ものの あはれ 意味。 エモいの意味は?古いとされる理由もわかりやすく簡単に解説!

無常観と「もののあはれ」の美

ものの あはれ 意味

接頭語の「もの」については「なんとなく」と訳するのが 概ねぴったりして、No. 1の答え通りですが、 接頭語の「うち」はやや複雑です。 1.意味のない「うち」もあります。 たごのうらに うちでてみれば ましろにぞ・・・・ この場合は単に「出て見れば」の事です。 2・すっかり、とか全く、という意味もあります。 ・・家はうち絶えての場合は、「全く絶えて」と訳します。 うちくたびれては、「すっかりくたびれて」とか 「くたびれ果てて」と訳します。 3・一面に、全体に、の意もあります。 霧がうちおほふは、「霧で一面におおわれ」と訳します。 4.ふとその行為が行われるとの意もあります。 うち聞いたところでは、の場合は 「ふと聞いたところでは」とか「小耳に挟んだところでは」 と訳します。 2,3は強調の意で4.は逆です。 難しいものです。 「うちかをり」は3の意味でしょう。 「一面に香り」とか 「一面に香りがたちこめ」のような訳です。 角川「古語辞典」参照 #3です。 間違えて他の質問に対する回答を投稿してしまいました。 大変失礼しました。 #1さんがほぼ完璧なご回答をされているので投稿するつもりはなかったのですが、誤投稿の謝罪ついでに(といっては失礼ですが)、補足的に述べてみます。 古語辞典を引いてみましたが、 「御子もいとあはれなる句を作り給へるを~」 「時はいとあはれなるほどなり」 などという例文があります。 同じ「あはれ」ですが、 前者は「人を【深く】感じさせる句をお作りになった~」、 後者は「時というものは【非常に】さびしさを感じさせる~」といったような意味になるのでしょう。 この2例は「いとあはれ」なので「とてもあはれ」という、「あはれ」を強調した文ですが、 これを「ものあはれ」に置き換えると、 前者は「人を【いくらか】感じさせる句をお作りになった~」、 後者は「時というものは【どことなく】さびしさを感じさせる~」といったような意味になると思います。 このように、#1さんのおっしゃる意味さえ掴んでおけば、それぞれのシチュエーションにおいて適切な訳が可能になることでしょう。 「うちかほり」の場合も同様で、「強く香る」「きつく香る」「しっかりと香る」などなど、場面に応じて色々な訳ができることになります。

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十 宣長が「もののあはれ」を言い出さなければならなかった理由について。

ものの あはれ 意味

高校入試の古文で最もよく意味を問われるのが「をかし(おかし)」と「あはれ」です。 どちらも心が強く動いた時、感動した時に発する言葉ですが、意味や使い方に違いがあります。 まず「をかし」について述べます。 「をかし」は「面白い」とか「趣がある」と訳しますが、この面白いは、おかしくて笑ったときの面白いとは意味が違います。 知的な楽しさでの面白いです。 頭脳が「なるほど!ほう、これは面白い!」と判断し、心がわくわくした時に使うのが「をかし」です。 たとえば、一休さんのとんち話で「この橋、渡るべからず(この橋を渡ってはいけない)」という立札が橋のたもとに立ててあったとき、一休さんが橋の中央を堂々と渡り、それをとがめられて「端を渡ってはいけないとあったので、橋の真ん中を渡りました」と答えたときの「なるほどなあ!」と感心する面白さです。 また、をかしの代表的な文学として清少納言の「枕草子」があります。 枕草子には「いとをかし」のフレーズが随所に出てきます。 有名な「春はあけぼの」の段 夏は夜。 月の頃はさらなり。 闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。 雨など降るもをかし。 秋は夕暮れ。 夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。 まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。 この文章にも、「をかし」が何度も出てきます。 これを現代語に訳すときは「面白い」という意味よりも、「情趣がある」とか、「趣がある」と訳すのがしっくりいきます。 清少納言は、「蛍」「夏の夕立ち」「秋の雁」を、季節を象徴する風物詩的なものとして受け止めています。 季節を象徴するそれらのもと、季節に彩られた自然や風景全体とのつながりに知的な楽しさを見出し、「をかし」と表現しているのです。 次に「あはれ」について述べます。 「あはれ」は「しみじみとした趣がある」と現代語に訳すのが一般的です。 現代語では「あわれ」といえば、「かわいそう」の意味になります。 古文の「あはれ」も「かわいそう」の意味もありますが、「しみじみとした趣がある」という意味になることのほうが多いです。 「をかし」も「趣がある」と現代語に訳すのですが、「をかし」と「あはれ」で「趣がある」という心の状態は異なります。 「をかし」の「趣」は「なるほどな!」という頭脳を働かせての楽しさですが、「あはれ」の「しみじみとした趣」というのは、「心が揺さぶられ、感情が動くさま」のことです。 「心情に働きかける趣」が「あはれ」なのです。 「あはれ」について、さらに詳しく説明しましょう。 私たちは、何か予期せぬものを見たり聞いたり、あるいは経験した時、あまりの思いがけなさに感情が強く動きます。 そのとき思わず、口について出る言葉が、「あはれ」なのです。 あまりの思いがけなさに感情が強く動いたとき、その心の動きを表すのが「あはれ」であるため、「あはれ」は、実にたくさんの意味を持つことになります。 たとえばどこかに旅行に出かけたとき、思いがけず満開の桜の花が咲き誇る公園を見つけたとしましょう。 こんな時に、口をついて出ることばが「あはれ」なのです。 また、幼い子が、辛い顔をして泣いているのを見かけたとします。 私たちは、心配でいたたまれなくなり、なんとかしてあげたいという気持ちになります。 この時の感情も「あはれ」なのです。 美しい女性に偶然出会い、すぐさま恋に落ちたとします。 このときの感情も「あはれ」です。 ある人の不幸な身の上話を聞き、不憫に思い、もらい泣きをしたとします。 このときの感情もまた「あはれ」です。 このように「あはれ」は、同情であれ、美しさであれ、見事さであれ、何らかの感情が思いがけず強く動いたときに使う言葉です。 そのため、「あはれ」は、さまざまな現代語に訳すことができます。 あはれは、文脈に応じて、「感動する、かわいそうに思う、悲しく思う、素晴らしいと思う、恋をする、美しいと思う」などと訳すことができるのです。 先ほど引用した清少納言の「春はあけぼの」の段を読めば、「をかし」と「あはれ」の違いが理解できると思います。 「烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。 」は、夕暮れ時、数羽のカラスが寝どころに急いで帰っていく姿に、思いがけず心が深く動くような感動をしたということです。 清少納言は蛍や夏の雨には頭脳を働かせての情趣を感じ、夕暮れの烏には心に響くようなようなしみじみとした趣を感じたのです。 また、「あはれ」の文学で代表的なものは紫式部の「源氏物語」です。 源氏物語は一言でいうと恋愛小説です。 恋愛というのは頭脳でするものではなく、心でするものです。 心が強く動くのが恋愛です。 ですから「あはれ」という語が多いのも納得でしょう。 あはれの文学とは、感動の文学というところでしょう。 最後にまとめると、「をかし」は頭脳の働きとともに湧き起こった感動や趣で、「あはれ」は、自分でも思いがけず、感情がひとりでに動いたときの、心に湧き立った感動です。

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国学者・本居宣長~「もののあはれ」の思想とは?

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本論 : 第九回「もののあはれ」の巻 口語 世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心に味えて、そのあらゆるの事の心を自分の心でありのままに知る。 これが事の心を知るということである。 物の心を知るをいうことである。 物の哀(あわれ)を知るということである。 そしてさらに詳しく分析していえば、ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。 注釈 まず、「あはれ」という言葉は、宣長によれば、「深く心に感ずる辞(ことば)」であり、後の世に、ただ悲しいことをのみ云って、「哀」という字を当てているが、「哀」はただ「あはれ」の中の一つであって、「あはれ」は「哀」の意味には限らない、としています。 そして、「あはれ」は、元は、うれしい時、悲しい時、面白い時、腹立たしい時、恐ろしい時、憎い時、恋しい時、いとしい時など、そのほか何事であっても、深く心に感じるあまり、思わず「ああー」と、言葉にもならず、発せられる「嘆息の辞」であるとしています。 つまり簡単にいえば、「もののあはれを知る」とは、「様々な事または物に触れて、そのうれしく悲しき事の心(性質情状=あるかたち)を、我が身にわきまえ知ること」ということが出来ます。 また宣長は、「紫文要領」の別のところで、「もののあはれ」について、以下のようにも述べています。 世の中にあらゆる事に、みなそれぞれに物の哀れはあるもの也。 物の哀(あはれ)という事は、万事にわたりて、何事にも其事(そのこと)其事につきて有物(あるもの)也。 これによれば、「もののあはれ」は、私たちが想像するような、人間の感情の一種ではなく、「物」が「物」、「事」が「事」としてあることの裡に相即して、この世のありとあらゆる物や事に、その固有な存在様式として、あらかじめ遍在しているものなのです。 つまり、「もののあはれ」は、人間の情感に先行して存在しているのです。 そして上記本文に、「ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。 」とあるように、「物の心、事の心」をありのままに知るのは我が「心」であり、それは心が能動的に知るのではありません。 あくまで物・事の有り様に即して、その物・事を通して具現されている物・事の心を、我が心に受動的に知るのです。 このとき心は、何か実質の詰まった実体ではなく、「空の器 うつわ 」として、物・事のありのままの受容体として機能することになります。 ところで、この刹那、心の中に瞬時に形成されるのが、宣長のいう「情」であり、それは、「あはれ」という「嘆息の辞」として結実するのです。 この「嘆息の辞」は言葉になりません。 第六回でも述べたように、自らの眼前に、物が物として、事が事として、ただただ存在しているという「奇異(くすしあやし)さ」に対する根源的驚きが、この「あはれ」という「嘆息の辞」に結実しているのです。 対象と心は一体となりながら、存在の「奇異(くすしあやし)さ」に、はっきり気づき覚醒しているので、俗に言う茫然自失の状態とは少し違うようです。 「もののあはれ」を知るとはこういうことです。 以上を少し別の角度からまとめて、この回を終わりにしたいと思います。 「もののあはれ」は、深く論じれば尽きることはありません。 「もののあはれ」を知るとは、物の持っている「性質情状(あるかたち)」を、ありのままに知ること。 そして、「物のあるかたち」は人間の認識を超えた「奇異くすしあやし)き」ものであるから、「もののあはれを知る」とは「ものの奇異(くすしあやし)さ」を知るということ。 このとき、「知る」とは、知的認識や観念・概念理解ではなく、その「奇異(くすしあやし)さ」をそのまま受容し、物の「性質情状(あるかたち)」をありのままに味わい、思わず「あはれ」という「嘆息の辞」を発するのみ。 これがそのまま「情」として結実する。 この「もののあはれ」を知るプロセスを繰り返すことにより、私たち人間が、心の奥底に根強く持っている「世の中の全てのことは、何らかの合理的な理屈によって、最終的に理解し納得できるものである」「世の中の全てのことは、私たち人間理性に納得できる次元で、何らかの意味と根拠を持つ」という、二つの漢意(からごころ)を祓い清めることができる。

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