スタニスラフ ペトロフ。 警報システム誤作動で危機“一発”

核戦争を防いだ旧ソ連軍人死去 スタニスラフ・ペトロフ氏、米軍によるミサイル発射警報をシステム誤作動と冷静に判断

スタニスラフ ペトロフ

1983年9月26日、ソ連(当時)の核攻撃早期警戒システムが、アメリカの弾道ミサイル発射を探知した。 本来なら即座にソ連側のミサイルが報復発射され、核戦争に発展しかねない事態だったが、当直の中佐がソ連側システムの誤作動と判断したことにより、その危機は回避された。 まさに世界を救ったヒーローとも言えるこの男性、実は5月に死去していたことが分かった。 ついにアメリカのミサイル発射か? ソ連防空軍の中佐、スタニスラフ・ペトロフ氏は、その日モスクワ郊外の秘密の観測室で、核攻撃早期警戒システムの監視に当たっていた。 午前0時を過ぎた頃、アラーム音が鳴り響き、システムの衛星の一つが、アメリカから5発の弾道ミサイルがソ連に向けて発射されたことを探知した。 当時まだ冷戦は続いており、3週間前の9月1日には、ソ連が領空を侵犯してきた大韓航空機を撃墜し、アメリカの議員を含む269人の乗客乗員が全員死亡するという大惨事が起きていた。 米ラジオネットワークは、この事件後、米ソによる警告と威嚇の応酬が続いていたとしている。 アラーム音が鳴り響き、赤いスクリーンが「発射」の文字を点滅させるなか、ペトロフ氏は「どうにも腑に落ちない」ものを感じたという。 本当にアメリカが核攻撃を仕掛けているとしたら、もっと大規模になるはずで、たった5発は少なすぎるからだ。 加えて、ソ連の地上レーダーから、ミサイルが向かってくることを裏付ける補強証拠は、数分経っても上がってこなかった。 ペトロフ氏は、探知に関してはソ連の技術的正確さを完全には信頼しておらず、警戒システムは「未熟」だったとも後日談で述べている。 結局ペトロフ氏は、自らの直感を信じてシステムの誤作動と判断し、アラームは誤報であったと上司に伝えた。 事件における同氏の判断に対する褒賞はソ連政府からはなく、むしろ適切な書面で状況を報告しなかったとして罰せられている。 兵器コントロールの専門家、ジェフリー・ルイス氏は、「もしペトロフ氏が訓練通りの手順を踏んで上官にミサイル探知を報告していれば、今ごろ我々は1983年の大核戦争の話をしているはずだ。 生き残っている人がいればの話だが」とNPRのインタビューで語っている。 2013年には、ドレスデン平和賞が同氏に贈られ、2014年には、ペトロフ氏のストーリーを描いたドキュメンタリードラマで、ケビン・コスナーも出演した「The Man Who Saved the World(世界を救った男)」が製作されている。 自分がヒーローだと考えたことはないというペトロフ氏だったが、「あの夜のシフトが自分だったのは、皆さんにはラッキーだった」と述べたこともあった(NPR)。 ペトロフ氏は、引退後1人でモスクワ郊外に住んでいた。 9月に入り、ドイツ人の政治活動家が、誕生日にお祝いの言葉を贈ろうと連絡をしたところ、息子から5月19日に77才で亡くなったとの報告を受けたそうだ(USAトゥデイ)。 自らの功績を「ただ職務を果たしただけ」と控えめに評価したペトロフ氏は、人知れず静かにこの世を去っていた。

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警報システム誤作動で危機“一発”

スタニスラフ ペトロフ

核問題は、に限らずどこにおいても深刻だ。 偶発的な戦争が起こるかもしれない。 不思議に思えるが、敵に対する信頼こそが、互いの滅びを防ぐ方法なのかもしれない。 昨日の「毎日」に 核戦争を防いだ人という青野由利記者の記事が載っていた。 も見てみた。 1983年、米軍と韓国軍が演習中、飛行していた機がの戦闘機からミサイルで撃ち落とされた。 当然、米ソがかなり緊張した。 そんな時、 核戦争の未遂事件が起こった。 は、軍のの中佐で、核ミサイルの早期警戒の当直の任務にあたっていた。 0時40分、コンピューターは米国から飛来する1発のミサイルを識別、はこれをコンピューターのエラーだと考え、上層部にエラーと報告した。 その後、4発のミサイルが飛来すると識別した。 後でわかった事は、太陽光が雲に反射した光を誤ってミサイルと識別した。 は、米国からのミサイル攻撃なら何百発ものミサイルが同時に向かってくるはずだと考え、誤作動と、軍服務規程に反する個人の判断を行った。 通常の判断なら、が核ミサイルを発射し、米国も報復の核ミサイルを発射し、膨大な死傷者をうみだし、世界中にをまき散らし、核の冬で人類は絶滅しかねない状態だった。 そんな偶然起こりかけた核戦争が偶然にも回避されたとうことだ。 側も米国側も、いつ先制攻撃されるかわからない、すぐに報復し、相手のミサイル基地を攻撃しないと、被害が拡大すると立場から、ためらわず核ミサイル発射のボタンをおさなればならない。 と考える。 だれが考えてもバカみたいな恐ろしい話だ。 核戦争の恐怖から逃れたいなら、禁止条約の全ての国が加盟し、核を廃絶することだ。 たくさんを持って実戦配備している国から率先した、核をなくし、開発も実験もすべて核を根絶する事こそ、恐怖から逃れる道だ。 日本政府は国でありながら、米国言いなりで、禁止条約に背を向ける。 こんな政権は変えなければならない。 adayasu.

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第三次世界大戦を防いだ寡黙なヒーロー

スタニスラフ ペトロフ

1983 年9 月26 日。 この日、20 世紀最大の危機が世界を襲っていたことはあまり知られていません。 当時は冷戦の真っ只中、アメリカとロシアは少しでも相手を出し抜くべく自国内での核兵器の開発に全力を挙げていました。 世界的な緊張感が高まるなか、各国はいつどこで戦争が始まるかわからないという恐怖に覆われていました。 ソビエト軍で中佐という立場にいた 当時44 歳の ペトロフは、コードネーム「オコ」と呼ばれた早期警戒衛星をコントロールする管理センターで働いていました。 早期警戒衛星とは核攻撃があった場合に検知することのできるシステムで、通常のレーダーによる監視に比べて10 分以上早く攻撃を知ることができるようになります。 とはいえ、当然攻撃そのものを防ぐことができるわけではなく、攻撃が始まった時に早く知ることができるだけです。 つまりこの管理センターの目的は、万一攻撃を受けた際に迅速に反撃することでした。 しかし、もしこのような双方の攻撃が実際に行われれば大量の死傷者が生まれることも明らかです。 a young stanislav petrov looks like zack morris. rip comrade — emmett LILHICKORY その日、ペトロフは夜勤についていました。 時計が深夜12 時を回った直後、突然施設内に警報が鳴り響きます。 ソ連に向けてアメリカがミサイルを発射したことを示す警告音です。 館内の人々の視線は一斉にペトロフに集まります。 というのも、当時のソビエト軍のルールでは、中佐が現場から上司へと報告することをもって反撃を開始することになっていたからです。 当然そのような事態になれば数百万人単位の犠牲者が生まれることになります。 ペトロフはこの時考えました。 百歩譲ってアメリカが攻撃してきたとして、突然たった1 基のミサイルだけを発射してくることなどあるだろうか、と。 彼は最終的にこの警報が誤報であると判断し、警報を解除します。 ところが、その直後さらにアラームが鳴り響き、今度はなんと4 発のロケットが発射されたことを衛星がキャッチしたというのです。 しかし、この事態に及んでもペトロフは懐疑的でした。 そして彼は結局、自分の直観に従って行動することを決心します。 「私は自分の経験を信じることにしました。 私たちはコンピューターよりも正しい判断ができるはずだ、と。 結局コンピューターだって、作ったのは私たちなんですからね」ペトロフは話します。 彼は再びこのアラームが誤報であると判断し、警報を解除。 彼は後に、自分自身のこの時の行動が果たして正しいものなのだったかは未だに彼自身にもわからないと語っています。 やがて、館内が騒然としたまま17 分という時が流れました。 ペトロフにとっては、自分がとんでもない過ちを犯したかもしれないという不安もあり、この17 分間はまるで地獄のような時間だったそうです。 その後、核弾頭を積んだミサイルは1 発もソビエトへと向かっていないということが再確認されて、ようやくペトロフは安堵することができました。 後日分かったことですが、この時のアラームの誤報を招いたのは、このときたまたまかなり高い上空に出ていた雲に太陽の光が絶妙な反射角で当たり、結果としてロケットのような残影を衛星がキャッチしてしまったことが誤報の原因だったそうです。 「私の使っていた椅子は結構快適だったのだけれども、この時ばかりはなんだか肘掛けがすごく熱く感じたよ。 足もかなり居心地悪かったがね。 あの時、ああいう決断をしたというのは、私にとってもかなり冒険だったんだ。 とにかく私は、第三次世界大戦を引き起こした張本人になりたくなかったんだろうな」 実際、核攻撃を伴う世界大戦が仮に発生したとすると、私たちが想像を絶するような結果を招くことになるのは明らかです。 研究機関によるシミュレーションによると、その場合の死者は全世界で7 億5000 万人、負傷者は3 億4000 万人に上るという試算が出ているそうです。 ソ連が秘密国家であったこともあり、ペトロフのこの行動は長らく公開されることはありませんでした。 彼自身、この夜の出来事は愛する家族にすら明かすことなく、自分の胸の内にしまったままいたといいます。 結局このエピソードは、彼の上司だった人が1998 年に手記を発表した際に初めて公に知られることとなりました。 これによりペトロフはその英雄的な行動が広く賞賛されることとなり、様々な賞も受賞したそうです。 ただ、彼自身は決して自分を「ヒーロー」だとは考えていないと話します。 「私は英雄なんかではない。 ただ自分の職務を遂行していただけだからな。 ただあの場にたまたま私がいあわせた、それだけさ」.

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