豊臣 秀吉 死因。 豊臣秀吉の指は6本あったって本当?性格や死因も詳しく解説!!

豊臣秀吉の家紋や城、妻や死因や天下統一までの出来事をまとめて紹介します!

豊臣 秀吉 死因

正確な身分もわからないほどまずしい生まれの豊臣秀吉は、母親の再婚相手にいじめられ「絶対偉いサムライになってやる!」と13才で家を飛び出して、織田信長の家来となります。 何ももたずに生まれた秀吉は、人の心とチャンスを手に入れる努力をおしみませんでした。 ある寒い日、秀吉はふところであたためたぞうりを、信長に差し出しました。 信長は、この気づかいに感心し、たちまち秀吉を気に入ったそうです。 ほかの家臣たちから「ただの人たらし(ごますりがうまいヤツ)」と思われようと、秀吉は信長の役に立とうと必死でした。 10日間で18個もの城を攻め落としたり、味方に裏切られて絶体絶命の信長を戦場から逃がしたりと、 死にものぐるいで戦ったのです。 目的はただひとつ。 偉くなるためです! そして信長が明智光秀に倒される「本能寺の変」が起きます。 備中(岡山)にいた秀吉は、これまた10日間で200キロを走りぬけ、京都で光秀を討ちました。 信長のかたきを討ったことで、秀吉の発言力は急上昇。 わずか2才の信長の孫、三法師のめんどうを見ることで織田家の実権を手にします。 信長の死をも利用して、秀吉はのしあがったのです。 その後すべての戦国大名を家臣にした秀吉は、とうとう天皇の次に偉い関白の位を与えられ、 信長にもできなかった天下統一を成しとげました。 実際、秀吉に会った朝鮮の使者は「サルにそっくり」と書いていますし、肖像画もサル似。 でも、じつは信長は「はげねずみ」というさらにひどいあだ名で秀吉を呼んでいました。 それは信長が秀吉の妻・ねねに送った手紙に書いてあります。 秀吉とねねは、当時としてはめずらしく親の反対を押し切って恋愛結婚したラブラブカップル。 しかし出世した秀吉は浮気するようになり、悩んだねねが信長に相談したのです。 信長は完全にねねの味方になって、やさしい言葉満載の手紙で返事をします。

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豊臣秀吉の死因って、老衰なのでしょうか?それとも毒殺なので...

豊臣 秀吉 死因

Sponsored Links 秀長がもう少し生きていれば豊臣の滅亡はなかったかもしれない。 後世の人にそこまで言われる豊臣秀長という武将。 兄である豊臣秀吉の絶大な信頼を受け、豊臣政権を支えてきた秀長は天正19年(1591年)1月22日に息を引き取っています。 しかし、病死と言われる彼の死が実は暗殺であったと言われています。 その意外な犯人とは一体誰なのでしょうか。 豊臣秀吉の弟にして名補佐役 陽気で機転がきき、人たらしと呼ばれた豊臣秀吉の弟、豊臣秀長は兄とは反対の大人しく温和な性格の人物でした。 秀吉は性格の違うこの弟を随分と可愛がってもいたでしょう。 実際、彼は秀吉の良い補佐役であり、ストッパーでもあったようです。 秀吉が天下人になると大きな実権を与えられ、公儀の事は秀長に相談するようにと秀吉自らが言っていたと伝えられています。 数々の戦にも同行し、秀吉の名代を務めた自慢の弟。 しかし、天正18年に病に臥せってから1年後、彼はあっけなく亡くなってしまいます。 Sponsored Links 秀長の死は暗殺!? 秀吉の影のような存在でありながら、絶大な力を持っていた秀長の死には暗殺説があります。 「医学天正記」という本に書かれている症状などから見ると胃腸系のヒ素中毒の可能性があると言うのです。 そして、その犯人とされる人物も何人かあげられています。 まずは兄である秀吉。 天下人になった彼が実力者の弟を疎んじてとなるといかにもありそうですが、秀吉は家族を大切にする人で、秀長の事も大切にしていたのでその線は薄そうです。 次に石田三成。 彼もまた秀長の権勢を妬んでという理由をつけられそうですが、頭の良い三成にとって秀長が豊臣政権になくてはならない存在である事は明らかだったでしょう。 そうなると後は徳川家康。 理由は言うまでにもないですね。 しかし、慎重な家康が果たして自分の手を汚すでしょうか。 ここで意外な人物が出てきます。 千利休と家康の不穏な関係 公儀の事は秀長にと言われたように秀吉政権において内々を任されていた人物がいます。 それが茶人であった千利休です。 秀吉の加護の下、茶の湯を広めた利休は秀長の死後1ヶ月後に秀吉によって切腹を命じられています。 それについては娘を秀吉に差し出さなかった、派手好きの秀吉と茶の湯の事で対立したなどと諸説ありますが、当時からしても謎でした。 ですが、それが秀長暗殺を図ったからだとすれば納得がいきます。 利休の茶室は2畳の密室で暗殺にはぴったりに見えますし、まさか茶の湯の席で毒を盛られるなど予想もしなかったでしょう。 しかも、不思議な事に秀長の死の2日後に千利休は家康と二人きりで茶会を開いています。 更には千利休の処罰にあたって、徳川家康は彼の助命嘆願や子孫の家督相続の為に奔走しているのです。 しかし、千利休が犯人だったからと言って、何故彼は家康に従ったのでしょうか。 秀吉も秀長も利休のパトロンであり、秀長を殺せば自分の身も危ないとは思わなかったのでしょうか。 もしかしたら、利休はそう遠くないうちに自分と秀吉が対立するとは思っていて、せめて家族だけでも助けられたらと家康にすがったのかもしれません。 ですが、彼はそんな表の世界のドロドロとした思惑は一切見せずに命を落としました。

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豊臣秀吉の名言・逸話30選

豊臣 秀吉 死因

豊臣秀長(とよとみ ひでなが)またの名、羽柴秀長(はしば ひでなが)は天文9年3月2日(1540年4月8日)に、父・竹阿弥と母・仲の子として尾張国愛知郡中村(今の名古屋市中村区)に生まれました。 異父兄弟の兄に秀吉がいますが、幼少時に秀吉が家を飛び出したため、小さい頃のエピソードはほとんど残っていません。 その後、永禄7年(1564年)ころ、23歳にして秀長は兄・秀吉に仕えることになります。 兄の秀吉とは正反対の性格だったといわれていますが、秀吉からそうとう可愛がられ、兄の名補佐役でもあり大きな信頼を寄せられていました。 最終的には約110余万石大大名にまでのぼりつめた秀長は、温厚で真面目、諸大名からも評価が高く多くの人から好かれていたようです。 もし秀長が長生きしていたら、豊臣家は滅ぼされることはなかったとまでいわれるに秀長ついて、わかりやすくまとめてみましょう。 家紋…秀長は自身の家紋を持つことなく、兄の秀吉と同じ豊臣家の家紋を使っていました。 豊臣家の家紋は通称『五七桐(ごしちのきり)』です。 桐の紋は、元々天皇家の紋章です。 天皇家の紋章といえば、現代もパスポートに描かれている菊家紋が有名ですが、桐紋も天皇家の紋として使えわれていました。 それほど桐の紋は天下人として最高位を表すものだったといえます。 死因と最期…秀吉の家臣についてからというもの、秀長はとにかく兄の補佐役としてすばらしい功績を残してきました。 秀吉が不在時は城を守り、怪我をし参戦できないときは自らが先頭にたち戦へ。 そんな秀長も、天正14年(1586年)ころあたりには体調を崩し始め、有馬温泉で療養していたとされる記録が残っています。 その後も何度も戦に参戦してはいるものの、天正18年(1590年)には病が悪化し、兄・秀吉の小田原攻めには参加できませんでした。 そして翌年の天正19年(1591年)山と郡山城内で病死しました。 52歳でした。 秀長の死後、兄・秀吉の暴走を止める役がいなくなり、豊臣政権に暗い影が見え始めました。 現代でも、秀長がもう少し長生きしていれば、徳川家康に豊臣家が滅ぼされることはなかったと言われる意味がよく分かります。 墓…秀長は大和国の国主で、大和大納言になったことから、秀長の墓は地元では『大納言塚』と呼ばれています。 妻…女性関係がとても派手だった兄・秀吉に対し、秀長は正室・智雲院(ちうんいん)の他に側室が1人のみいたそうです。 何人もの側室がいたとされる戦国時代の武将としては、とても珍しいと言えます。 正室の智雲院は、奈良は法華寺の興俊尼という尼をしていましたが、秀長が惚れ込み秀長が46歳のころ結婚しました。 政治的な思惑もなく、とても意外な結婚とも思えますが、その年まで結婚せず本当に惚れ込んだ相手と結婚し、側室も1人のみ、とても真面目な秀長の性格が表れているのではないでしょうか。 娘…なかなか子宝に恵まれなかった秀長も、息子1人と娘2人をもうけました。 ですが、息子・小一郎(こいちろう)は早世してしまいます。 そして、長女の大善院(だいぜんいん)を毛利秀元の正室に。 次女のおきくを、秀長の養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)へ嫁がせ、秀保を秀長の後継者としました。 家臣…秀長の家臣は三家老の横浜一庵、羽田正親、小川下野守がいました。 そのほかには、藤堂高虎や宇多頼忠、桑山重晴、小堀正次、吉川平介、杉若無心、多賀秀種、本多俊政、黒田利則、黒田直之、木下昌利などもいました。 特に、中井正清、小堀政一など築城や造園に長けた家臣をたくさん登用していたようです。 兄にとっての名補佐役、秀吉のブレーキ役として力を発揮しました。 秀吉が天下人になれたのは、秀長がいたからこそであると誰もが口をそろえたといいます。 秀吉が天下人になってからは100万石余の大大名となり、大和大納言と呼ばれるまでになりました。 豊臣政権の安定の維持には欠かせない人となり、誰も口出しが出来なかった兄の秀吉に、唯一意見できた人物だったそうです。 人望抜群の仁将…秀吉からの信頼度が非常に高く、秀吉の右腕とも称されるようになりました。 そんな秀長は、自身が秀吉の近親だということを鼻にかけたことがないといわれています。 温厚で真面目な性格で、秀吉の縁の下の力持ちとしてとにかく補佐役に徹底しました。 そんな秀長は他家からの評判もとても高く、抜群の人望を誇ったといいます。 内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候…大友宗麟(おおとも そうりん)が島津氏からの圧迫によって窮地に立たされた際、秀吉を頼って大阪城に来ました。 そのとき、秀長が大友宗麟に言った言葉です。 内密な話しは宗易(利休)へ、公的なことは私へ話してくれという意味。 常に落ちついた判断ができるのは秀吉ではなく利休や自分である、ということの表れでしょう。 実際に秀長が健在の間は、豊臣政権が揺らぐことは1度もありませんでした。 信頼の代名詞「小一郎」…ここまでに何度も記したように、秀長は兄の秀吉から兄弟ということを省いても、多大な信頼を寄せられていました。 秀吉が、黒田官兵衛にあてた手紙の中には「其方の義は我ら弟の小一郎め同然に心やすく存候間」と気安い言葉をかけています。 自分の1番の信頼を表した言葉だったのではないでしょうか。 補佐だけでなく大軍を率いる事ができる名将の面も…天正13年(1585年)に、秀吉は四国への出陣を決定しました、四国征伐です。 が、病のため自身の出馬を諦め代わりに弟の秀長を総大将としました。 翌年には秀長はまたも総大将として、今度は九州征伐に出陣します。 常に秀吉の補佐として活躍し続けていた秀長でしたが、大軍勢を率い殿(しんがり)をも勤め上げたのです。 豊臣政権は、秀長の政治的役目、そして強い武将としての役目を最期まで立派に務めた秀長のおかげで成し遂げられたのでした。 人気記事• 織田信長と聞いて思いつくのは、気性の荒さ・奇抜な戦略・情けなしという、暴虐武人ぶりではないでしょうか。 しかし、... 松永久秀(まつなが ひさひで)は通称「松永弾正(まつなが だんじょう)」の名で広く知れ渡っている戦国時代の武将... 戦国時代の武将は、先祖代々受け継がれた家の家紋のほかに、2~3個持ち使っていたと言われています。 戦国時代、武将... 日本人に「戦国時代の好きな武将は誰ですか?」と質問すると、その答えで「毛利元就」と答える人はそれ程いませんよね... 戦国時代の天才軍師として名高い竹中半兵衛。 本名、重治。 36歳という短い人生を駆け抜けた彼は、並々ならぬ智謀... 前田利家は尾張国海東郡荒子村(今の名古屋市中川区荒子)の荒子城の主、前田利春の四男として生まれました。 又左衛門... 浅井長政 【サマリー(リード文)】 浅井長政は、スラッとした高身長で美男子の、若くして死んでしまった戦国... 豊臣秀長(とよとみ ひでなが)またの名、羽柴秀長(はしば ひでなが)は天文9年3月2日(154... 近江(滋賀県)出身の武将・蒲生氏郷は、大きな物事を成し遂げる可能性を持つ器量人として、戦国時代のスーパースター... 戦国最強の武将ともいわれている島津義弘。 数々の戦において武勇伝を残しており、鬼島津と呼ばれ恐れられていました。...

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