は れ の ひ 事件。 事件

附属池田小事件

は れ の ひ 事件

1989年4月15日、胡耀邦元総書記が心筋梗塞のため亡くなります。 北京にある天安門広場では、学生らによって追悼集会が開かれました。 この集会は、胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平への抗議活動の意味合いも含んでいました。 すると追悼集会は徐々に形を変え、中国独裁体制を否定し、民主化への移行を求めるものになっていったのです。 ヒートアップし、集会がデモへと発展。 この動きを察知した中国共産党は、戒厳令を布き、デモの鎮圧のために警察ではなく軍隊を動員。 無差別に発砲し、強引に鎮圧したのです。 この事件は、当然世界から猛烈な批判を浴びることになります。 現在でも中国共産党は、天安門事件に関するあらゆる検閲をおこなっており、中国国内ではこの件についてインターネットで調べることすらできない状態です。 発端は、亡くなった胡耀邦元総書記の追悼をするために、学生たちが天安門広場に集まってきたことでした。 学生のなかには中国共産党による独裁体制を快く思っていない者もおり、独裁体制を打破すべしといったような強硬派もいたのです。 彼らが声高に独裁体制の打倒を叫び、追悼集会は反体制派の集会と化しました。 この動きは北京だけでなく、西安や南京などにも広がっていきます。 ここまでなら、彼らを解散させて穏便に収めることができたかもしれません。 しかし「人民日報」という中国共産党の機関紙が「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」という社説を一面に掲載します。 学生たちの活動を「動乱」と位置づけ、共産党の指導に反するため断固として反対しなければならないという内容が記されていました。 これに学生たちが猛反発し、ハンガーストライキといった過激な行動に出るようになりました。 以降、中国共産党の高官が話し合いをしようとしても、学生側は拒否します。 そして、しびれを切らした中国共産党が実力行使に出たのです。 天安門事件の死者数は? 中国共産党の公式発表によると、死者は学生や軍を合わせて319人とのことですが、一説ではそれよりもはるかに多い3000人というものも。 日本でも一斉に天安門事件を報道しましたが、各新聞社でばらつきがありました。 たとえば読売新聞は「死者3000人以上」、毎日新聞は「死者2600人かそれ以上」、朝日新聞は「死者2000人、負傷者5000人以上」といった具合で、正確な数は把握しきれていません。 他にもソ連が「死者3000人」と見積もっており、これが現段階でもっとも信頼されている数字のようです。 中国国内でもこの事件をひた隠しにする風潮が強いため、追加調査はおそらくおこなわれないでしょう。 情報が錯綜していますが、いずれにしても319人よりはるかに多い、というのは間違いなさそうです。 天安門事件の真相 事件当時、中国共産党内には鄧小平と趙紫陽という人物がいました。 総書記は趙紫陽でしたが、実権を握っていたのは発言力の大きい鄧小平でした。 当時の共産党内には、共産主義を徹底しておこなう鄧が率いる長老派の存在があり、天安門事件を利用して政敵の排除を狙っていたようです。 ここでいう政敵というのは、趙紫陽のことでしょう。 共産主義の枠を超えた経済政策を打ち立て、若者から人気のあった趙は、伝統的な共産主義を維持したい長老派からは厄介な存在として認知されていたようです。 天安門事件の発端となるデモが起こった時も、趙は平和的な解決を模索し、積極的な話し合いをしていました。 しかし学生のなかには過激な意見を持つものもいて、話し合いはどれも決裂しています。 鄧はこのデモを反社会的行動とみなし、軍隊によるデモの強制解散を実行します。 趙は武力弾圧に断固反対しましたが、鄧は趙の役職をすべて解任して軟禁状態にし、大虐殺が実行されました。 天安門事件というと民主化デモの弾圧に目が行きがちですが、中国共産党内の政権闘争という側面もあったのです。 重罪犯刑務所での生活が赤裸々に綴られています。 事件に関する過酷な尋問や、食事の様子、さまざまな事情で投獄された収監者の様子などがリアルに伝わってきます。 独裁体制からの脱却を目指して戦った学生や、共産主義を絶対と信じ独裁体制を維持したかった共産党など、天安門事件にはさまざまな思惑がありました。 この事件は国による弾圧としてはかなり大規模なもので、世界的に見ても類を見ません。 リビアのかつての指導者カダフィ大佐が、反政府デモを武力鎮圧した際に引き合いに出すほど、天安門事件は市民への抑圧の象徴となってしまいました。 世界にも大きな影響を与えた事件について、興味を持ったときの入り口として、ぜひ紹介した本を読んでみてください。

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フジテレビ 老人火あぶり致死事件……テレビ史上、最も残忍で、最も怖ろしい事件が起きていた…

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外神田交差点で現場検証をする捜査員 場所 ・ () : 日付 2008年6月8日 2008-06-08 () 12時30分 標的 攻撃手段 ではねる で刺す、切る 武器 ドライバン(レンタル) 死亡者 7人 負傷者 10人 犯人 加藤 智大(かとう ともひろ、9月28日生まれ 、犯行当時25歳) 動機 でトラブルを起こした相手へ心理的攻撃を加えるため 対処 (本部・)が・が 刑事訴訟の結果、2015年にが() 秋葉原通り魔事件(あきはばら とおりまじけん)とは、(20年)に()で発生した殺傷事件。 7人が死亡、10人が重軽傷を負った。 警察 や裁判所 、報道 、更に犯人自身 からは主に 秋葉原無差別殺傷事件と呼ばれている。 加藤が警察官に取り押さえられた現場 (写真中の建物は現在のクラブセガ秋葉原新館) 2008年6月8日12時30分過ぎ、東京都千代田区外神田四丁目の神田明神通りとが交わる交差点で、元自動車工場派遣社員の 加藤 智大(かとう ともひろ、1982年9月28日 - 、犯行当時25歳)の運転する2トントラック()が西側の神田明神下交差点方面から東に向かい、中央通りとの交差点に設置されていた、青信号を横断中の歩行者5人を撥ね飛ばした。 このトラックは、交差点を過ぎて対向車線で信号待ちをしていたと接触して停車。 周囲にいた人々は最初はだと思っていたが、を運転していた加藤は車を降り、に倒れこむの救護にかけつけた通行人・ら17人を所持していたで立て続けに殺傷した。 さらに加藤は奇声を上げながら周囲の通行人を次々に刺して逃走。 事件発生後まもなくして近くの警視庁秋葉原交番から駆けつけた警察官が加藤を追跡し距離を詰めたところ、防護服を斬り付けられるなど命の危険に晒されたものの、警棒で加藤の側頭部を殴りつけるなどして応戦。 最後はの銃口を加藤に対して向け、武器を捨てるよう警告し、応じなければ拳銃を発砲することを通告した。 それに応じダガーを捨てた加藤を非番でたまたま居合わせたの警察官とともに取り押さえ、旧本店(現・秋葉原新館)脇の路地でした。 事件当日は日曜日で、中央通りはの区域となっていた。 この日も多くの買い物客や観光客でごった返しているなかの犯行であり、事件直後に多くの人々が逃げ惑い、また負傷者が横たわる周囲が血の海になるなど事件現場はさながら戦場の様相を呈しており、まさに白昼の惨劇であった。 後に加藤はナイフは他にも5本所持していたことが明らかになった。 なおこれらはおよそ5 - 10分ほどの間の出来事だった。 捜査一課・万世橋署は6月10日、加藤をに送検、同地検は7月7日、加藤の精神鑑定のため、にを請求し認められた。 留置期限の10月6日までに、「刑事責任能力がある」という結論が出されている。 救急活動 [ ] これらの犯行に対する救命活動はおおむね迅速に遂行された。 犯行現場にいた一般の通行人は、加藤がまだ拘束されていない段階から積極的に被害者たちに対するを開始し 、また、などを活用しての迅速な通報がなされた。 は12時36分に最初の通報を受信、通常のによる救急事案として、1隊と救急隊支援のための1隊を出動させたが、さらに通報が相次いだことから、指揮隊1隊と救急隊4隊を応援隊として出動させた。 12時43分には最初の救急隊(浅草橋出張所)が現場に到着した。 現場到着部隊は、通常の態勢で対処できる状況ではないと判断し、現場到着とほぼ同時に、 の出場を要請、東京消防庁はに対して出動要請を行った。 12時47分には消防の現場指揮本部から応援要請を受け、多数の傷病者に対応するための「救急特別第1出場」を発令、救急隊10隊や、東京DMATの支援のための消防隊(東京DMAT連携隊)などを追加出動させた。 12時49分には、先に出動を指令された救急隊5隊が現場での活動を開始している。 東京消防庁がDMATチームに出動を要請してから12分後の12時55分、現場からもっとも近かったのDMATチームが現場に到着した。 日本医大DMATチーム指揮官は、犯行規模の大きさからDMATチームをさらに2チーム追加投入するよう要請し、13時8分にのDMATチームが到着、これにより、殺人事件としては初のDMATチーム複数投入が実施されることとなった。 最終的には、日本医大、東京医大に加え、との4チームが現場に展開している。 13時過ぎにはDMATチームの現地指揮所が設置され、最初に現場に展開した日本医大チームが全体の指揮をとることで指揮系統が確立された。 これらのDMATチームが主導することで、救急活動はおおむね円滑に遂行されたと評価されている。 一方で、DMATチームの出動に頼ったために、初動のに遅れが出た可能性も指摘されている。 被害者 [ ] 17名がトラックではねられたり刺されたりするなどの被害を受け、そのうち7名が死亡した。 通り魔事件としては過去30年で最悪の事件とみられている。 被害者数は平成時代に起きた無差別殺傷事件としては、7年前の同じ日に発生したに次ぐ惨劇になった。 トラックではねられる(5人、死亡3人・負傷2人) 被害者 負傷詳細 搬送先 無職男性 左背中刺創・死亡 男子学生 腹部打撲・死亡 男子学生 全身打撲・死亡 男子学生 腰の痛み・軽傷 男子学生 擦過傷・軽傷 三井記念病院 [ ] ナイフで刺される(12人、死亡4人・負傷8人) 被害者 負傷詳細 搬送先 女子学生 失血・死亡 無職男性 背部刺創・死亡 調理人男性 背部刺創・死亡 男性会社員 胸部貫通刺創・死亡 男性タクシー運転手 右胸刺創・重体 男性会社員 背部刺創・重傷 男性会社員 腰・重傷 東京医科歯科大学医学部附属病院 女性会社員 肺・重傷 東京医科歯科大学医学部附属病院 男性派遣社員 背部刺創・重傷 日本医科大学付属病院 女性大学職員 腹部刺創・重傷 聖路加国際病院 男性警察官 脇腹刺創・軽傷 男性フォークリフト技師 右前腕切創・軽傷 [ ] 犯人 [ ] 加藤 智大 生誕 1982-09-28 (37歳) 出身校 自動車工学科卒業 職業 罪名 刑罰 有罪判決 () 殺人 被害者数 7人 逮捕日 加藤によると、殺人を目的として事件を起こしたのではなく 、ネットの掲示板荒らしに対する抗議の表明手段だったという。 事件直前には中止を考えたものの既に掲示版で犯行予告を行っていたため、刑よりはになった方がましだと考えて決行したという。 トラックで人をはね飛ばすのは2005年(平成17年)4月に発生したを 、ナイフで人を襲うのは2008年(平成20年)3月に発生したを参考にし、犯行2日前に福井県のミリタリー輸入雑貨店でナイフ類6本を購入し 、犯行前日に静岡県の店で2トントラックを予約して犯行に及んだ。 加藤は事件現場で現行犯逮捕されて以降、拘置所において弁護士以外との面会を拒否し、手紙の受け取りも拒否し 、マスコミの取材も拒否している。 その一方で2012年から事件に関連した著書を発表している()。 経歴 [ ]• 1982年9月28日 - で出生。 1998年4月 - 入学(母が卒業した学校であり母が進学を望んでいた)。 2001年• 2月 - 青森県立青森高等学校卒業(学業に意欲を持てず成績は低迷し、母が望んでいたへの進学を断念)。 4月 - 自動車工学科入学。 2003年• 3月 - 中日本自動車短期大学自動車工学科卒業(学業に意欲を持てず成績は低迷し、のを取得せず)。 4月 - 母から資金提供を受け、内にアパートを借りて一人暮らしを始めた。 7月 - 仙台市の警備会社に就職、警備事業部に配属され、警備現場のに配属。 雇用形態は準社員。 はを含めて、多い月で25万円に達した。 同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人がいた。 2004年• 1月 - 内勤に異動になり、警備業務の案件ごとに必要な人を配置する職種に配属。 月収はになり手取りで17万6000円。 4月 - 母から資金提供を受けて、を取得、30万円のを購入。 自動車の改装のためから借金。 2005年• 2月 - 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し、警備会社を退職。 4月 - 一般(登録型派遣)会社と契約し、の自動車メーカーの工場に派遣。 住居は派遣会社が提供する独身寮。 月収は残業や休日出勤を含めて、多い月で27万円に達した。 同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人はできなかった。 ネット上の掲示板への投稿に深入りするようになった。 70万円の自動車を借金して購入。 2006年• 4月 - 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し、派遣会社を退職。 5月 - 一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社と契約し、の部品メーカーの工場に派遣。 住居は派遣会社が提供する独身寮。 同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人はできなかった。 ネット上の掲示板への投稿に深入りするようになった。 8月 - 職場の人間関係の不満に対する抗議の表明として無断欠勤し派遣会社を退職。 青森や仙台時代の友人宛に、自殺するつもりであるとのメールで送信し、青森の母宛に電話した。 メールを受信した友人たちは考え直すよう説得するメールを返信した。 3年ぶりに両親宅に帰宅し母と面会した。 母は子供時代の教育姿勢を謝罪した。 9月 - 母は次に仕事が決まるまでしばらく自宅で休養するように勧めた。 父はこのまま自宅にいていいと勧めた。 秋 - 高校時代の友人たちとたびたび飲食し歓談した。 母から資金提供を受けて運転免許を取得。 2007年• 1月 - 青森の運送会社に大型輸送車のとして就職。 3月 - 雇用形態がに変更。 同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人がいた。 高校時代の友人たちとの交友関係も継続していた。 7月 - 自宅を出て青森市内にアパートを借りて一人暮らしを始めた。 9月 - ネットの掲示板の投稿者と面会する2週間の旅行のための休暇を会社に対して申請するが、会社から却下されたことに対する抗議の表明として無断欠勤し、運送会社を退職。 借金の返済をしないまま青森を去る。 9月〜10月 - 掲示板の投稿者と面会するための旅行を繰り返す。 10月 - 掲示板の投稿者宛に、自殺するつもりであるとメールを送信し、メールを受信した人たちは考え直すように説得した。 に無断駐車した内で寝泊まりしていて、にされ、自殺するつもりと供述し、警察官は考え直すように説得した。 11月 - 一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社であると契約し、のに所在する工場に派遣。 住居は派遣会社が提供する独身寮。 日勤と夜勤の交代制で、月収は残業や休日出勤が多い月は手取りで20万円(寮費を引いた金額)、残業や休日出勤が無い月は手取りで14万円。 同じ職場で働いている人の中で仕事以外で交友する友人がいた。 ネットの掲示板への投稿に深入りするようになった。 2008年• 5月 - 派遣会社が6月末での派遣契約の解約と、希望者には他の派遣先を紹介すると通知したため、他の派遣先で就業することを選んだ。 そのことについて特に不満はなかった。 5月〜6月 - 掲示板をなりすましに荒らされ、掲示板荒らしが去って孤独を感じ、掲示板に通り魔事件を起こすと投稿するようになった。 6月 - 更衣室で自分の作業服が見つからないことを理由に無断欠勤してそのまま職場放棄。 その後は通り魔事件を起こすとの予告を掲示板に投稿を繰り返し、通り魔事件に使用する自動車やダガーナイフを準備をして6月8日の事件に至る。 のは加藤の弟による手記を分析し 、加藤は、幼少期に他の子供との交流を制限されていた事で母親から投影されたが思春期まで抜けられず、現実の自分との間に大きな隔たりが生まれたのだろうと指摘している。 一方で加藤は片田のこの著書を「様々な間違いの集大成といえるもの」とし 、自分は現実に適応してきた現実主義者だったと反論している 掲示板 [ ] 加藤は向けのを複数利用していた。 2008年2月に「なせいで孤独な男」という人物を演じたところ他利用者からの反応が良かったので、以後「不細工スレの主」として自虐的な書き込みを続けて行く。 一方で加藤に成りすましたも掲示版に現れる様になる。 やがて実生活で仕事や友人を失った事から社会との接点が掲示版のみになり、孤立を恐れて掲示版にしがみつく様になった加藤は 、荒らしへの「心理的に攻撃する手段」 として、報道されて相手に伝わる様な大事件を起こす事を決意する。 加藤は事件当日の5時21分に「究極交流掲示板(改)」 に新しいスレッドを立て、沼津から秋葉原まで移動して事件を起こすまでに約30回のメッセージを書き込んでいた。 11時45分頃、秋葉原に到着した加藤はスレッドのタイトルを「秋葉原で人を殺します」へ、内容を「車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら」と書き換えてを行い 、12時10分に「時間です」の書き込みを残して12時30分に事件を起こした。 加藤が否定した犯罪要因 [ ] 労働環境 加藤が社員であったことから、の環境が厳しくなっていることで将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方も出た。 また、この事件をもって若者の雇用環境悪化を問題視する意見が報道機関から多数出て、読者からの投稿でもそれに追随する意見が出された。 だが、において、加藤は本件犯行の動機も原因も雇用形態が派遣であることとは無関係であると供述し、ももも、その供述が事実であると認定した。 加藤は卒業後の最初の就職から事件を起こす直前まで働いていた最後の就職先まで、全ての就職の雇用形態が登録型派遣労働社員だったわけではなく、青森県の運送会社ではとして、の会社で準社員として、直接雇用されている(後に自己都合退職)。 加藤は、短期間で転職を繰り返した理由は、上記のように職場や人間関係に対して不満があると、雇用主や同じ職場で働いている人と話し合いをせずに、不満への抗議の表明手段として、無断欠勤してそのまま職場放棄して退職するという、極端な考え方とその現象としての言動が原因であると、裁判で供述している。 また加藤による自著『解+』においても否定している。 作業服の紛失 加藤は一貫して否定しており 、加えて取り調べ段階において、供述の文言を書き換えて勝手に動機とした捜査機関による捏造行為があったことを述べている。 負け組 加藤が掲示板に「負け組は生まれながらにして負け組なのです まずそれに気付きましょう そして受け入れましょう」などと書き込んでいたこともあり 、事件後加藤を負け組の英雄とし、「神」「教祖」「救世主」とまでみなす共感現象が起きた。 これに対し、加藤は「本気で自分を「負け組」だと考える人のことは全く理解できません。 また、自分の努力不足を棚に上げて「勝ち組」を逆恨みするその腐った根性は不快です。 」 と切って捨てている。 社会的孤立 社会学者のは社会の側の包摂が足りないのが原因として「絆のある人間関係の中で生きられること」が必要などと主張したが 、加藤は地元の青森や仙台を中心に趣味の合う仲の良い友人が幾人もおり 、どの職場でも友人付き合いをし、心を開いて話をする店主がいる行きつけの酒場などもあった。 また掲示板を介しても自らを提案し、全国を旅行して相手先に宿泊し心を通わせるなど、積極的人間関係の構築により友人が多数いた。 事件当日も作業着事件で辞めた元職場の友人へ遊ぼうと呼びかけている。 また、「若者が希望を持てる社会、などと言われたりしているようですが、意味不明です。 何故そうやって社会のせいにするのか、全く理解できません。 あくまでも、私の状況です。 社会の環境ではありません。 勝手に置き換えないでください。 」 と述べている。 北海道大学准教授のは「コミュニケーションが下手で、友達がいない若者はたくさんいる。 加藤はうまくやっている方で、もしかしたら、私が教えている学生の方が友達がいないかもしれない。 なのに、加藤は孤独だった。 問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったこと」と主張している。 学歴 加藤は親への恨みから大学に進まなかったことを、不利益であったため後で考えれば損だったとは述べている ものの、「事件とは無関係です」ときっぱり否定し、むしろそのような動機を盛る者達の学歴に対する劣等感を指摘している。 「盛られた動機」に対して [ ] 加藤は繰り返し捜査機関側が都合のいい供述調書を作ろうとさまざまな動機をでっち上げ、それを前提とした供述をさせようとしたことを挙げ、そのような「盛られた動機」を調べもせずに垂れ流す 「広報」と化した大手報道媒体を捜査機関とともに批判している。 また「専門家の話もほとんど嘘」と指弾し、そこから出てくる対策に効果などないと結論づけている。 過去の自暴自棄 [ ] 加藤は精神的に不安定になり、短大時代には対立していた学生がいる寮をエアガンで襲撃する計画、仙台の警備会社では事務所に火をつけるかトラックで突っ込むかして襲撃する計画、地元の青森で車で対向車線側のトラックに突っ込んで自殺するという計画を立てたりしていたと語っている。 しかし、襲撃計画は短大卒業寸前に退寮したり警備会社を無断欠勤したりすることで、実行する気は薄まっていった。 2006年8月末と2007年には自殺計画を練り、友人や家族に自殺予告のメールをした後で実行に着手しようとしたが、最終的には実行しなかった。 事件後の対応 [ ] 歩行者天国の中止 [ ] 通り魔事件は、事件当時秋葉原で実施されていたにも影響を与えた。 事件発生を受けて、千代田区と万世橋警察署、地元町会で歩行者天国のあり方を検討することとなり、毎週およびの12時から17時まで中央通りで実施していた歩行者天国の当面の中止を、が決定した。 その後、自治体や地元町会・商店街の検討会により、住民によるの実施・の設置、安全に関する協定の制定など防犯体制の案がまとまり、(22年)の夏休みをめどに再開することを予定していた。 しかし警察庁から、地元からも警備要員を出すように要望があり、その体制がまとまらなかったことから、歩行者天国の再開時期が報じられては延期という状態がしばらく続いていた。 最終的には、路上パフォーマンスを警戒する警備要員を一定数、常時巡回させる計画でまとまり、地元住民の同意もほぼ得られたとして、(平成23年)1月からの歩行者天国再開を、2010年(平成22年)12月中に東京都公安委員会に諮ることとなった。 歩行者天国の再開 [ ] その結果、毎週日曜日のみ、実施時間を13時から17時(4月以降は18時)まで とし、実施区間も従来より200短縮したうえで、2011年(平成23年)より歩行者天国が再開されている。 また、歩行者天国実施中は事件再発防止の観点から、事件が発生した交差点への車両の進入が禁止となった。 再開は試験的なもので、期間は2011年(平成23年)6月26日までを予定していたが、2011年(平成23年)に発生した()によるやが懸念されたため一時中止 された。 その後、計画停電の影響が薄れたことや地元商店から再開の要望が多かったためより歩行者天国が再開された。 公的機関 [ ] 警察のパトロール強化 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年10月) (当時)は、に対し、事件の再発防止策の検討を指示した。 事件後、秋葉原周辺には防止のため、警視庁・万世橋警察署の制服や私服警察官、・の職員が多数配置されており、による巡回、不審者に対してはを随時実施している。 犯罪予告への対応強化 [ ] 事件後、複数のでは殺人などの犯罪予告が相次ぎ、7月7日までに33人を検挙した。 事件前は月に2,3件だったが、事件後1ヶ月で100件以上になっている。 このほとんどが10代と20代で、供述内容などからそのほとんどがいたずらとされているが、実行の意思とは関係なく、このような行為はやに該当する。 小学生や中学生が行ったものもある。 また、通り魔事件や犯人に対して言及したものも一定数みうけられる。 警察庁は6月24日に、全国のに電子掲示板への犯罪予告の書き込みを厳正に取り締まり、検挙例を積極的に広報することなどの通達を出した。 事件発生から4日後の6月12日、により犯罪予告情報共有『』が作成された。 銃刀法の改正 [ ] この事件の影響を受け、は刃物の所持規制強化を検討すると述べた。 その後、(平成21年)に(銃刀法)が改正された。 内容は「刃渡り5. 5cmの剣が原則所持禁止」が主となっている。 これによりカキの殻むきナイフの一部なども違法にあたると発表され、各業界で混乱を招いている。 カウンセラーの派遣 [ ] 千代田区は、要望があれば区内の全小中学校に子供達の精神ケアを行うを派遣することを決めた。 民間 [ ]• や、においてダガーの販売を全面中止。 への出品も全面禁止となった。 はにで放送予定であったテレビドラマ『(7) 〜時〜』にひき逃げや人が刺されるシーンがあり、事件を連想させるとして放送を自粛すると発表し、急遽、映画『』を代替放送した。 なお、『〜時〜』は2008年9月15日に放送された。 ゲームソフト『』の発売記念イベントが秋葉原を含む都内3ヶ所でに行われる予定であったが、この事件(公式発表では「諸般の事情」)により中止となった。 秋葉原店も事件を受けて営業を中止した。 しかし同店舗ビルの8階において、の公演は予定通り行われた。 制作の特撮テレビドラマ『』では番組中に登場する武器「ロケットダガー」の呼称を当分自粛 、メインスポンサーであるは、同武器の玩具の発売直前に商品名を「スイッチ噴射剣ロケットダガー」から「スイッチ噴射剣ロケットブースター」に急遽変更 し、パッケージと説明書の作り直しのため発売が延期された。 『ダガー』の名称が本事件に用いられた凶器を連想させるための配慮である。 呼称の自粛は同年度の冬ごろには解除されている(劇中の武器名は変更なし。 ただし、3年後の『』で登場した際には変更されている。 監視カメラの設置 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年10月) 窃盗事件や殺人、拉致監禁事件、通り魔事件やそれらの下見など、犯罪の手段として使用されやすいの貸出要件の厳格化(大型のを借りる際には、による決済を必須事項に加える)を行う動きが見られた。 車両が事件に使われたレンタカー会社は後日、追悼の意を表明する旨を公式のトップページに掲載した。 なお、トラックにはねられて死傷した5名についてはが適用され、自賠責による賠償範囲を超過した部分については「運転者が故意に発生させた事故」であるものの、運行供用者責任を負う立場であるレンタカー会社の故意ではないため、任意保険部分についても補償の対象とされた。 事件の反響 [ ] 報道 [ ] の昼食時間帯に一般市民を巻き込んで発生した重大事件であったため、主要が大きく報道した。 また、国外のメディアも速報で伝えた。 事件の最初の速報では死者は2人だったが、速報が入るにつれて死者の数が増えて行った。 インターネット上における反応 [ ] 加藤が非正規労働者であった事、また掲示板での孤独な人物像から、上の一部で、加藤を英雄視する見方が発生した。 この見方においては、加藤に対して 「犯人は神」「の英雄」「に対して事件を起こすことで一矢報いた」「犯人は我々のスケープゴートとなった聖人」などと語られた。 しかし、公判で加藤本人の供述が進み、考えられていたものとは異なる動機や人物像が明らかになるにつれ、そうした好意的・同情的な見方も薄れていった。 献花台の設置 [ ] 献花台の様子(2008年6月14日) 事件を受け、事件現場の交差点そばの秋葉原本館側の歩道に、仮設テントつきの献花台が設営された。 犯人の世代 [ ] この事件の犯人は、(平成9年)のの犯人(酒鬼薔薇聖斗・逮捕時14歳)や(平成12年)の(ネオむぎ茶・逮捕時17歳)を始めとする一連のでと呼ばれた世代(同学年・ - 生まれ)と同じだったことから、「理由なき犯罪世代」として世代論について語られた。 また、西鉄バスジャック事件とはインターネットでの犯行予告という共通点もある。 ただし、この世代の犯罪率が特段高いというデータはいまだ存在せず、世代と事件の関連性は不明である。 影響を与えた事件 [ ]• - 2010年(平成22年)、広島市南区の本社宇品工場にて犯人が12人の従業員を次々とはね、1人が死亡、11人に重軽傷を負わせる事件が発生。 犯人は「マツダに恨みがあった。 秋葉原のような事件をおこしてやろうと思い、工場内で車を止めて振り回すつもりで包丁も持っていった」と供述したと判明。 - 2016年10月、72歳の犯人が家庭内不和を悲観して起こした、一般市民を巻き込む連続爆破事件。 犯人はネット上に「秋葉原無差別殺傷事件のような事件を起こしたい」という趣旨の書き込みを行っていた。 この事件を題材とした作品 [ ]• (平成24年)3月に監督・脚本、主演の映画「」が公開された((平成23年)11月ので特別招待作品として上映)。 この事件で電機オタクだった恋人を失った女性が人との関わりを通じて立ち直っていく姿を描いた作品で、廣木は「衝撃的な事件だったのに、時間の経過とともに話す人が少なくなってきた。 映画にすることで永遠に残したかった」と企画意図を述べている。 3月15日に監督・脚本、主演の映画『』が公開された。 事件の犯人をモデルに派遣労働者が社会の中で追い詰められていくさまが描かれる。 3月に監督・脚本、主演の映画『』が公開(2017年に完成し、などの映画祭でも上映)。 事件から8年後が舞台となっている。 テレビ番組 [ ]• 平成ニッポンの瞬間映像30()にて再現ドラマ - 放送• 事件の涙() - 放送 起訴および裁判 [ ] 3ヶ月にわたるの結果、「完全なあり」との鑑定結果が出されたことから、はから被害者や遺族への通知を開始し、に加藤を、殺人未遂、、違反でのに踏み切った。 にはに入ることが決定され、翌(21年)には第1回公判前整理手続が行われ、弁護側は起訴事実を大筋で認めた。 第一審・東京地裁 [ ] (平成22年)、にて、による第一審の初()が開かれた。 同日、加藤は事件発生後、初めて公の場に姿を現し、において起訴事実を認めた。 からは責任能力に疑問がある旨の冒頭陳述があった。 なお、この裁判は施行前に起訴された事件で、裁判員裁判の対象外である。 東京地方裁判所ののみで審理し、判決が出た。 (平成23年)、第28回公判の求刑で、検察は加藤に対して「犯罪史上まれに見る凶悪事件で人間性のかけらもない悪魔の所業。 多数の模倣犯を生み悪影響は計り知れない。 命をもって罪を償わせることが正義だ」と述べ、 をした。 同年2月9日、第29回公判(最終弁論)が開かれ、弁護側は最終弁論で「死刑を科すべきではない。 人を殺すこと自体が目的ではなかった」として、死刑回避を求めた。 最終意見陳述で、加藤被告人は「今は事件を起こすべきではなかったと後悔し、反省しています。 遺族と被害者の方には申し訳なく思っています」と意見陳述し、結審した。 同年、判決公判が開かれ、村山裁判長は、加藤被告人に求刑通り 死刑を言い渡した。 では完全責任能力、比較的軽傷だった被害者への殺意、制服警察官に対する公務執行妨害罪について検察の主張通りに認定した。 直接的な動機としては掲示板荒らしに対する抗議の表明 、根本的な原因としては不満に対して多様な観点から熟慮せず、話し合いで解決しようとせず、自分の意思を相手に分からせるために、直接的行動で相手の望まないことをしたり、相手との関係を遮断したり、暴力を行使する考え方 、間接的な原因として母の養育方法が前記のような加藤の人格形成に影響を与えたと認定された。 控訴審・東京高裁 [ ] (平成24年)6月、被告人・加藤のによりで控訴審第一回公判が開かれ、死刑回避を主張した。 2012年9月12日に判決公判が開かれ、東京高裁(裁判長)は「被告人・加藤は犯行当時、完全責任能力を有していた」として、第一審の死刑判決を支持し被告人・加藤の控訴をする判決を言い渡した。 加藤は控訴審に一度も出廷しないまま結審することとなった。 弁護人は同年9月25日付で「加藤被告人にはの疑いがあり、死刑判決は不当である」と主張してへした。 上告審・最高裁第一小法廷 [ ] (平成26年)、最高裁判所第一()で上告審公判が開かれた。 側は「被告は事件当時、心神喪失もしくは心神耗弱だった疑いがある。 死刑判決は破棄されるべきだ」と主張、検察側は上告棄却を求めて結審。 (平成27年)に上告審判決公判が開かれ、最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は「動機に酌量の余地は見いだせず、死刑を認めざるを得ない」として、一・二審の死刑判決を支持して加藤被告人・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡した。 加藤は判決を不服として最高裁第一小法廷判決の訂正を申し立てたが、同月17日付で同小法廷の決定により棄却されたため、同日付で死刑がとなった。 その後 [ ] 2012年7月、加藤が事件について述べた『解』がから出版された。 その後2014年までに合計4冊の著書が出版されている()。 2014年2月、加藤の弟が自殺。 享年28歳。 その1週間前にの記者へ手記を送り、加害者家族としての苦しみを伝えていた。 2014年7月、で逮捕された被告が公判で行った意見供述にて、過去に加藤の著書を読んでおり、事件後に動機が理解できる様になったと語った。 8月、この供述を読んだ加藤は、に全文を掲載していたに見解を送り、その内容が公開された。 加藤は死刑確定翌年の2016年5月10日付で東京地裁に請求を申し立てている。 (平成30年)10月1日時点で 加藤はに。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 当初、凶器はと報道されたが、殺傷に使用されたのはである。 このほか、、、1本がトラック内から発見されている。 中の6月17日すなわち事件の9日後に、の加害者である死刑囚・に対する死刑が、において執行された()。 比較的早期の死刑執行については、この秋葉原事件にからめての議論が存在する。 J-CASTニュース. 2008年6月17日. の2018年1月24日時点におけるアーカイブ。 加藤は仙台市の事件現場の近くに住んでいたことがある• このミリタリー輸入雑貨店は10日間販売を自粛した後で福井市の実店鋪での対面販売を止めて、インターネット通信販売を再開したが、後に閉店している• 当人はより大きな車両を借りたいと考えていたが、借りるにはが必要であり、当人は所持していなかったため2トン車での犯行になった• 当初は5時21分に犯行予告が行われたと報じられていた• 通り魔事件が歩行者天国中止の直接のきっかけではあったが、以前より歩行者天国での過激なパフォーマンス(まで出した)やそれを取り囲むの輪、エアガン乱射等周囲の迷惑を顧みないマナー違反がたびたび問題となっていた• ・などによる、『』の昼夜公演(『涙は句読点 AKB48公式10年史』 日刊スポーツ新聞社 230頁)。 なお2008年7月1日以降、警察の指導により劇場内への荷物持込が不可能となった()。 Official Blog (2008-06-30 20:19:47)• 武器自体は登場。 事件直後に放送された数話では明らかに台詞を消したと思われる"間"がある。 ただし『ダガー』という名称自体はゲームや玩具などで以前から使われており珍しいものではなく、においても『』に登場した「プテラダガー」をはじめ、前例がいくつかある。 267• MSN産経ニュース 産経デジタル. 2010年7月30日. の2011年1月21日時点におけるアーカイブ。 MSN産経ニュース 産経デジタル. 2010年8月4日. の2011年1月19日時点におけるアーカイブ。 asahi. com 朝日新聞社. 2008年6月10日. の2008年6月13日時点におけるアーカイブ。 2013年6月24日閲覧。 GIGAZINE 2008年6月8日. 2008年7月19日閲覧。 ASCII. アスキー・メディアワークス. 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フジテレビ 老人火あぶり致死事件……テレビ史上、最も残忍で、最も怖ろしい事件が起きていた…

は れ の ひ 事件

少年誘拐殺人ホルマリン漬事件 少年誘拐殺人ホルマリン漬事件 【事件概要】 1957年4月2日、東京・中野区の中学1年の少年(12歳)が銭湯に行ったまま行方がわからなくなり、2日後に身代金を要求する脅迫状が届けられた。 4月9日、少年と銭湯で知り合った男(当時26歳)が殺害し、バラバラにしていたことが発覚した。 2日夜、区立中学1年生の息子A君(12歳)が「風呂に行く」と出たまま帰っていなかった。 主婦がすぐに警察に届けなかったのには訳があった。 すでに離婚していたとは言え、A君の父親が当時有名だったプロレスラーであり、「アメリカでプロレスを学ぶ」と言って行方不明となっていたからである。 まもなく失踪届が出され、失踪宣告の期限が過ぎたため自動的に離婚が成立した。 そんなことがあり、主婦は警察沙汰になればスキャンダルになるということを恐れていたのである。 主婦は夫が出て行った後、板橋で旅館を経営していたが失敗しており、家を売却して3月下旬に中野に引っ越してきたばかりだった。 脅迫状を見た母親はすぐに野方警察署に届け、犯人の指示通りに埼玉県の鶴ヶ島駅まで出向くことにした。 もちろん近辺に刑事が張り込んでいたのだが、犯人は現れなかった。 2通目の脅迫状も届くことはなく、捜査は行き詰まりを見せた。 A君と銭湯で一緒になった同級生は事件の数日前に、彼が30歳くらいの丸顔の男に背中を流してもらっていたのを目撃していた。 A君は後で同級生に「さっき僕の背中を流してくれたあの人に、僕は殺されるかもしれない」と笑いながら話していたこという。 この直後にA君の行方がわからなくなっただけにきわめて重大な証言であったが、男の特定はできなかった。 【発覚】 4月9日、中野署に南多摩郡(現・多摩市)の都立桜ヶ丘保養院の精神科医から電話が入った。 中野区に住む患者の自宅に、バラバラの少年の遺体があったという言うのである。 中野区桜山町(現・東中野3丁目付近)に住む日本棋院七段名人の長男・林邦太郎(当時26歳)は精神を病み、桜ヶ丘保養院に5年入院していたが、自宅で療養していた。 ところが4月4日ごろから再び精神状態が不安定となり、6日から再入院した。 診断の最中、林は異常な言動を繰り返したため、不審に思った医師はこの日林宅を訪問。 家族とともに林の四畳半の部屋に入ると、室内に血痕が散らばっていた。 畳をあげて床下を調べてみると、大型の金魚蜂と熱帯魚用の水槽が2つずつあり、金魚蜂には頭部と両足、水槽には胴体と両腕が収められていた。 さらに蓋をパテで密封し、ホルマリン漬にしてあった。 医師はこれを見て警察に通報したのだった。 警察が林宅に急行したところ、バラバラ死体はもちろん本物で、A君のものであることわかり、林は逮捕された。 【理想の少年】 林は明治大学商学部を卒業し、しばらく中野区立図書館でカード整理のアルバイトをしていた。 働きぶりは真面目だが、通りすがりの男の子らをいきなり抱きしめたり、家に連れ込んで暴行を加え、泣く様子を眺めて楽しむなど、近所の人からは変質者と思われていた。 猫に対しても同様の愛情を持っており、多いときで20匹、事件直前は12匹の猫を飼っていた。 だがその12匹を皆殺しにし、バラバラにして、半分ほどは食べてしまった。 そして刃物類にも興味を持っており、小刀、短刀、包丁、剃刀などを収集していたりもした。 4月1日、林はノートの最初のページに次のようなことを書いた。 ついに捜し求めていた理想の少年を見つけた。 住所・氏名を聞いた。 必ず連れ出そう。 同級生に「殺されるかもしれない」と言ったことからA君は銭湯で会った林に脅威を感じていた。 だがなぜか男と「明日会おう」という約束を交わしてしまい、彼の家までついていってしまった。 少年を家に連れ込むと、林は両親に「銭湯に行け」と家から追い出した。 A君の服を脱がせて裸にしようとしたが、嫌がったため、殴った。 A君は鼻血を出して倒れたが、起き出したところを玄関に叩きつけて殺害した。 遺体は2日がかりでバラバラにした。 この頃のことをノートには次のように書いていた。 4月3日、ちょっとイタズラしたくなった昼過ぎ、こどもが欲しければ15万持って鶴ヶ島駅へ来いと書いたはがきをポストに入れた。 それから渋谷に行き熱帯魚を撃っている店でガラス容器を4つ買った。 今夜も徹夜で死体の処理をしたが、父や母は気づかなかった。 そしてA君の様子について書いた大学ノートの最後のページにはこう記されていた。 金魚蜂に入ったあの子は、見ても見ても飽きるということがない。 ホルマリン漬けになったあの子は生きているときより、いっそうかわいい。 親父たちがいるから、もったいないけど昼間は床下に隠す。 でも隠す前には必ずサヨナラを言うんだ。 でも、別れの旅に、つらい・・・ 林は精神鑑定を受けたが、「責任能力は認められる」とされ、58年7月16日に懲役10年の判決を受けた。 その2年後に週刊誌に「模範囚として過ごしている」と消息が報じられたという。

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