オイル ショック と トイレット ペーパー。 なぜパニックになると、トイレットペーパーを買い占めるのか 新型ウイルスの家計への影響(花輪陽子)

【オイルショックによるトイレットペーパー騒動】なぜ買占めが起きた?新聞社のデマ?

オイル ショック と トイレット ペーパー

Advertisement 東京・足立区のスーパーで、空っぽの売り場を見ていた78歳の主婦・美子 よしこ さん。 美子さん「トイレットペーパー。 何にもないの。 本当に何にもない」 こちらのスーパーではトイレットペーパーを買えず、さらに別の店を回るが…。 「いつも通ってて、何もない」と肩を落とす美子さんだが、自宅には3パック分、あわせて、36ロールのトイレットペーパーが。 一方で、生産工場を取材すると、山と積まれた大量の商品が!? さらに、SNSには「いっぱい並んでいる光景を久しぶりに見て、なんだかうれしかったです」という書き込みも。 商品はあるはずなのに、一体なぜ、品薄が続いてるのか。 6日、取材班が訪ねたのは、東京・新宿区に住む60代の女性の家。 何と7パック、102ロールものトイレットペーパーが。 女性「物が入ってこない心配をしてた。 足りなくなった時に困るかなとは思うし」 続いて訪ねたのは、大田区に住む70代の女性。 自宅には、合計33ロールのトイレットペーパーが。 女性「ネットは結構あるみたいですよ」 ネット通販で、定期的に購入しているという。 意外にも、家庭にストックされていたトイレットペーパー。 しかし、取材班が6日、都内のドラッグストアやスーパーを回ってみると、どこも品切れ状態だった。 今なお品不足に悩む人が多い中、この店では午後2時、入荷したばかりのトイレットペーパーが店に並ぶと、わずか45分ほどで完売。 各地で続く、トイレットペーパーの品薄状態。 静岡・富士市にあるトイレットペーパー工場。 そこでは今週、大量のトイレットペーパーが次々と出荷。 24時間態勢で製造され、供給に十分な在庫があるというトイレットペーパー。 ではなぜ、各地の品薄状態が続いているのか。 担当者「メーカーから問屋さんの倉庫間の物流は変化が無い。 その謎を探るべく、埼玉・越谷市でトイレットペーパーなどを扱う運送会社に行ってみると、発注の電話が鳴り止まず、両手で受ける場面も。 紙製品の大量の配送依頼が連日舞い込み、およそ60台のトラックをフル稼働させても追いつかない状況だという。 運送会社「浅井」配送システム事業部・清野信太郎センター長「 発注が 今までの2倍ほどに増えまして、 トラックは 台数が増えないので、回転回転という形で」 さらに、配送する量が増えれば積み下ろしにも時間がかかり、「配送の限界」を超えた結果、品薄が進行する事態に。 清野センター長「出発するのが遅くなれば、あとに回った店に届かないという悪循環」 では今、街でトイレットペーパーを求める人たちは、どんな心理で買いに走っているのか。 東京・足立区のスーパーで、トイレットペーパーを探していた78歳の美子さん。 自宅に伺うと、3パック、あわせて36ロールのトイレットペーパーのストックが。 この家で暮らすのは、夫と2人の子どもの4人。 まだ十分な量があるようにも思えるが、「ないと不安だよね。 ある程度になって、 紙類 入りますと言って、入ってくれるといいんだけど、それがないから、いつどうなる? いつ入る? とか、店もわかってない。 それが一番不安」と話した。 社会心理学にくわしい、東京大学大学院の関谷直也准教授は、「いわゆる『予言の自己成就』という現象が今、起こっているだろうと思います」と指摘する。 「予言の自己成就」とは、例えば、誰かが「トイレットペーパーがなくなる」というデマ情報を発信したとする。 すると、その情報を信じたほかの人が、実際に商品を買い占めるなどの行動をすることで、結果として「トイレットペーパーがなくなる」というウソが、現実を予言した形になってしまう現象のこと。 その一つの例が、1973年。 今回のトイレットペーパーの品薄も、同じ構図が繰り返されて起きた現象だという。

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まるでオイルショック、新型コロナによる「買い占め」はトイレ紙にも:日経ビジネス電子版

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パワーダウンを余儀なくされた1973年誕生車 新型コロナウイルスの影響で、スポーツの試合やコンサートの中止や延期、さらに小中学校、高校への臨時休校要請など日に日にその影響が大きくなってきている。 そうした中、デマによるトイレットペーパーやティッシュ、米、肉、パンの買い占めがはじまり、マスクや消毒用のアルコールだけでなく、日用品や食料品までが品薄になってしまった。 まるで「オイルショック」のような状況だ。 大型公共事業が凍結・縮小する事態にくわえ、物資が不足するという噂も流れ、トイレットペーパーや洗剤の買い占め騒動が起こった。 自動車業界では、ガソリンスタンドの土日営業が停止になり、マイカー運転を自粛などが叫ばれたのだ。 今回は、いまから47年前に起きたオイルショックの影響を受けたクルマを紹介しよう。 ハコスカGT-Rの心臓であるDOHCのS20エンジンを積んで颯爽と登場したが、オイルショックや排ガス規制の影響もあり、わずか197台で生産終了。 レースにも出場することなく消えてしまった(もっとも出場しても、当時のライバルだったサバンナRX-3には勝てる見込みもなかったが……)。 トヨタ・パブリカ スターレット 1973年のトヨタはモータースポーツのエントリーカーの代表となった、初代スターレット「パブリカ スターレット(KP47)」を販売。 セリカの弟分的な存在でセリカのフルチョイスシステムの簡略版、フリーチョイスシステムを採用した2ドアのファストバッククーペだった。 レースでは日産のB110サニーやホンダ シビックとの接戦を繰り広げ、ラリーやシムカーナ、ダートラでも活躍した。 ホンダ・シビック 初代シビックのデビューは1972年。 1974年には76馬力にまでパワーアップしつつ、5速MTを搭載した「1200RS」がデビューした。 これがシビック初のスポーツモデルで、いわばシビックタイプRのルーツ。 ちなみにRSとは「ロードセーリング」の略。 オイルショックや排ガス規制の真っただ中、「レーシング」や「スポーツ」を名乗るのは憚られたのだろう。 マツダ・サバンナRX-3 GT 初代「サバンナ」が登場したのは1971年。 さらに1973年には、本命の12Aロータリーを積んだ「GT」をデビュー。 初代ロードスターよりも小さな車体、885kgという超軽量ボディに、125馬力のロータリーパワーを炸裂させた。 しかも100万円を切る81万5000円という、じつに魅力的な車両価格だったのだ(ハコスカGT-Rは150万円)。 ツーリングカーレースでも、あのスカイラインGT-Rの連勝記録を49でストップさせて、以後通算100勝の大記録を達成。 厳ついフェイス、いまでいえばドヤ顔で、リーズナブルかつ速いスポーツカーだったので、街の走り屋にも人気は上々だった。 しかし、燃費の悪いロータリーエンジンは、オイルショックで大打撃を受ける。 また、当時はマツダ以外にもロータリーを計画していたメーカーがあり、日産は、サニー、シルビア、スカイラインなどでロータリー車を試作。 とくに2代目シルビアはロータリーになる線が濃かったが、オイルショックで立ち消え。 トヨタもロータリーの研究をしていたし、シボレーのコルベットにもロータリーの試作車があったが、市販化は断念されたのである。 FRのコンパクトスポーツモデルで、ラリー競技車両ベースの「1600GSR」も同年9月に追加された。 ミクニ製ソレックスツインキャブを用いた110馬力の4G32型4気筒SOHCエンジン=「サターン」を搭載。 オーストラリアのサザンクロスラリーでは1位から4位を独占し、その素性の良さを証明した。 セリカLB 2000GT 2ドアハードトップクーペの初代「セリカ(ダルマセリカ)」に、テールゲート(LB=リフトバック)を備えた、セリカ「LB2000GT」が登場したのも1973年のこと。 ただ、スーパーカー世代には、ドイツのシュニッツァーが製作したシルエットフォーミュラ(Gr. 5)のセリカLBターボの印象が強いだろう。 BMW2002ターボ&ポルシェ930ターボ 1973年の第一次オイルショックの時代に生まれた国産車はこんな感じ。 それに対し、海外ではどうだったかというと、BMWは量産車初のターボエンジンを搭載した「BMW2002ターボ」を1973年に発表。 9リッター直列4気筒SOHCにKKK製のターボチャージャーを搭載。 最高出力170馬力を発生し、BMW3. そして、ポルシェはスーパーカーの代名詞「930ターボ」をフランクフルトショーに出展。

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1973年の「トイレットペーパー騒動」を解説――“噂と不安”でオイルショックと無関係な物資が次々品切れになった歴史に「

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『オイルショック』と聞くと、「トイレットペーパーをまとめ買いする姿」をイメージする人が多いのではないでしょうか。 しかし、オイルショックとは日常生活に大きな影響を与えただけでなく、世界政治にも大きな影響を与えた出来事なのです。 そこで今回は、あまり理解されていないオイルショックについて、わかりやすくまとめてみました。 スポンサーリンク オイルショックとは? オイルショックとは、1970年代に2度あった、原油の逼迫と価格の高騰によって世界の経済が混乱した騒動です。 第一次オイルショックや第二次オイルショックと呼ばれています。 また、石油危機や石油ショックとも呼ばれる場合があります。 1973年、OPEC諸国の国際収支黒字は10億ドルでした。 それが、1974には 約700億ドルに急増しました。 そして、発展途上国向けの民間銀行貸し付け金額は、1970年には30億だったが1980年には250億ドルに跳ね上がっています。 日本だけでなく、世界の歴史に刻まれている大きな出来事です。 次からは、オイルショックをわかりやすく説明するために、第一次オイルショックと第二次オイルショックに分けてまとめていきます。 第一次オイルショックとは? 1973年10月6日、第四次中東戦争が起こりました。 第四次中東戦争とは、イスラエルとエジプトやシリアなどのアラブ諸国との間で行われた戦争です。 これによって、石油輸出国機構(OPEC)に加盟しているペルシア湾岸産油の6ヵ国が、10月16日に21%の原油公示価格の引き上げを取り決めました。 さらに、原油生産の削減やイスラエル支援国への禁輸を取り決めました。 そして、1974年1月以降には、原油価格を2倍に上げると決められました。 日本は当時、中東の政治には深く関わってはいなくて、イスラエルを直接支援したこともない中立の立場でした。 しかし、日本はアメリカと同盟関係になっていたため、イスラエル支援国家とみなされてしまい禁輸される可能性がありました。 そのため、急いで中東諸国に三木武夫副総理を派遣して、日本の立場を説明しイスラエル支援国家から除外するように交渉しました。 それだけではなく、政府は国民生活安全緊急措置法と、石油需給適正化法を取り決めて、これ以上事態が深刻にならないように対応しました。 日本への影響 インフレーション 石油価格が上昇することは、それまでエネルギー源を中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かしました。 1960年代以降、エネルギー革命により、エネルギー源を石油に置き換えていた日本は、ニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃しました。 日本では、列島改造ブームにより地価が急騰した影響でインフレーションが発生していました。 インフレーションとは何か、知っているかもしれませんが、わかりやすく言うとモノの値段が全体的に上がって、お金の価値が下がる社会現象のことです。 省略してインフレと呼ばれることが多いです。 第一次オイルショックによって、便乗して値上げをすることが相次いで起こり、インフレが更に加速されていきました。 物価は20%も上昇して、 『狂乱物価』という言葉まで生まれました。 インフレを押さえるために公定歩合の引き上げや、企業の設備投資を抑制するなどの対応をし、マイナス成長を記録しました。 これにより、戦後から続いていた高度成長期が終わりました。 その理由として、欧米諸国は3分の2程度の低下で、アジア諸国はほとんど低下せずに、日本だけが長期的な経済成長率が3分の1に低下したこと。 そして、1980年以降に石油価格は実質、1970年代初めの水準に戻ったが日本の経済成長率はもどらなかったことを指摘しています。 日常生活への影響 原油の価格とは直接関係のない、トイレットペーパーなどの買いだめ騒動がおこりました。 そして、買いだめはトイレットペーパーだけでなく、砂糖や醤油などにまで及んでいき、「今買わなければあとで買えない、物がなくなる」などの噂が広まりました。 そのため、スーパーでは開店前に行列が出来て、開店と同時に商品が売り切れるという状態が続き、お店側が「お一人様一点まで」と制限をかけたため、さらに消費者の不安をあおりました。 紙資源の不足により、週刊誌や漫画雑誌のページ数が削減されて、子冊子程度の枚数となりました。 書籍では、文字を小さくし、ページ内にたくさん収めるために行数が増やされるなどの対策が行われました。 そのため、現在と比べてとても扱いにくい書籍が発行されました。 NHKは、教育と総合の両方で23時以降の放送を休止し、日中も時間帯により休止する番組もあった。 スポンサーリンク 第二次オイルショックとは? 1978年、イランで革命が起こり、イランでの石油の生産が中断しました。 そのため、イランに大量の原油の購入を頼っていた日本は原油の需給が逼迫しました。 そして、年末に石油輸出国機構が、1979年から原油価格を4段階に分けて合計で14.5%値上げすることを決めました。 その結果、第一次オイルショックと同じくらい原油価格が高騰しました。 しかし、第一次オイルショックの時に日本は学習していたため、深夜番組を放送自粛したり、ガソリンスタンドを日曜休業にするなど、省エネルギー対策が浸透していたため、前回に比べ深刻な影響はありませんでした。 また、原油価格の高騰も長引くことはなく、イランも石油販売を再開しました。 数年後、原油価格は下落しオイルショックを乗り越えました。 オイルショックが与えた影響とは? 第一次オイルショックと第二次オイルショックで、日本やその他の先進国の経済が極端に中東の石油に依存していることが分かりました。 そのため、油田の開発や調査などが、中東以外の地域でも積極的に行われるようになりました。 その結果、石油を使わない原子力や風力、太陽光、天然ガスなどのエネルギー活用の模索や、省エネルギーに対する技術の研究や開発の取り組みへのきっかけにもなりました。 石油を備蓄するための体制も整えられたりしました。 自動車の使用が拡大し、石油消費の比率の中で、自動車の消費する燃料である石油がとても高かったため、鉄道などの公共交通機関を再評価しようとする動きも出ました。 第一次オイルショックで学習したことは、とても大きいものだったようですね! 石油輸出価格の急騰によって、石油輸出国は政治と経済の両面で、力を持ちました。 原油の輸出で獲得したドルは、世界金融市場の中で存在感を強く発揮し、湾岸諸国では莫大な歳出が可能になったため、福祉の充実を達成することが出来ました。 スポンサーリンク 第三次オイルショックもあったの!? 日本への影響はあまりなかったが、2004年頃~2008年秋頃にかけて、目立った供給の減少を伴わない原油の価格の高騰が世界的に続きました。 これを第三次オイルショックと呼ぶ者もいます。 ピークの時の価格は、第一次オイルショック、第二次オイルショックのピークと比べて、名目で3倍を越えて実質でも上回っていました。 しかし、第一次オイルショック、第二次オイルショックと比べると、価格の上昇スピードはとても緩やかでした。 そのため、あまり大騒ぎにならなかったのかもしれませんね。 第三次オイルショックの原油価格の高騰の原因は、産油国の生産能力の停滞や、先物取引による投機資金の流入などが影響しました。 まとめ オイルショックとは何か?について、わかりやすくまとめましたが、いかがでしたでしょうか。 オイルショックと聞くと、トイレットペーパーを買い占める姿を、テレビや新聞などで見たなんてことを思い出すかもしれませんが、実際はオイルショックの影響ではないんですね。 わかりやすく言えば、人の噂で広まってしまった騒動だったと言うことです。 噂がここまで大きくなってしまうと、収拾がつかなくなっていまい大変なことになってしまうんですね。 第一次オイルショックで学んだ省エネルギー対策は、今の生活にも役立っています。 これからも続けていければ良いですよね! 最後まで読んで頂き、ありがとうございました! スポンサーリンク•

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