かい選定基準が定まっていないからです。 様々な尺度や見方があることから、結果として、霊峰と呼ばれてきた山々は日本列島の随所に存在します。 しかしながら、奈良時代や飛鳥時代をさらに遡り、古墳時代、そして弥生時代から霊峰として崇められてきた可能性のある由緒ある山々のみに絞るならば、検証すべき霊峰の候補は限られてきます。 果たして古代の人々が信仰の対象とした霊峰を特定することはできるのでしょうか。 どのような歴史的背景により、霊峰として人々から崇められるようになったのでしょうか。 霊峰と呼ばれる山々には、古代に遡る由緒があるだけでなく、その他にも古代の人々が注目した何かしらの共通点があるはずです。 それら歴史の流れと霊峰の実態を理解することにより、山に纏わる由緒と共に、「霊峰」として崇められるようになった理由を見極めることができるはずです。 霊峰として選ばれる山々の選定は、その選択基準によって大きく左右されるだけに、正しい歴史的解釈と宗教概念をもって見定めることが重要になります。 そこで日本の古代史を振り返りながら、国生みの時代を経て、いかに山々が「霊峰」として崇められるようになったか、そのきっかけと可能性について考えてみました。 太平洋に浮かぶ多くの諸島においても、古代より宗教的行事が山々で営まれてきた島は少なくありません。 しかしながら、日本のように整然としたしきたりや細かな儀式が長年にわたり踏襲され、山々においても神が崇められ、その頂上や麓にも神社が建立され、複数の山そのものが神聖化するというような事例は世界でも類をみません。 古代、何らかのきっかけがあったからこそ、日本固有の「山の宗教文化」が培われることになったと考えられます。 その背景を探るためにも、古代史の流れを理解するための前提となる様々な歴史的要点を、グローバルな視点から見直すことが不可欠です。 そこで、諸説はあるものの日本の有史が始まった可能性のある紀元前7世紀前後と同時期に、西アジアにて国家を失ったイスラエルの民が離散して世界各地へと移住したという史実に注目し、離散したイスラエル人と日本の接点を考えてみました。 すると古代、アジア大陸よりイスラエルからの移民が大陸沿いに海を渡り、最終的に日本列島に住み着いて国生みを実現し、日本の有史が始まったという想定も、可能性として見えてきます。 そしてイスラエルからの渡来者が国生みに関わったと考えることにより、古代史における様々な疑問が解かれていくことがわかります。 これが「日本とユダヤのハーモニー」を考察する原点となります。 例えばイスラエルの民は、聖書に書いてある言葉を神の言葉と信じる民族としても知られています。 それ故、西アジアから渡来したイスラエルの民が日本の霊峰を見出した張本人であるとするならば、それらの高き山を霊峰として求めなければならない理由があったはずです。 果たして、聖書には霊峰についての教えが記載されているのでしょうか。 聖書には神が山に降臨し、山に住まわれるということが、複数個所に記載されています。 モーセはシナイ山にて天から降臨する神と出会っただけでなく、ダビデ王の時代では、王自身が神と山の関係が大切であることを詩篇に綴っています。 ダビデ王は「主の山に登る」こと(詩24)、「神の山」(詩36)、「聖なる山」(詩43)の大切さを書き記し、「神が住まいにと望まれた山にとこしえに住まわれる」(詩68)と謳いました。 そして、その山は「高い山」であり、「主なる神がそこに住まわれる」(詩68)ことから、「聖なる山で拝みまつれ」(詩99)、「私は山にむかって目をあげる」と謳い続けたのです。 後の時代では、日本に渡来したと想定されるイザヤもその預言書にて、「主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえる」(2:2)ことから、「高い山にのぼれ」(40:9)、「わが聖なる山」(56:7)と書き綴っています。 また旧約聖書のミカ書4章には「末の日になって、主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立てられ、もろもろの峰よりも高くあげられ、もろもろの民はこれに流れくる」とも記されています。 イスラエルの民にとって、高い山こそ、神が住まわれる場所と考えられていたことがわかります。 イスラエルの民は神を愛するがゆえ、古代、海を渡って日本列島に渡来した当初、国生みの一環として列島をくまなくリサーチしたうえで、神が住まわれる聖なる山をまず、探し求めたのではないでしょうか。 世界の島々の中で、日本の山岳信仰史が際立っている理由は、山に住まわれる神を信じたイスラエルの民の存在があったからに他なりません。 その宗教文化と伝統を長年にわたり列島各地で継承してきたが故、今日でも大勢の日本人は山を愛し、山に建立された神社や祠、そして山頂にて神を祀ることに努めています。 そしていつしか、ご来光を崇めるような風習がごく当たり前のこととして、庶民の間でも定着してきたのです。 もうひとつ見逃せないポイントは、古代、イスラエルからの渡来者は、船に乗って日本列島に到来し、優れた海洋民族の側面を持っていたと推測されることです。 イスラエルは国の西方が地中海に面しており、古代から船による行き来が盛んでした。 よって先陣をきって東方へと向かった初代の渡来者は、船を用いて大陸の海岸沿いを東に向かって航海したに違いありません。 その先頭集団の中には王族や神の預言者も存在したと考えられ、必然的に大切な神宝も船内に携えられてきたことでしょう。 その第一陣は、タルシシ船のような大きな船でアジア大陸を陸沿いに進み、琉球から南西諸島を北上して淡路島を基点とする日本列島に到達したのです。 それが国生みの原点と考えられます。 古代の民は優れた航海技術を携えており、天体や地勢を観測しながら方角を見定めつつ、船旅の拠点を定めることができました。 その航海の指標として重宝されたのが、船上から眺めることのできる海沿いの岬や半島であり、その背後に聳え立つ内陸の高山だったのです。 神が住まわれる山は、ひときわ聳え立つ高山という教えを聖書から学んでいた民だけに、船から眺めることのできる高山は船旅の指標となったに違いありません。 そして島ごとに海上から見届けることのできる最高峰を確認しては、上陸後、その頂上にてまず神を祀るための祭壇を築き、そこで神を崇め祀ったことでしょう。 こうして海から眺めることのできる地域の最高峰は、霊峰となる可能性がある山として一線が引かれるようになり、山の麓だけでなく、その頂上にも祭壇や祠、または社が造られるようになったと考えられます。 西アジアから到来した初代の船団は、航海の行き止まりとなる淡路島を長い船旅の終点とし、そこを日本列島の中心と見据えたようです。 それが記紀に記されている国生みの始まりと言えます。 そして淡路島を基点として、そこから船で島々を巡りまわり、列島の実態を把握し続けたのです。 その結果、多くの島々が見いだされて名付けられ、国生みが完結したと考えられます。 その過程にあって、本州の太平洋岸を航海した古代の民は、まず、高さと美しさを誇る富士山の雄姿に圧倒されたのではないでしょうか。 まさに霊峰の筆頭として名高い所以です。 これらの歴史的背景を前提とするならば、日本の霊峰が特定された経緯や理由が見えてくるようです。 古代にまで遡る由緒ある歴史が存在し、山そのものが古くから信仰の対象となり、今日まで多くの人に崇められてきた山こそ、真の霊峰になりえます。 また、これらの霊峰は、他の霊峰や聖地と、地の繋がりをもっていることにも注視する必要があります。 それは複数の聖地や霊峰が一直線に並ぶことをも意味し、その仮想線は、レイラインとも呼ばれています。 霊峰とは、必ず他の霊峰や聖地と結び付く場所に存在するものなのです。 こうして島々の最高峰や高山が特定され、そこで神が祀られたのです。 古代の霊峰として認知される条件が見えてきました。 古代霊峰の選定基準とは? 古代の民は如何にして、日本列島に霊峰となるべき山を見出し、そこで神を祀る社を建てたのでしょうか。 大陸より渡来してきた民は、高度な航海術と天文学を携えてきただけでなく、神は高い山に住まわれることを信条としていたと想定し、その視点に沿うように海の向こうに見える日本列島の島々を思い浮かべるならば、霊峰を見出すヒントが見えてくるようです。 海上より山の頂上が見える山 前述したとおり、海を越えて日本列島に渡来した古代の民は、必然的に船で日本列島周辺を行き来することになり、海上から陸の地勢を見届けることが重要な課題となりました。 そして遠く離れた内陸に山の頂上が少しだけ見える位の標高を誇る高山が指標として求められたことでしょう。 それは、山側から見るならば、その頂上から日本海や太平洋を一望できるほど、見通しが素晴らしいことを意味していたのです。 新天地にて神を祀る場合、その場所が容易に特定できなければなりません。 よって、海上から見届けることができる地域の最高峰であり、上陸した後も、その場所、方角、位置づけがわかりやすい場所にあることが大切でした。 古代の指標となるべく、360度にわたり、周囲の光景を見渡しながら遠くまで地勢を確認できることが、古代霊峰の必須条件だったと考えられます。 山頂と麓にて神が祀られている 古代より神が崇められてきた霊峰であるならば、人々が長年にわたり神を参拝してきたという軌跡が、山の随所に残されていると考えられます。 その最たるものが、山頂に建立された神社です。 その山頂にある社を奥宮として、山の麓でも神社が建立され、いずれにおいても人々がいつ何時でも神を拝することができるように整備されていることが重要です。 こうして霊峰の頂上まで登ることのできない人であっても、麓にて神を参拝することができるようになり、より大勢の人が山の神に歩みよることができるように配慮されていることも大事です。 古代の霊峰では、山頂と麓、双方で神を祀ることが当たり前だったのです。 レイラインにて他の聖地と結び付いている 古代の霊峰は、日本列島の指標として大切な位置づけを占めていました。 何故なら、それらの霊峰を拠点として、新たなる港や集落を列島内に造成する場所を特定し、神を祀る神社の場所も見出していくことができたからです。 その主だった手法がレイラインの構築です。 霊峰が座する地点を基準に、レイラインと呼ばれる仮想の直線を他の聖地と結んで引くことにより、その線上に、神社を建立すべき聖地や、港を建造する場所、さらには別の霊峰までも選定することができます。 それ故、古代の霊峰であるならば、その場所を拠点としてつながる複数の神社や聖地、他の霊峰などがレイライン上に複数見つかるはずです。 レイラインを構築する基点となっていることが、由緒ある歴史の証拠であり、それが霊峰であったことの印と言えるでしょう。 記紀に名前が記されている山 日本書紀や古事記には、神代から歴代の天皇紀に関する記述の中で、いくつかの山の名前が登場します。 史書に山の名前が記されているということ自体、その山の重要性が公に証されていると共に大切な情報源となります。 それらの山々において、神々とも呼ばれた日本人の先祖が古代、活躍されたのです。 その背景には、宗教的な要素も多分に絡んでいたことでしょう。 特筆すべきは四国の石鎚山と、琵琶湖そばの伊吹山です。 どちらも聖なる霊峰として、今日まで多くの人々から愛されてきています。 無論、すべての霊峰の名前が記紀に記されているわけではないことから、名前の記載は必須条件ではありません。 しかしながら記紀に名前が記載されることにより、より霊峰としての信憑性が高まることに注目です。 古代イスラエル人の行動範囲となる緯度内にある山 イスラエルの祖国は地中海に面しており、その緯度は日本列島とほぼ同じです。 イスラエルの民が歩んだ行動範囲の歴史を振り返ると、そのエルサレムと呼ばれた首都を中心に、南西方向にはアフリカ大陸のエジプト、カイロ周辺まで、そし北方はダマスカス、今日のシリアからハランに至るまで、歴史の流れの中で旅を繰り返しています。 イスラエルの民は長い年月の間、地中海に沿うカナンと呼ばれる地を中心に生活圏を拡大してきたのです。 その南北の上限と下限をみると、北は族長時代の父アブラハムの故郷があったハランの町、北緯37度12分、南は北緯31度14分のベエルシェバ、そしてエジプトのカイロがあります。 それらを日本の地図と合わせると、まず、北のハランとほぼ同緯度にある日本列島の地域は能登半島や、福島県の会津若松界隈です。 多少のオーバーシュートがあったとすれば、佐渡から山形の南方、仙台も含まれるかもしれません。 そして南方を見ると、エルサレムと同緯度には日本の中甑島(鹿児島)にヒラバイ山があり、ベエルシェバと同緯度には鹿児島の最南端、枕崎や指宿市があります。 また、エジプトのカイロまで含むならば、その緯度線には屋久島が存在します。 つまり古代のイスラエルの民が、長年にわたり天文学の知識と経験を活かして生きてきた緯度圏とは、日本の鹿児島から北陸、福島の間を網羅する緯度線の間に存在していたのです。 それ故、日本列島という新天地にて、新たなる霊峰を見出し、列島内に新たなる拠点を短期間で設けていくためには、これまで先祖代々培われてきた天文学をフルに活かすことができる、従来からの居住範囲であった緯度線の範囲に収まることが望まれたことでしょう。 それ故、国生みの当時、日本列島に霊峰を見出す際も、まずはその緯度線のエリア内にて山々が探しもとめられたと推測されます。 それ故、霊峰をはじめ、神社の建立や磐座の存在なども、南方は九州の鹿児島界隈、北方は山形、宮城をリミットとして、その緯度線の間に霊峰や神社、指標となる拠点が見出されていくことになります。 「日本八霊峰」の選定 古代霊峰として認知されるには、単に山の麓や山頂にて神が祀られているだけでなく、山そのものが地の指標となり、そこを基点として他の霊峰や神社、地の指標などと結び付くレイラインを構築していることが重要です。 霊峰とは地域信仰における中心的な存在であることから、いつの日も多くの人が遠くから遥拝し、時には山頂まで登りつめ、そこで神を崇めてきたのです。 また、古代の霊峰は、海上からも視認できるという比類なき標高をもつ山でなければなりませんでした。 船から見ても指標の山として位置づけることができるからこそ、古代の渡来者は短期間の間に、その存在を大勢の人に知らしめることができたのです。 これら霊峰としてのハードルを満たすことのできる山々が日本列島には存在します。 国生みの時代、日本人の先祖は海を渡って列島に到達した当初、本州を中心とする島々の周辺を航海しながら、ひたすらそのような高山を地の指標として見出すことに努めたことでしょう。 そして「神は高い山に住まわれる」という信仰心があったが故に、まず海上から見える標高の高い山々が注視され、それらの中から、地の利がある山が特定されたと考えられます。 こうして厳選された山の頂上では神が祀られ、山の麓にも社が建てられて、いつしか山全体が霊峰として認知されるようになったのです。 古代の霊峰は地域の拠点となる高山であったことから、必然的にレイラインの指標としても用いられることになりました。 その結果、多くの神社がその霊峰と結びつくレイライン上に建立されることになります。 未踏の日本列島に到達し、山道さえもないジャングルのような雑木林を内陸奥地まで足を踏み入れ、レイライン上の大切な場所を特定し、そこに社を建立して神を祀ることは、決して容易いことではありません。 それでも多くの神社は、これらの霊峰同士や地の指標となる岬や島々を結びつけたレイライン上でも、特にレイラインが交差する地点に綿密に位置づけられて建立されました。 霊峰や地の指標を含む2本のレイランが存在すれば、どんなに遠い場所や山奥であっても、その交差点をいつでも特定することができたのです。 そのためにも、古代の霊峰を地の指標として用いることが不可欠でした。 こうして後世において、多くの神社がそれらのレイライン上に建立され、日本列島の各地に人が移り住み、国土が開発されていくことになります。 古代より多くの人々が比類なき霊峰として崇めてきた山々は少なくありません。 その中から、富士山、立山、白山、石鎚山、剣山、伊吹山、大山、筑波山の8峰を厳選し、「日本八霊峰」と呼ぶこととします。 いずれも地域の最高峰であり、海上から山の頂上を見定めることができるだけでなく、歴史的な背景を証する由緒に恵まれ、レイラインの基点となる指標としても古代より重要視されてきました。 その結果、これらの山々を通り抜けるレイライン上に多くの神社や聖地が並び、霊峰としての筆頭候補であることを確認できます。 東北地方の山々は本リストには入っていないものの、月山と岩木山の由緒と自然の美観は特筆すべきものがあります。 特に岩木山は本州最北端の拠点として極めて重要であり、その頂上から眺める北海道や日本海を含む360度のパノラマの光景を見るだけで、誰しも大自然が育んできた地域最高峰の美しさに心を奪われてしまうに違いありません。 これら2峰が八霊峰に含まれなかった理由は、古代イスラエルの民が目安としていた北緯を超える雪国に存在することから、先祖代々培われてきた天文学を駆使した地勢検証の枠組みを超えてしまったこと、そしてその結果、レイライン上の基点として用いられることが難しく、他の聖地との結びつきがレイライン上にほとんど見られないことです。 しかしながら八霊峰に選定されずとも、岩木山や月山のように素晴らしい霊峰が日本には数多く存在することも心にとめておく必要があります。 また、「日本八霊峰」の中に大峰山とも呼ばれる山上ヶ岳と釈迦ヶ岳が選ばれなかった理由は、双方とも海上から見て確認することができない熊野の中心部に位置すること、そして大峰山が鹿島神宮と富士山頂近くを結ぶ直線上に存在すること以外、どちらにもレイラインが存在しないことが挙げられます。 他の霊峰や聖地との結びつきがないということは、熊野山奥の探しづらいエリアに存在する山ということになり、古代の指標として山頂にてまず神を祀る、という目的を達成するには不向きの場所であったと考えられます。 今日、山上ヶ岳の頂上には「お花畑」と呼ばれる樹木が広がり、頂上にて神が祀られてきたという痕跡も乏しく、古代より山全体が霊峰となる風格とはズレがあるようです。 釈迦ヶ岳の山道は、今日、かなり荒れ果てており、熊野山中の登山道として一般の方々にお勧めできるようなルートはありません。 古代より人々が参拝する霊峰であるならば、永年に亘る人々の行き来により、必ずや山道が整備されてくるものです。 釈迦ヶ岳山頂の「釈迦如来像」の歴史も不透明であり、古代の民がそこで神を拝したという痕跡にはなりえないことも、「八霊峰」のひとつとして選択されなかった理由です。 「日本八霊峰」たる所以を検証 「日本八霊峰」を一座ずつ解説するにあたり、特にレイラインの重要性に焦点をあてながら、霊峰の特異性に注視してみましょう。 富士山• 霊峰を語る際、誰しも筆頭にあげるのが富士山ではないでしょうか。 日本最高峰の標高3776mを誇る富士山は、比類なき日本の指標として古代より崇められてきました。 富士山の雄姿は太平洋の海上から眺めることができます。 その頂上からは、関東平野を一望できるだけでなく、中央アルプスに聳え立つ山々さえも見渡すことができます。 北東方向には茨城の筑波山、北方には八ヶ岳や浅間山があり、北西方向にある信州アルプスを見渡すと乗鞍岳や御嶽山が見えます。 そして南方には大島の三原山も臨むことができます。 多くの山々を眺めることができるという事実そのものが、富士山の重要性を証しています。 日本列島において富士山が最も高い山であることは一目瞭然です。 それ故、古代より富士山は比類なき地の指標となっただけでなく、高き山に神が住まわれるという信仰心を背景に、その頂上では神が祀られるようになりました。 こうしていつしか山全体が霊峰化したのです。 しかしながら、富士山は活火山であり、数百年に一度は噴火を繰り返し、頂上に造営された祠や社もすべて跡形もなく消え去っただけでなく、山全体の容姿も大きく変貌してきました。 しかしながら、噴火の度に人々は新たなる祭壇を衣替えした富士山頂に造営し、山への信仰心を守り続けてきたのです。 富士山信仰は古代から、富士山の噴火と結び付いていました。 富士山本宮浅間社記によると、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火し、第11代垂仁天皇の命により、浅間大神が祀られることにより富士山が鎮められ、浅間神社の起源となりました。 浅間という呼称は火山を意味しているという説があり、それにちなんで、活火山として著名な阿蘇山、浅間山も命名されたと考えられています。 景行天皇の御代では、日本武尊が駿河国で野火に焼かれそうになった時、浅間大神に祈ることにより難を逃れたことが記紀に記されていることからしても、富士山信仰は着実に広まっていたことがわかります。 その後も富士山は度々噴火を繰り返しながらも、富士山の頂上を極める信仰登山まで盛んになり、各地で浅間神社が建立されることとなりました。 富士山が古代の霊峰であることは、レイライン上に並ぶ山や神社が、いずれも歴史的にみて、最も由緒ある古代の聖地であることからしても理解することができます。 富士山を結ぶレイライン上には、出雲大社、諏訪大社、石上神宮、鹿島神宮、そして宇佐神宮など、日本書紀や古事記に記載されている由緒ある古代の神社が名を連ねます。 これほどまでに著名な神社が名を連ねるレイラインは富士山を基点とした事例しかありません。 富士山とレイラインでつながる聖地は、古代に建立された神社だけでなく、由緒ある山々も存在することに注目です。 富士山とは、出雲大社は伊吹山、石上神宮は石鎚山、そして諏訪大社は立山と共に、それぞれが結びついています。 また、筑波山は紀伊半島の最南端にある紀伊大島と共に、富士山と一直線のレイラインを形成しています。 さらには由緒ある古代の神社、鹿島神宮が、辰砂の発掘で知られるようになった古代の採掘場である若杉山とも富士山を介してつながっていることは注目に値します。 これらレイラインの検証から、富士山を基点として多くの聖地や山々が同一線上に並んでいることを確認することができるだけでなく、それらレイライン上に浮かびあがる山や神社の歴史的背景をそれぞれ検証することにより、富士山が霊峰化した時代背景までも垣間見ることができるようになります。 富士山が霊峰であることは、レイライン上に並ぶ多くの古代聖地が地の力を結集すべく結び付いていることからしても、理解することができます。 北アルプスの飛騨山脈に聳え立つ富山県の最高峰、標高3015mを誇る立山は北陸4県の最高峰であり、3000m級の高山としては、日本列島において最北端に位置付けられています。 立山は雄山、大汝山、富士ノ折立の三峰を合わせた総称であり、この三山をもって一つの平ら、かつ広大な山のように遠くから仰ぎ見ることができることから、比類なき美しいランドマークとして誰の目にも印象的に残ります。 複合火山なる立山の麓に広がる室堂平周辺には、国内最高所の硫黄泉として知られる地獄谷が湧き出ています。 その温泉と共存するがごとく、現存する氷河が初めて日本で発見されたのも立山でした。 立山は古代より霊峰として崇められ、立山信仰を育んできました。 その頂上からは日本海を展望できます。 それは海上から逆に、立山の頂上をも望むことができることを意味します。 神が降臨する高山を探し求めながら日本海を船で旅した古代の渡来者も、立山の存在を容易に認知することができたのです。 また、空気の澄み切った日には、富士山をも一望できます。 山の頂上から富士山との繋がりを視認できることから、いつしか霊峰としても認知されるようになったことでしょう。 こうして8世紀の初頭、慈興上人が正式に立山を開山することとなります。 立山には山そのものを御神体として祀る雄山神社が建立され、古くは立山権現と呼ばれていました。 その祭神は伊耶那岐神と天手力雄神であり、創建の時代はわかっていません。 祭神が国生みの創始者である伊耶那岐神であることから、国生みの時代に、伊耶那岐神ご自身が日本海から立山を見出し、そこで神を祀った可能性も否定できません。 立山信仰の基本は修験道であり、山麓には信仰登山の拠点となる寺が建てられています。 そして立山に登り、巡拝することにより、死後の世界を疑似体験するという修行を積むことができると信じられてきたのです。 立山が古代の霊峰であるならば、海上からその頂上を遠くに眺めることができるだけでなく、立山と他の聖地を結ぶレイライン上には、記紀に記されている山や、歴史的にみても由緒ある神社が並ぶはずです。 立山のレイラインを検証すると、その想定にもれることなく、古代聖地が並んでいることがわかります。 まず、国生みの祖である伊耶那岐神が葬られたとされる淡路島の伊弉諾神宮と、淡路島から見える最高峰、剣山を結ぶ線上に立山が存在することは重要です。 剣山は伊耶那岐神が国生みの際に最初に見出した、淡路島から見える最高峰であったと考えられます。 その剣山と伊弉諾神宮の場所に繋がる山こそ、立山であり、それが霊峰となる所以と言えます。 神代の舞台となった出雲大社の御神体とも言われる八雲山と、山幸彦、海幸彦の伝説に絡む対馬の海神神社を結ぶ線上に立山があることも重要です。 それは、国生みに繋がる山として、地の力を共有するべく、立山そのものが聖地として特定されたことを意味します。 また、出雲から諏訪へと続く武甕槌神に纏わる伝説と関わる諏訪に建立された諏訪大社下社が、富士山頂とレイラインを構成しているだけでなく、伊吹山と古代指標として重宝された室戸岬を結ぶ線も立山につながっていることからして、立山が富士山、八雲山(出雲大社)、剣山、そして伊吹山という古代の霊峰に結び付いている事実を地図上で確かめることができます。 こうして立山の霊性は、ゆるぎないものとなったのです。 立山と同様に石川県最高峰、標高2702mの白山も山全体が古くから信仰の対象となりました。 白山の御祭神、三柱には立山と同様に伊耶那岐神が含まれています。 その他、二神は伊邪那美命と菊理媛尊です。 今日、白山神社は全国に3000社あまり建立されています。 最古の国生みの時代から、白山は国生みの神々から知られていたことは想像に難くありません。 日本海を北陸方面に航海するならば、天気の良い澄み切った日には必ずや白山を遠くに目にすることができるからです。 白山が知られるようになったのは、崇神天皇の御代です。 紀元前91年頃、白山に神地が定められ、そこに社殿が建てられ、白山が崇められるようになりました。 崇神天皇の時代と言えば、国家が動乱の局面を迎え、元伊勢の御巡幸が始まる時です。 その重大な時期に白山信仰が広がることにより、修験道のメッカとなるべく土台が造られていったのです。 白山は奈良時代に行者として名高い泰澄により正式に開山されました。 そして修験道のメッカとして多くの行者に知られるようになり、白山信仰は修験道の象徴として体系化されていきます。 その結果、いつしか白山修験は熊野修験に続く勢力にまで発展し、多くの行者が求めた登山信仰の基となったのです。 白山のレイラインは立山のものと比較すると、ずっとシンプルです。 それでも地の力を共有するという大切な意味合いにおいて、他の霊峰とつながっていることがわかります。 まず、日本八霊峰の一つに挙げられている筑波山と同緯度にあることは、極めて重要な事実です。 真東に筑波山を拝することができるということは、筑波山から見ても同様に、白山を真西に見出すことができることを意味します。 同緯度線上にある霊峰同士が相互に崇めあうことにより、地の力が共有されると信じられていたことでしょう。 また、日本八霊峰に挙げられているもう一座の霊峰、剣山と羽黒山を結ぶレイライン上に白山が存在することも需要な視点です。 羽黒山は出羽三山のひとつであり、その東には東北の霊峰として名高い月山があります。 よって、羽黒山を介して、白山は剣山に紐づけられていた、とも考えられるのです。 こうして白山も八霊峰の一座として、多くの人々から崇められる対象となりました。 石鎚山• 石鎚山は四国山地の西部、愛媛県にて、西日本最高峰となる標高1982mを誇る霊峰です。 石鎚山は日本百名山、日本七霊山として知られ、石槌山、石鉄山、石土山と表記されることもあります。 古くから石鎚山は山岳信仰の対象として行者が登山する山でした。 飛鳥時代の657年、修験道の開祖として知られる役小角 えんのおづね は、石鎚山近くの龍王山中腹にて修行の途中、石土蔵王権現が現れ、7世紀末までに石鎚山は開山されました。 それから間もなく熊野権現が勧請され、奈良時代に石鎚山は、修行道場としても知られるようになりました。 直後の平安時代には空海も石鎚山で修行をしたことが、空海自信が書かれた「三教指帰」に記載されています。 12世紀、平安時代後期に書かれた「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野権現、すなわち熊野の神さまと石鎚山との繋がりについての記述があります。 そこには、遥か昔、中国大陸の唐にある天台山の王子信が飛来し、九州の彦山に天下った後、伊予国の石鉄の峰、石鎚山から淡路島の諭鶴羽山に渡られ、その後紀伊半島の最南端、熊野新宮のそばにある神倉山に降臨され、最終的に熊野本宮の大斎原に鎮座されたと記載されています。 石鎚山が霊峰と言われる所以は、史書にその名前が記されているだけでなく、古代の聖人が石鎚山で修行を重ねたという実績があるからに他なりません。 石鎚山を御神体とする石鎚神社の奥の宮は、山頂の頂上社です。 また、山の中腹には中宮となる成就社が建立され、山麓の口の宮には本社があります。 御祭神は石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)であり、石鎚大神とも言われることもあります。 石鎚山の登山は、鎖禅定とも呼ばれる鎖の絶壁を登ることでも有名です。 試しの鎖からはじまり、一の鎖、二の鎖、三の鎖と続き、合わせて239mにもなる急斜面の岩場を、鎖を頼りに上り詰めることになります。 そして三の鎖を登りきったところが、頂上社になっているのです。 石鎚山は西日本最高峰として瀬戸内から頂上を見ることができるだけなく、日本海を望む大山もはっきりと目視することができ、頂上からの見晴らしもパノラマで格別なことから、古代、レイラインの指標として重宝されてきました。 その実態はレイラインのマップから確認することができます。 最初に注目したいレイラインは、石鎚山と熊野本宮大斎原を結ぶ直線です。 史書によると、熊野権現は石鎚山と諭鶴羽山を経由し、熊野の高倉山に降臨された後、熊野本宮大斎原に鎮座されました。 その大斎原が、石鎚山と同緯度に存在します。 熊野奥地の川沿いにて、大斎原の場所が見出された理由はまさに、石鎚山の存在なくしては語れません。 さらには天孫降臨の時代に遡り、瓊瓊杵尊が高千穂に天下ったという記紀の記述から、高千穂と石鎚山を結ぶレイラインを検証すると、その線上に古代、海洋豪族が重要視した金刀比羅宮が並びます。 この同一線上の南側には、イスラエルのエルサレムと同緯度にあるヒラバイ山が存在することにも注目です。 天孫降臨がイスラエルと結びつき、その結果、高千穂と金刀比羅宮の場所が石鎚山を基点として探し出されたと考えられます。 徳島の小松島にある日峰山は、淤能碁呂島(おのごろじま)としての可能性を秘めている由緒ある島です。 石鎚山と日峰山を結ぶレイライン上の東方には、古代、海上から紀伊半島にアクセスする際の船着き場として用いられた伊雑宮があります。 後の伊勢神宮の奥宮とも言われる場所です。 また、富士山と石鎚山との関係も重要です。 2座の霊峰を結び付ける線上には、記紀にも登場する古代神宮として名高い奈良の石上神宮が存在します。 そして初代神武天皇の宮があったとされる場所には、今日、橿原神宮が建立されています。 その場所は、石鎚山と諭鶴羽山を結ぶ線上にあることからしても、皇族にとって、霊峰石鎚山の存在は極めて重要であったと言えます。 石鎚山のレイラインから、いかに古代聖地が霊峰を基点として、互いに結び付いているかを知ることができます。 それらのレイライン上には、富士山、諭鶴羽山、剣山、釈迦ヶ岳が並ぶだけでなく、古代聖地として著名な熊野本宮大斎原、高千穂、伊雑宮、 石上神宮や、橿原神宮も並びます。 これら最も古い年代の聖地が名を連ねることからしても、石鎚山が霊峰として認知されたのは、およそ国生みの時代にまで遡ることがわかります。 石鎚山こそ、古代から崇められてきた霊峰だったのです。 日本百名山のひとつに選定されている剣山は、石鎚山とほぼ同等の標高1955mを誇る西日本第二峰、四国徳島県の山です。 剣山の頂上周りには、祖谷川を源流とする御神水が湧き出ており、日本の名水百選に名を連ねています。 剣山の頂上から尾根伝いを眺めると、ミヤマクマザサと呼ばれる緑の葉に包まれた「馬の背」とも呼ばれる広大な緑の草原が広がっています。 剣山の頂上はしめ縄で祀られており、頂上近くの宝蔵石に隣接して剣山本宮宝蔵石神社、そして宝蔵石を拝する形で剣山本宮が建てられています。 また、山の中腹には大剣神社があり、背後に聳え立つ50mほどの巨石を御神体としています。 そして麓の見ノ越には劔神社が建立され、そこが剣山頂上へ向かう登山道の入り口ともなっています。 剣山は、同じ四国の石鎚山と同様に、古代から修験道の山として、多くの行者が登山に訪れてきました。 その背景には、剣山に纏わる伝説が存在します。 剣山周辺の集落には古代のミステリーが存在し、例えば町役場の案内書には、ソロモンの秘宝が隠されている可能性について記載されています。 ソロモンの秘宝とは、聖櫃、すなわちアークとも呼ばれる契約の箱と、そこに秘蔵された中身のことです。 旧約聖書によると、聖櫃の中にはモーセが携えていた十戒の石板が秘蔵され、また、聖櫃と共にアロンの杖とマナの壺も聖櫃のそばに置かれていました。 それらが日本に持ち運ばれてきたのではないか、という噂が絶えないのです。 古代、剣山を目指して長く険しい山道を登った人たちは、まず、穴吹にある巨石を祀る石尾神社に参拝し、その近くにある杖立峠を越えて、剣山に向かったと伝えられています。 その石尾神社は巨石をご神体としていることから、社殿らしい建物は何もありません。 そして何十メートルにも連なる巨石の割目の奥深くには、昔から、「金の鶏」が隠されていたという伝承が残されてきました。 イスラエルの聖櫃の一番上には、向い合うケルビムと呼ばれる金の鳥が羽を広げた形状の装飾物が知られています。 剣山参りの前座となった石尾神社の金の鶏とは、果たしてイスラエルの聖櫃と何かしら関係があるのでしょうか。 いずれにしても、剣山周辺の地域は古代から、何かしらイスラエルとの関係があるようです。 近くの神明神社は積み石風の祭祀遺跡として知られています。 南向きに位置し、3つの入り口から入ると、5か所に祈り場が存在します。 これら石の並べ方、配置の在り方は古代のユダヤ礼拝所に酷似していることから、神明神社そのものがユダヤルーツではないかと言われています。 しかしながら古代の霊峰として、これまで剣山の名前が挙げられることがあまりなかっただけでなく、古代イスラエルとの関係も正式に取りざたされるようなことがありませんでした。 歴史の背景の中に、長年うもれてきてしまったのでしょうか。 ところがこの剣山こそ、日本列島が誇る霊峰として、古代より極めて重大な位置づけにあることがわかってきました。 最も注目すべき点は、剣山が淡路島から望むことができる最高峰である、ということです。 淡路島は大きな島であり、島の随所から周囲の山々と見渡すことができます。 北方には六甲山脈をながめ、南東方向には吉野や熊野の山々を望めます。 また南西方向には四国徳島の山々が並んでいます。 それらの山々の中で、頭ひとつ出ている最高峰が、剣山です。 淡路島から遠くに四国の山々をのぞむと、天気の良い日、一つの山の頂上だけがすこしだけ飛び出しているのが見えます。 古代イスラエルの民は、東の海の島々の中でも、ひときわ聳え立つ最高峰を探し求めていたと考えられます。 それ故、国生みの時代にて最初に淡路島に到達した時点で、剣山の存在が見出されたことでしょう。 よって剣山の歴史は大変古いものと考えられます。 その証となるのが、剣山と他の聖地を結ぶ多くのレイラインの存在です。 剣山のレイラインには、古代聖地がずらりと名を連ねます。 それ自体が、剣山が古代の霊峰であり、最重要視されていた指標の山であったことの証と考えられます。 まず、石鎚山と同様に、高千穂、熊野本宮大斎原と剣山とのつながりを見てみましょう。 すると、高千穂と剣山を結ぶ延長線には古代聖地の基点として比類なき位置づけを誇る三輪山があり、熊野本宮大斎原と結ぶレイラインの西方には宗像大社が存在します。 いずれも記紀において、国生みの時代から神代にかけて登場する聖地です。 奈良盆地を囲む一角の小高い山が三輪山の聖地となった背景には、おそらく剣山と高千穂を結ぶ線上にあることが重要視されたのではないかと推測されます。 また、神代の事象は南西諸島から対馬、宗像を経由して記録されていると考えられることから、宗像にて神が祀られた後、石鎚山と剣山を指標として、それらのレイラインが通る熊野本宮大斎原の聖地が定められたと想定できます。 また、石鎚山と同じく、剣山も淤能碁呂島に比定される可能性がある小松島の日峰山と結び付き、そのレイライン上には富士山と香取神宮が並んでいます。 日峰山は、剣山と富士山を結ぶ線上にあることから重要視されるようになり、後には、その一直線上に香取神宮が建立されたと考えられます。 そしてスサノオと絡み、出雲大社のご神体ともいわれる八雲山と金刀比羅宮が、剣山と一直線を構成していることにも注目です。 金刀比羅宮は剣山と八雲山の地の力を受け継ぐべく、綿密に計算された場所に建立され、しかもその場所は前述したとおり石鎚山と高千穂とも紐づけられていたのです。 聖地をまたがるレイラインが交差する地点に建てられた金刀比羅宮だからこそ、多くの人に愛されてきたのです。 その後、崇神天皇の時代では元伊勢の御巡幸が始まり、再び剣山はひそかに注目される存在となり、元伊勢御巡幸のすべての巡幸地とレイライン上で結び付くことになります。 それは剣山が神宝と纏わる重要な秘蔵場所であったことを後世に伝えるためのメッセージであったかもしれません。 いずれにしても、剣山は国生みの時代から重要視され、特に神宝の秘蔵が重要視された前1世紀以降、新たに注目を浴びる存在となり、そこが邪馬台国の舞台へと発展していくのです。 その発展の起因となる立地条件の重要性を、元伊勢に関するレイラインからも検証することができます。 剣山を基点として選ばれた元伊勢の御巡幸地だからこそ、最終目的地が剣山であったと推測できるのです。 剣山こそ、古代の霊峰の中でも、きわめて重要な位置づけを占めていたことがわかります。 伊吹山• 伊吹山地の主峰として、琵琶湖の東方に聳え立つ伊吹山は、日本百名山に数えられ、滋賀県最高峰の標高1377mを誇ります。 伊吹山の標高は日本アルプスの半分にもいたりませんが、アジア大陸からの強風と豪雪を真っ向から受ける位置づけにあり、ギネスブックには世界一雪が積もった場所としても知られています。 1927年2月、伊吹山には11. 82mの雪が積もり、観測史上1位の世界記録となりました。 また、1日あたりの降雪量としても2. 3mを記録し、これも世界記録となっています。 伊吹山の標高はそれほどまで高くはないのに、例年にわたり「風の通り道」とも言われる強風と豪雪にみまわれてきたのです。 その頂上からは琵琶湖から日本海や比叡山、東方には日本アルプスまでも見渡すことができる伊吹山は、古代から山岳信仰の対象となりました。 無論、日本海の海上からもくっきりとその姿を見ることができます。 古代、西アジアより到来した渡来人は海洋豪族とも言われる高度な航海技術を擁する民であり、日本列島に到来した後、早くから琵琶湖周辺において水路を見出し、瀬戸内から日本海に、そして太平洋側の伊勢湾の方にまで、琵琶湖を経由して行き来するようになったと想定されます。 よって、その琵琶湖近くに聳え立つ伊吹山は貴重な目印であり、遠くから見極めることのできる地の指標だったのです。 古代より伊吹山で祀られているのは伊吹大明神であり、時には「巨大な白猪」や「白い大蛇」に変貌する神が宿る山として畏れられてきました。 日本書紀や古事記には、日本武尊が東征からの帰途に伊吹山にて伊吹大明神の返り討ちにあい、病に冒されて命を失った話が記録されています。 石鎚山と同様に、伊吹山は役小角により開山され、平安時代では比叡山、比良山、愛宕山、神峰山 かぶせん 、金峰山、葛城山と並び、近畿地方の七高山の一つとして知られるようになりました。 その後、9世紀半ばには伊吹四大寺が創建され、現在では頂上に伊吹山寺山頂本堂が建てられています。 伊吹山のレイラインは、スサノオが活躍した出雲の八雲山とほぼ同緯度の線が基本となります。 その線上には、琵琶湖に浮かぶ聖なる島、竹生島も存在します。 出雲神話においては、スサノオと草薙剣の話が有名です。 その背景に聳え立つ八雲山と結びつけられた伊吹山でも、後世において同じ草薙剣を持つ日本武尊が、歴史の舞台に登場しました。 伊吹山を通る同緯度線は富士山までつながり、東征に向かった日本武尊の働きを象徴しているようにも窺えます。 鳥取県最高峰の大山は標高1729mを誇ります。 四国の石鎚山、剣山の頂上からは大山をくっきりと望むことができることから、古代より重要な指標となっていました。 大山は古くは大神岳、おおかみのたけ、とよばれてきました。 大山は奈良時代、出雲の国造りに貢献した依道によって開山されたといわれています。 「大山寺縁起」によると、大山は熊野山、金峰山と共に元は一つであり、それが三つに分かれ、いつしか山岳信仰の対象となりました。 大山の麓には奈良時代に創建された大山寺があり、必然的に修験道の道場になりました。 そして平安時代以降、最盛期には100あまりの寺院と3000人の僧兵を抱える勢力までになり、室町時代には、天台宗山岳仏教の道場としても知られるようになり、大山は「修験の山」としての位置づけを確立したのです。 その大山寺の境内から自然石を敷き詰めた石畳の参道を700mほど登ると、全国最大級の壮大な権現造りで有名な大神山神社奥宮があります。 従来、その場所は大山に登る行者のための遥拝所として始まり、大山寺の本殿として、大山全体の山岳信仰の聖地となっていた歴史があります。 その社殿が大神山神社奥宮となり、その御祭神として、神代にて国造りに貢献された大己貴神が祀られたのです。 その奥宮に保管されている八角神輿は江戸時代後期に作られたものであり、台座の高さは3mを超え、全体の重量は1トンを超えます。 大山のレイラインは大変シンプルな線引きにまとまっています。 伊吹山と同様に大事なことは、大山が日本最高の富士山とほぼ同緯度で結びついていることです。 その線上には伊吹山が存在するだけでなく、琵琶湖に浮かぶ小さな聖地、竹生島も並びます。 大山は、地の力を富士山と伊吹山、双方と共有していたのです。 また、他の古代霊峰の多くが高千穂に紐付けられているように、大山も高千穂とレイラインで結び付いています。 古代の渡来者は、南西諸島を北上して海をわたり、九州から四国、淡路へと航海してきました。 その海路の途中、九州の最南端で船を停泊さす拠点としたのが、今日の鹿児島県、日置市の船木神社です。 西アジアから渡来してきた船木一族こそ、皇族を先導して日本列島に導いた海洋豪族と想定され、1? 2世紀では、元伊勢の御巡幸において伊勢への船旅を導いただけでなく、その後、紀伊半島や播磨、淡路、そして四国の若杉山にも拠点を設けています。 その船木一族の古代拠点と大山を結んだ線上に高千穂が存在するということは、高千穂という山奥にて、大山と船木を結ぶ直線上に高千穂の聖地が特定された可能性を意味します。 日本海の海上から目の当たりにできるだけでなく、四国の剣山や石鎚山からも望むことができ、古代で最も古い港であろう船木と、高千穂を介してつながっている大山こそ、日本八霊峰のひとつとして名乗りをあげるにふさわしい名山と言えるでしょう。 筑波山• 関東平野を一望できる標高877mの筑波山は紫峰とも呼ばれ、海上からの視認性もすばらしく、古代から重要な指標として用いられていました。 筑波山の頂上からは太平洋を一望できるだけでなく、広大な関東平野の先には富士山から日本アルプスの山々まで遠く望むことができます。 筑波山のレイラインは特筆すべきものばかりであり、どれもが重要な関係性を持っています。 特に複数の古代霊峰とレイラインでつながっていることに注視する必要があります。 まず、筑波山の真北には、東北地方の霊峰として名高い月山が聳え立ちます。 そして筑波山から西方を眺めると、その先には霊峰白山の存在を確認できます。 また、剣山は古代由緒ある石上神宮と筑波山を結ぶレイライン上に存在します。 筑波山は伊吹山とのレイラインも構成し、その西方の先には宗像大社中津宮が建立されています。 次に富士山との関係を見ると、その直線上には紀伊半島最南端の紀伊大島がつながります。 紀伊大島は太平洋側を航海する際に、大変重要視された地の指標であり、多くのレイラインとのつながりをもっています。 紀伊半島の最南端から富士山を目指していくだけで、その先に筑波山を見出すことができたのです。 さらには筑波山と古代聖地として名高い諏訪大社上者前宮を結ぶレイライン上の西方には大山があります。 つまり筑波山は日本八霊峰のうち、石鎚山と立山を除く他の山々、すべてとのつながりを持つ位置づけにあったのです。 それ故、古代でも地の力を共有する極めて重要な霊峰として、いつの日も大勢の人々から拝されてきたのです。

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