愛にできることはまだあるかい歌詞。 #27. 『愛にできることはまだあるかい』 (English Version) 和訳|Takafumi Ito|note

愛にできることはまだあるかい/RADWIMPSの歌詞

愛にできることはまだあるかい歌詞

【天気の子】RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」歌詞の意味や解釈とは? 今回の主題歌「愛にできることはまだあるかい」の歌詞の意味や解釈を確認していこうと思います! 現時点で確認できる歌詞は以下の通り、 愛にできることはまだあるかい? 僕にできることはまだあるかい? 相手に対しての気持ちを歌った歌詞で穏やかな曲調に優しい歌い口がとても旨に響いて来ます。 この歌詞には一体どういう意味が込められているんでしょうか? 作品のあらすじとしては 離島から家出し東京にやって来た男子高校生・ 帆高が、祈るだけで空を晴れにできる不思議な能力を持つ少女・ 陽菜と出会うラブストーリー。 引用:ウィキペディア といった内容になっています。 ここで重要なのが 主人公の男子高校生帆高が家出して東京に出てきている状況ですね! 更に新海誠監督も制作発表会見で 『天気の子』は、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年・森嶋帆高、少女・天野陽菜が自らの生き方を「選択」し、2人だけが知っている世界の秘密についての物語。 引用:制作発表会見 と話されていきます。 この設定からしても帆高の陽菜への気持ちとも考えられますし、 逆に陽菜の帆高への気持ちとも受け取れますね! 更に詳細のストーリー設定を確認すると、 森嶋帆高(声・醍醐虎汰朗)は、高校1年生の夏の日、自身が暮らす 離島から家出して東京にやってきます。 しかし生活力の乏しい高校生なので、生活ができなくなってしまいます。 知り合いのいない東京で、 困窮に陥る中孤独な毎日をおくっていました。 やっとのことで見つけた仕事は、怪しげなオカルト雑誌のライター業。 そしてそんな帆高の状況を表すように毎日降り続ける雨。 そんな中で、帆高は一人の少女に出会います。 ある事情を抱えて 弟とふたりで暮らす陽菜(声・森七菜)は明るくてたくましい少女です。 陽菜は不思議な能力を持つ少女で 陽菜が 「ねぇ、今から晴れるよ」というと雨が止んで空が晴れます。 天候の調和が狂っていく時代に、 運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」する物語。 という設定になっているそう。 このことからも、今回の主人公の男の子も女の子もいわゆる世間からは隔離されてしまった状況で必死に生きていることが伺えます。 そんな二人はおそらく お互いが人とのつながりを強く求めているのではないでしょうか。 そんな中で出会った二人は恋に落ちます。 そして二人は 「二人しか知らない世界の秘密」を共有しかけがえのない存在になっていくのではないでしょうか。 愛にできることはまだあるかい? 僕にできることはまだあるかい? の歌詞には自分ではなくかけがえのない相手に向けて自分のすべてを捧げている とてもストレートに愛を歌った歌詞に聞こえますね! 作中の二人は設定として強調されていますが、 現実でもすべての人が他の誰かとの強いつながりを求めていますし、 そして、すべてのカップルや夫婦の間には「二人しかしらない世界の秘密」のような二人にしかない何かを持っていると思います。 きっとこの歌詞は作中の二人だけではなく、 すべての夫婦やカップルにとっても共感できる内容になっているのではないかと思いました! ー追記ー 【天気の子ネタバレ】RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」歌詞の意味や解釈・感想! ここからは天気の子を見ての歌詞の意味や解釈を書いていこうと思います! 一部ネタバレがありますのでもし映画を見ていない方がいらっしゃいましたらご注意ください! 1番は帆高がみる世界とそこで生きている陽菜への心情 歌い出しの歌詞は 何も持たずに 生まれ堕ちた僕 永遠の隙間で のたうち回っている と言う歌詞で始まります。 この歌い出しは映画の序盤映画では帆高は自分が住んでいる島から家出をして東京に出てきた心情を歌っていると思います。 帆高は家出の理由は語られませんが、島での生活に疑問を持ち出てきたと考えられます。 それは作中の序盤に帆高が「ライ麦畑でつかまえて」を持って状況してきたことからも伺えます。 ライ麦畑でつかまえて J・D・サリンジャーによる長編小説。 主人公のホールデンは社会や大人の欺瞞や建前を唾棄し、その対極として、フィービーやアリー、子供たちといった純粋で無垢な存在を愛し、その結果、社会や他者と折り合いがつけられず、孤独を深めていく心理が描かれている。 帆高の「現状と自分の心情に折り合いがつけられない」状況を歌っているとお思います。 それから帆高は東京で生活する為に仕事を探し始めますが、 高校生で身分証も何もない少年を雇ってくれるところはありません。 確かに帆高は東京にいて、周囲もそれを認識しているのにまるで帆高の存在を認めないかのように時間は過ぎています。 歌詞の中でも 諦めた者と 賢いものだけが 勝者の時代に どこで息を吸う と言う歌詞が帆高の心情を映し出していると思います。 諦めて社会との折り合いをつけたもの、賢く立ち回ったものが勝者で、 帆高のように諦めずバカにされながらも自分を貫くものはまるで敗者のようです。 勇気や希望や 絆とかの魔法 使い道もなく 大人は目を背ける また、この歌詞が示すようにそんな帆高を大人たちは無視しています。 帆高は孤独を強めていくことになります。 そんな帆高が出会ったのが マクドナルドでバイトをするしていた陽菜でした。 陽菜は周りの大人たちと違い帆高にこっそりハンバーガーをあげて 帆高を助けます。 帆高もそのハンバーガーの味を「生きてきた中で一番美味しかった」と語っています。 しかし、物語が進むにつれて陽菜が母親を無くし、 弟と二人で生きていること、生活に困っていることを知ります。 世界が背中を 向けてもまだなお 立ち向かう君が 今もここにいる この歌詞は陽菜が諦めずに生きている姿を歌っており、 サビの 愛にできることはまだあるかい 君にできることはまだあるかい に続いていきます。 2番はどうしようもない世界への戸惑い 二番に入ると世界の不条理が歌われます。 運命とはつまり サイコロの出た目? はたまた神の いつもの気まぐれ この歌詞は陽菜が天気の巫女として選ばれたことへの疑問を歌ているのだと思います。 そして、天気の巫女は空を晴れさせるために 人柱として神隠しにあう運命にあることがわかります。 陽菜がいなくなってしまうかもしれないとわかった時 二人は「ずっと一緒にいよう」と約束します しかし、その二人の願いは叶わず陽菜は消えてしまいます。 陽菜を取り戻したい帆高ですが、 家出をしてきたことや銃を所持しているかもしれないという疑惑から警察に補導されます。 果たさぬ願いと 叶わぬ再開と ほどけぬ誤解と 降り積もる憎悪と この歌詞はこの時の帆高の心情そのものだと思います。 陽菜との果たされなかった約束や いくら言葉を重ねてもわかってくれない警察に 陽菜のおかげで晴れたにも関わらずそれを知らずに喜ぶ大人たち 世界の不条理に憤る帆高の心情が歌われています Cメロは帆高の決心と選んだものへの確信 最後のCメロは物語の終盤の帆高の心の動きを歌っていると思います。 陽菜を助ける選択肢をとると 晴れがこない雨だけの世界になってしまいます。 何もない僕たちに なぜ夢を見させたか 終わりある人生に なぜ希望を持たせたか この歌詞にあるように 帆高は自分が陽菜に進めた晴れ女の仕事が、結局陽菜を消してしまう羽目になったことを またそれ以前に現実から逃れるために島から出てひなに出会ってしまったことを 陽菜が消えたことで晴れたのに周囲は誰もそれを知らないことを悲観します。 なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか それでもなおしがみつく 僕は見にくいかい それとも、きれいかい しかし帆高はただ陽菜に会いたい、助けたいと言う思い警察から逃げ出します。 この歌詞は必死になって陽菜を助けにいく帆高の姿を歌っていると思います。 映画の最後ですが、 帆高は陽菜を助け出すことに成功します。 しかしそれとともに世界はまた雨ばかりになってしまいます。 帆高はまた補導され、 保護観察として高校卒業までの三年間島で大人しく過ごすことになります。 その間陽菜とは連絡を取っていません。 三年後帆高は大学進学とともに東京に引っ越します。 その時帆高は世界を「雨がやまない世界」にしてしまったことが本当によかったのか悩んでいます。 陽菜にあったらなんと言おうか悩んでいます。 しかし、陽菜に会った瞬間自分は間違いなく「この世界を選んだんだと」 「陽菜がいて雨が止まない世界を選んだんだ」と確信します。 帆高は陽菜に「僕たちはきっと大丈夫だ」と確信を持って伝えます。 歌詞の最後にはそれまで 愛にできることはまだあるかい 僕にできることはまだあるかい と聞いていたものが 愛にできることはまだあるよ 僕にできることはまだあるよ と確信を持っている歌詞に変わります。 帆高が陽菜にできることをしたいと考えて、陽菜に天気の仕事を勧めて手伝った前半とは違い、 例え雨ばかりの世界でも陽菜がいる世界を選んだ今だから確信を持って 愛に、自分にできることはまだあると歌っているのではないでしょうか?.

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RADWIMPS『愛にできることはまだあるかい』歌詞の意味と内容を考察|Moriの音楽ラボ

愛にできることはまだあるかい歌詞

耳コピでの書き起こしのため間違いがあるかもしれません。 映画「天気の子」は、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女を描いたストーリーです。 主人公の少年と少女が、そんな時代と運命に立ち向かい自分たちの生き方を選択していくのですが、こんな時代でも• 愛にできることはまだあるのか?• 僕にできることはまだあるのか? 天候の調和が狂っていく時代に、主人公の気持ちを表現しているかのようですね。 日本も平成が終わり、「令和」という新たな時代を迎える全ての世代に問いかけられているテーマなのかもしれません。 今の時代に「愛」が「僕(自分)」にできることは何か? ~追記~7月19日~ 『愛にできることはまだあるかい』がフルサイズのPVが公開されたので、歌詞の内容を考察していきます。 生まれてきて悩みや苦しみを表現しているかのようです。 夢や希望を諦めた人やしたたかな人が生き残る、そんな息苦しい時代の中で安らげる場所は何処にあるのか? そんな問いかけをしているように感じました。 救ってくれるはずの存在は、僕らには手を差し伸べない。 大人たちは勇気や希望、絆を心の奥底にしまい目を背けるけど、僕の心の中心には君が存在している。 希望を持ちづらく純真が生きづらい時代に、 僕にとっての心の支えはあの日の君なんだと訴えているように思えます。 世界に愛されなくても、苦境に対峙しているあの日の君が僕の中で生き続けている。 そんな印象を受けました。 「僕」が「君」に惹かれた部分なのかな、と思う歌詞ですね。 「僕」にとって「君」が、どれだけの存在だったのかが分かる部分だと思います。 そして、「君」は僕にとって唯一無二の愛する人だったのでしょう。 ここの歌詞のパートは、「僕」の葛藤が見て取れます。 願いが果たせなかった• 再会できなかった• 誤解を解くことができなかった そんな運命は偶然なのか何かの意志が働いたのか・・・ 「僕」が「君」とすれ違ってしまった嘆きのような部分に感じます。 ここの歌詞にある憎悪は、誤解から生じた「君」に対しての「僕」の怒りなのか、それとも運命に対しての怒りなのか。 色々な解釈ができそうな歌詞パートだと思います。 また仲が修復され「僕」の心の平穏が訪れ。 そんな心の揺れが激しい日があっても毎日はいつもどおり過ぎていく。 そんな風に感じました。 前に出てきた歌詞と同じようなパートですが、3行目だけ違います。 君と分け合った愛から君と育てた愛へと「僕」と「君」の愛の表現が変わり、 関係や愛情の深さが進んだ状態なのではないでしょうか。 勇気も希望も絆すら持てない時代に、なぜ触れれば崩れるような儚い想いを抱かせたのか。 でもそんな 「僕」と「君」の想いを大切にしようと、必死にもがいている僕たちは世界はどう見ているのか、問いかけているのではないでしょうか。 愛が表現され尽くして、手垢が付きまくった世界に生まれてきた「僕」や「君」だけど・・・ それでも、愛にできることはまだあるし、「僕」が「君」にできることはまだあるよ。 『愛にできることはまだあるかい』のサビとして、ずっと「愛や僕にできることはまだあるか?」と問いかけているような表現でした。 でも最後に 愛にも僕にもできることはある と、問いかけのアンサーとして締めくくっています。 」のときもそうでしたが、映画「天気の子」の主題歌(劇中歌)も一つではないようです。 映画「君の名は。 」のときは• 前前前世• スパークル• 夢灯籠• なんでもないや の4曲が主題歌という扱いで、どれも大ヒットした曲で映画「君の名は。 」のイメージを作りましたよね。 今回もRADWIMPSが、『愛にできることはまだあるかい』の他に、数曲が主題歌となりそうです。 【RADWIMPS コメント】 今回、新海誠監督の『天気の子』で音楽監督を務めさせて頂きます、RADWIMPSです。 2017年の夏、不意に監督から「脚本を読んでもらえませんか?」というメールを頂きました。 僕は「喜んで読ませて頂きます」と返事をしました。 そこから僕たちの『天気の子』の物語が始まりました。 現在も鋭意制作中です。 前作以上にストーリー作りの場にも参加させて頂き、強固なチームワークの中で作品作りができている喜びを感じています。 恐らくそんじょそこらのカップルよりも頻繁に、毎日毎日新海さんとメールのやり取りをしながら作業を進めています。 新海監督は最初に仕事をした時と何も変わらず、誰よりもまっすぐに純粋に頑固に、時に不器用に作品と向き合っています。 そして各セクションのスタッフが目下全力でそんな監督を支えています。 再び新しい冒険をご一緒させて頂けることを誇りに思います。 たまに心折れそうにもなりますが、(劇中に登場する)帆高や陽菜の懸命さに負けないよう自分ももがきながら作っています。 この映画を観てくださる皆さんの中に、晴れやかな気持ちが広がりますように。 ぜひ、楽しみにしていて下さい。 【新海誠監督 コメント】 『君の名は。 』公開からちょうど1年となる2017年8月26日に、書き上がったばかりの『天気の子』の脚本を洋次郎さんに送りました。 最初は音楽オファーのつもりでもなかったのですが、この脚本から洋次郎さんの頭の中にどんな音が聴こえてくるのかを、個人的にどうしても知りたかったのです。 その後『愛にできることはまだあるかい』を受け取って、「これは作るべき映画になる」と強く思えました。 RADWIMPSとふたたび一緒に映画を作るにあたって最初に話したのは、「お互い初めましての気持ちでやりましょう」ということと、「前回とは違うことをやりましょう」ということでした。 同じことはやらず、でももっと面白いものを。 一度一緒に仕事をしているからこそ、僕たちは『君の名は。 』を踏まえた上で、更に良いものを観客に届けることが出来るはずだと考えました。 それは映画本編も同じです。 前作とは違うもので、でももっと驚きと昂奮の詰まった作品にすべく、今はスタッフ全員で奮闘しています。 あたらしい物語と音楽を、楽しみにお待ちいただければとても嬉しいです。 引用: 最後に 映画『天気の子』の主題歌のひとつ、RADWIMPS『愛にできることはまだあるかい』の歌詞の意味と内容を考察しました。 記事作成時点で、まだほとんど曲が公表されていないのですが、映画『天気の子』のために書き下ろした曲です。 なので、 映画『天気の子』の世界観やメッセージが強く入った歌詞の内容だと思われます。 聴くことができるのはまだ1フレーズだけですが、それだけでも曲の雰囲気は伝わってきますよね。

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RADWIMPS 愛にできることはまだあるかい 歌詞&動画視聴

愛にできることはまだあるかい歌詞

前作『君の名は。 』以上に密接なやり取りがなされたようで、『天気の子』の脚本をVo. 野田洋次郎が読んだ後に書いた楽曲だという。 そしてこの曲を聴いて、新海監督も作品のテーマを明確に認識出来るようになったそうだ。 当然内容と曲がリンクしてくることになる。 では、この謎に満ちた楽曲のテーマとは? 愛を信じる非常識 「愛にできることはまだあるかい」で綴られるのは、愛が語りつくされた現代の世情。 子供の頃信じていた綺麗事は全て役に立たなくて、そんなものに頼る大人はまともじゃないと指をさされることもわかってて。 それでも君と育んだ愛だけを信じて生きる男。 心の中にいる子供のままの君が、僕を導くからこそ、常識から逃れられる。 離婚率は30%を超え、愛なんて実在するのかも怪しくなってきた令和元年。 野田洋次郎が見つけたフレーズは、消極的な問いかけである。 「愛に出来ることはまだあるかい」は、愛に半信半疑な現代人へと問う。 では愛に出来ることとは何か。 そしていつか失われる愛を、人はなぜ求めてしまうのか。 問いかけの相手は 終盤、野田洋次郎は人間の儚さを誰かに問いかける。 淡雪のように消えていく愛、そして全てを奪い去る死、それらを与えた神に問うのである。 愛を求め死を恐れ、もがく人間を眺めながらそしらぬ顔の神に。 あるいは、自然の摂理そのものに。 語りつくされた愛に出来ることは 野田洋次郎が力強く「ある」と断言する、愛に出来ることとは何なのか。 その 答えは主題歌として提供された『天気の子』に用意されていると考えるべきだろう。 大きなネタバレになってしまうため、この先を読む方は注意してほしい。 一つだけ言えることは、決して誰もが思いつかないような奇想の類ではない。 むしろ普遍的で、ある種誰もが知っていることである。 これまでの映画とは違う形で愛を描き切った「天気の子」、その中で愛は何を成し遂げたのか。 まだご覧になっていない方は、劇場で要チェック。 以下ネタバレ含む 【ネタバレ注意】その答えは 新海監督が『天気の子』で描いた愛は、 究極の利己主義である。 言い換えれば、 自分 たち さえ良ければ良いやという考え方だ。 愛することは、その相手を何よりも優先するということだ。 作中で娘のために須賀が帆高を見捨てたように。 そして帆高が陽菜のために、東京を水の底に沈めたように。 例えば多くの映画では、愛する人を救うために自分の命を投げ出す人物が描かれる。 そしてその行動が結果的に世界を救うことになる、というのがよくある流れだろう。 「愛に出来ることはまだあるかい」の後半の歌詞に出てくるのも、こういった映画だ。 野田洋次郎が感じ取った『天気の子』の面白さは、こういった映画とは真逆といえるストーリーだろう。 全体最適もなにもかもすっ飛ばして、 世界を滅ぼしかねない選択をしても、愛する人を優先するという選択。 こんな形で愛を語る映画はあっただろうか。 この映画に描かれた愛は決して世界を救わない。 誰にも称賛されない。 ただ、愛する人を救うだけである。 終盤、須賀は帆高に語り掛ける。 「この世界は元々、狂っている」と。 その裏に透けるメッセージは「狂っているからこそ、青年よ、自由に生きろ」ということだろう。 ならば愛に出来ることは世界を救うことではなく、 人を常識の鎖から解き放ち、自分勝手に生きさせることなのである。 それが普通の人から見れば狂っていることだとしても、「それでいいんだ」と新海誠と野田洋次郎は強く肯定するのだ。

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