船場 吉兆 ささやき 女将。 船場吉兆ささやき女将の現在は?ドン底からも『迷セリフ』復活か【画像】

“ささやき女将”衝撃会見振り返る「まさか丸聞こえになるなんて…」

船場 吉兆 ささやき 女将

プロフィール 名前 :湯木尚二 ゆき しょうじ 生まれ:1969年 出身 :大阪府 最終学歴:甲南大学経営学部 湯木尚二さんは、大学を卒業後に、 船場吉兆に入社して、 家業に専念しました。 老舗日本料理店【吉兆】の創業者、 湯木貞一をの血が、湯木尚二さんに受け継がれて、 着実に料理人として進化されているようです。 原材料偽装などの問題発覚した当時の 大阪の老舗料亭「船場吉兆」の経営陣の一人でした。 スポンサードリンク 2. 湯木尚二さんと船場吉兆トラブル 湯木尚二さんが経営陣としてかかわっていた 船場吉兆の問題とは。 07年10月、販売する惣菜などの 食品偽装が判明したことを皮切りに、 原材料偽装や料理の使い回しが 発覚する大騒動を起こしました。 この問題が発生した当時の吉兆は、 かなり好調の時期でした。 本業の料亭の経営だけでなく、有名百貨店で 「吉兆ブランド」の商品も手掛けていたほど。 では、そんな好調の船場吉兆が なぜ「料理の使い回し」のような問題を起こしてしまったのか。 業績が悪く追い込まれたからとかいうわけでもないのですが・・・。 原因は事業拡大にともない、 ひとつひとつの現場に目が届かなく なっていたことだったようです。 またこのトラブルが注目を浴びるようになった理由の一つが 謝罪会見にもあったようです。 そう「ささやき女将」と言われる言葉も生まれたほど。 このトラブル発生したとき、船場吉兆の対応として 正直に話すべきかどうか内部で意見が分かれました。 内容が重大なだけに話しあいにも時間がかかったのでしょう。 そんな合間にもいろんな報道がなされるうえ、 事実無根の内容も報道されることに見かねて なされたのがあの謝罪会見だったようです。 「ささやき」と言われる母の所作に、 思わぬ注目が集まってしまった。 出典: 兄は職人気質で、あまり多くを語らない人です。 あれだけの報道陣が集まる中、 さらに緊張してしまい、言葉が出てこなかった。 そこで、母が兄を心配して助言をしたつもりが……。 こういう行動は残念ながら、 思いと裏腹の結果になってしまうことが多いようですね。 会見の後に、兄は母に向かって怒っていましたね。 「あんなこと(ささやき)をしなくても大丈夫だったのに!」と。 この会見も含め「一度は日本全国を敵に回した」 謝罪会見に出席した母親が「ささやき女将」と報じられるなど、 家族ぐるみで壮絶なバッシングにあったようです。 ですが根本はお店の理念を忘れてしまった対応にあるのではと思います。 スポンサードリンク 3. 湯木尚二の船場吉兆廃業後のお店やささやき女将の今は? 謝罪会見後もしばらくは『船場吉兆』を続けていましたが、 長年かけて築き上げた信頼はなかなか取り戻せず、 負債は8億円ほどに膨らみ、 2008年5月に店を畳まざるを得なかったそうです。 ここまで騒ぎが大きくなったせいか、 廃業後数ヵ月は、なにも手につかず貯金は、 100万円を切までに・・・。 そんな途方に暮れている時に、 昔から懇意にしてくれた外食チェーンの 経営者の方が「時間が余っているなら、 『吉兆』で学んだ料理のイロハを生かしてうちの店を手伝ってくれ」 と声をかけられたそうです 月給は15万円で確かに、高くはなかったですが 金額は関係なしにそれでも、飛び上るほど嬉しかったそうです。 というのも日本全国を敵に回し、途方に暮れた状態のなかで お金を貰って働くということの喜びを、 もう一度かみしめることができたからだそうです。 それをきkっかけに、人生の見え方が変わり、 『(株)プラス思考』という個人会社を作り 外食のコンサル業をはじめて、 それで生計を立てていました。 飲食店の仕事を手伝ううちに、 やっぱり自分でもう一度お店をやりたいという気持ちが強くなってきました。 そこに、10年の秋に知り合いの不動産業者が 「もともと小さな鮨屋だったところが空いたから、 料理屋をやってみないか」 と声をかけてくださったそうです。 そんな経緯があって 大阪・難波に、6坪、カウンター6席の、本当に小さな店を開きました。 もう一度心を改めて、一生懸命、初心に戻って働いた結果、 そうすると、少しずつ、お客様が来てくれるようになったそうです。 しかも吉兆時代のお客様も、足を運んでくれるようになったとか。 これは嬉しいですね~。 しかも 『あの時は大変だったね。 でも、この味をみると、君の気持が伝わってくる。 絶対にまたやり直せるよ』 と声をかけてくださる方もいるそうです。 次第に商売も軌道に乗って、 おかげさまで現在、3店舗を構えるまでになりました 北新地の『日本料理 湯木本店』 『日本料理 湯木新店』 肥後橋『ゆきや』 吉兆時代のスタッフも、何人か戻ってきました。 父も母も、現在は年金暮らし、 飲食業にはまったく携わっていません。 先ほど申し上げた通り、 兄はまったく別の仕事をしているそうです。

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「知らんと言え」のささやき女将 助言封印で次男の店大繁盛|NEWSポストセブン

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デパートなどど吉兆ブランドの商品を販売したりもしていました。 しかし、 2007年10月に偽装が発覚。 デパートで販売していた「抹茶ゼリー」などのスイーツのラベルを張り替え 賞味期限を偽装していたのです。 それから、 産地偽装や 客の食べ残しを再利用していたなど新たな事実が続々と出てきます。 さらにこれらの出来事は上層部の指示だったのに、パートが勝手にやったことと 責任を擦り付けようともしていたのです。 ささやき女将 パートの人たちも反論し、上層部の指示ということが分かり会見が開かれるようになりました。 その会見中長男である喜久郎さんが言葉に詰まったときに、隣で母親で女将の湯木佐知子さんが 「頭が真っ白になって」「責任逃れの発言をしてしまいました」などと 次にいう言葉をささやいたのです。 しかもマイクの性能が良くてそのささやきがすべて聞こえていたのですね。 このコントのような出来事は大きな話題となりましたが、船場吉兆の信頼はさらに落ち 廃業につながっていったのです。 のちの番組で女将は弁護士と事前に練習した模範解答をすべて暗記していて 息子を助けるためについささやいてしまったと語っています。 マイクの性能の良さを認識してなく、息子を助けたい一心だったそうです。 湯木尚二 次男の 湯木尚二さんは船場吉兆の店をたたんでからしばらくは何も手につきませんでしたが 懇意にしていた外食チェーンを手伝うようになり、個人会社を作り外食のコンサル業を始めます。 2010年、知り合いの不動産業者から声をかけられ6坪、カウンター6席の小さな店「南地ゆきや。 」 を始めました。 すると船場吉兆時代のお客さんも来てくれるようになります。 そして2011年に大阪の北新地に「 日本料理 湯木本店」を開業。 現在はそのほかにも3店舗経営しているようですね。

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湯木佐知子(ささやき女将)のその後!現在と今・船場吉兆・wiki・経歴・画像

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NHK『逆転人生』の公式サイトより 「一度は料理界から追放されました」 「日本全国を敵に回しました」 そんな言葉から番組は始まった。 声の主は、湯木尚二。 2007年、賞味期限の偽装、産地偽装、食べ残しの使い回しで廃業に追い込まれた、 船場吉兆の取締役だった1人だ。 当時の謝罪会見で、母である女将がこう答えなさいと「頭が真っ白になったと」と横から囁いたことから「 ささやき女将」が流行語になった。 5月25日放送のNHKの『逆転人生』は「船場吉兆の息子が語る 転落からの生き直し」。 どん底まで落ちた湯木尚二が再起した現在までを追った。 尚二の祖父、湯木貞一が昭和5(1930)年に創業した吉兆から、のれん分けで誕生した船場吉兆は日本料理の老舗。 子どもの頃からすっぽん料理を食べ、調理場で板前から料理の極意を教わるなど、食の英才教育を受けていた。 当時の経営者の父は常々「日本料理は味だけやない。 おもてなしの心や」と語っていた。 1995年に尚二は店長となり、1999年には博多に開店した店の店長も兼任した。 2000年、主要国首脳が参加した九州沖縄サミットでは蔵相会議の料理を担当し、賛嘆の声が上がった。 尚二はメディアにも多く登場するようになり、「料理界のプリンス」と呼ばれた。 だが、さまざまな有力者たちの付き合いが増え、店への関わりが疎かになっていった。 そんな中で2007年、賞味期限の偽装、産地偽装、食べ残しの使い回しが発覚し、船場吉兆は廃業に追い込まれた。 財産は没収され、ワンルームマンションでの1人での生活が始まる。 2008年に定食屋で皿洗いの仕事を始めるが、探り当てた記者が店に訪ねてきた。 「ご迷惑をおかけいたしました」と言って、尚二はたった1カ月で勤めを辞めることになった。 2010年、尚二は知り合いの不動産屋から電話を受ける。 鮨屋の経営者を探しているとのこと。 行ってみると、6坪ほどの店で鮨を握っている主は、船場吉兆が健在だった頃に行きつけだったバーのマスターだった。 鮨屋になりたいという夢を語っていたことがあったが、それを実現したのだ。 高齢になったため、後継者を探しているとのこと。 尚二は引き受けた。 予約の電話があり、当日待っていると誰も現れないということがあった。 看板を叩き割られたこともあった。 尚二の店だと知っての嫌がらせだった。 おもてなしの心という父の言葉を、尚二は実践した。 いつも丁寧に見送りながら、翌月の献立を渡した。 客の会話を耳にして、おめでたい会だとわかると、赤飯を出した。 しだいに店は満員が続くようになる。 常連客の一人から、北新地で店をやらないかと持ちかけられる。 銀行に相談するが、あの船場吉兆の経営陣だったということで、融資は断られた。 「奈落から生還した瞳はとても強くて優しい」 ある日、鮨屋で食べ終わった客が改まった口調で、「この料理なら北新地でも十分やっていけます」と語った。 なんだろうと訝る尚二に客は、銀行の者であることを明かす。 融資が実現したのだ。 店を開くために尚二は、船場吉兆の頃の従業員に声をかけた。 全員が承諾した。 尚二は北新地に店を開いた。

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