大久保利通 子孫。 大久保利通

大久保氏

大久保利通 子孫

伊藤博文との出会い 最初に太政官権小書記官を務めていた頃、あの伊藤博文との出会いがあったようです。 彼と中国の政治家のやり取りを見て、国の中枢で物事が動いていく様子を肌で感じることができたと言われています。 外務大臣を歴任し、貴族院議員へ その後も出世を続け、第2次西園寺内閣では農商務大臣に就任。 そしてついに、 第1次山本内閣で外務大臣の要職を務めることになります。 そして、1914年には、兄たちと同様、 貴族院議員として任命されます。 パリ講和会議で実質的に指揮をとり、吉田茂も同行した? 1919年、第一次世界大戦終結後、世界各国の首脳が集まり講和条件や国際連盟の設立について話し合われた パリ講和会議に、牧野は次席全権大使として参加します。 日本の代表は西園寺公望でしたが、 実質的には牧野が一行を取り仕切る形だったと言います。 このパリ講和会議で、牧野は 人種差別撤廃提案などを行なっており、当時のアメリカ大統領・ウィルソンからも支持を得ます。 結果として、オーストラリアなどから強い反対を受けて否決されてしまいますが、 国際会議で人種差別撤廃を明確に主張した国は世界において日本が最初の国でした。 また、この会議には後の内閣総理大臣となる 吉田茂も随行しています。 宮内大臣、内大臣として天皇が涙するほどの信頼を得た? 1921年からは、 宮内大臣に就任します。 ちょうど大正天皇の病状が悪化してきた頃で、昭和天皇が即位されるまでの間、宮中の事務の統括者として責任を全うしました。 軍部から二回暗殺されそうになる 昭和7年、軍人らによって当時の首相・犬養毅が暗殺される 5. 15事件が勃発します。 当時、内大臣だった牧野も命を狙われ、 住宅にピストルが打ち込まれます。 また、内大臣を前年に引退した昭和11年には、青年将校が起こした 2. 26事件によって、他の政界の重要人物と同様、牧野も命を狙われます 当時、牧野は伊豆・湯河原の旅館「光風荘」に宿泊しているところを襲撃され、護衛は倒されてしまいますが、 孫・麻生和子の機転によって牧野自身は暗殺を逃れます。 ちなみに、麻生和子は 吉田茂の娘です。 この襲撃事件の前に、 牧野の殺害を目的としたテロ計画が8件もあったということですから、事情通で穏健派として大きな影響力を持っていた牧野は、中族進出を企てていた軍部政府にとってかなり邪魔な存在だったようです。 父の大久保利通も暗殺されていますが、牧野は運が良かったと言えるでしょう。 牧野伸顕はどのような人物だったのか 牧野伸顕は伊藤博文やその後継者である西園寺公望と親密な関係を築き、一方では自身の薩摩閥としてルーツをもとに、政界、外交界、宮中でも深い関係を築くことで、独自の存在感を発揮した政治家です。 保守とリベラルのバランスが取れており、社会の変化を敏感に察知する協調的で穏健派な政治家だったといいます。 伊藤博文から対人姿勢を学んだということで、人の意見を頭ごなしに否定することはなく、しっかりと話を聞く人物だったそうです。 牧野伸顕の日記 牧野伸顕は大正10年から昭和13年までの出来事を綴った日記を残しており、 『牧野伸顕日記』として発刊されています。 牧野が宮内庁のトップとして若き昭和天皇の側にいた記録を、摂政就任、御成婚から、軍部の台頭、国際聯盟脱退まで詳細に書き綴っている貴重な記録です。 牧野伸顕の子孫や家系図 牧野伸顕の子孫や家系図の一部を紹介したいと思います。 やはり、大久保利通の家系ということで、政治家を輩出していたりと、かなりロイヤリティーを感じさせる人物が多いです。 長男・牧野伸通 長男の牧野伸通は宮内庁の内部部局である式部職で 式部官を務めています。 長男・牧野力 また、伸通の長男・牧野力は 通産事務次官を歴任しました。 長女・林貞子 伸通の長女・林貞子は幼児教育専門家であり、東海大学名誉教授も務めています。 また、松濤幼稚園の創設者でもあります。 長女・吉田雪子 牧野の娘・雪子は 吉田茂と結婚していますが、実はその 吉田茂の孫が麻生太郎です。 麻生太郎の親族には、財界の重鎮である父・太賀吉がいたり、天皇の親族となる妹の信子がいたりと、かなりすごい家系なのです。

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牧野伸顕とは?大久保利通の息子の生涯、家系図や日記などを解説!

大久保利通 子孫

生涯 [ ] 生い立ち [ ] 13年()、下高麗町(現・)に、館附役の薩摩藩士・と皆吉鳳徳の二女・福の長男として生まれる。 は正袈裟(しょうけさ)。 大久保家のは御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。 幼少期に(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町のやで、や、、らと共に学問を学び親友・同志となった。 は胃が弱かったため得意ではなかったが、討論や読書などの学問は郷中のなかで抜きん出ていたという。 15年()、し、を正助(しょうすけ)、は利済と名乗るが、後に改名する。 幕末 [ ] 3年()より、藩の記録所書役助として出仕する。 3年()のでは父・利世とともに連座して罷免され処分となる。 以後、大久保家は貧しい生活を強いられ、この時の借金依頼の手紙や証文が現在残る大久保の文書で最も古いものとされている。 が藩主となると謹慎を解かれ、6年()5月に記録所に復職し、御蔵役となる。 4年()、西郷とともに徒目付となる。 同年11月、東上する西郷に同伴し熊本に達し、、津田山三郎らと時事を談ずる。 の領袖として活動し、安政5年(1858年)7月の斉彬の死後は、11月に失脚した西郷に代わり組を率いる。 同年12月、流罪の際に山川港に寄った西郷に書を送り、脱藩義挙に就いて密かに意見を問う。 安政6年(1859年)11月、同志40余人と脱藩を企画する。 しかし、新藩主・、親書を下して藩の勤王の方針を告げ、脱藩を止める。 同月、藩主の実父・(後の久光)にあてて時事の建言を行う。 以後、忠教に税所篤の助力で接近する。 篤の兄での・乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。 元年()、重富邸にて忠教と初めて面会し、3月、勘定方小頭格となる。 元年()9月、同志と謀り、親族町田家が秘蔵していた楠木正成の木像を請い受けて、伊集院石谷に社殿を造営する。 同年、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去るにはも御小納戸役に抜擢)、家格も一代となる。 元年()から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から 一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改める。 元年、久光の内命により大久保は京都に上る。 倒幕・王政復古 [ ] 時代の大久保利通(明治元年頃) 文久2年(1862年)、正月より久光を擁立して京都の政局に関わり、公家のらとともに路線を指向して、の、福井藩主・の就任などを進めた。 同年正月14日、前左大臣、父子に謁して、久光上京、国事周旋を行うことを内々に上陳する。 同年2月1日、近衛父子の書を携えて帰藩する。 同月12日、大久保らの進言を受けて久光に召喚された西郷が奄美大島より戻る。 翌13日、邸において、西郷らと久光上京に関して打ち合わせる。 3月に入り、西郷が先発して村田新八らとともに上京。 同月16日、久光、千人を超える兵を率いて公武合体運動推進のため上京の途に就く。 大久保はこれに従った。 同月30日、兵に先駆けて、下関より西郷の後を追って大久保のみ急遽東上する。 、西郷と会い、京都大阪の形勢を談ずる。 同月8日、播州大蔵谷において久光を迎える。 同月16日、久光入京する。 大久保はこれに随行。 翌17日、久光は浪士鎮撫の勅命を受ける。 同月19日、大久保は大阪に赴き、志士を説得する。 同月23日、伏見において勃発。 らがらの義挙を止めるも、これを受け容れず。 新七ら8名が斬られる。 、大久保は、、、ら諸卿に謁して、勅使を関東に下向させることに関して建策する。 同月9日、久光、勅使卿の随行を命じられる。 、御小納戸頭取に昇進となる。 この昇進により、、と並んで久光側近となる。 同日、久光、関東に向けて進発する。 大久保はこれに随行する。 江戸着。 同月26日、大久保は、大原勅使に謁したうえで、幕閣が勅命を奉じない場合、決心する所があることを告げた。 、久光江戸を出発し西上する。 大久保はこれに随行する。 この日、あり。 翌閏8月7日京都に着く。 同月9日に久光による参内、復命。 大久保はこれに随う。 同月23日、久光帰藩のため京都を出発する。 大久保も随行。 同月30日、大久保は御用取次見習となる。 文久3年()には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進する。 元年()1月下旬から5月の間に 利通と改諱する。 慶応2年()、第二次に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行っている。 慶応3年()、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、を開催させる。 しかし四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなる。 小松、西郷とともにであるの、、(栄三郎)、、浪人の、との間で職の廃止、新政府の樹立等に関するを三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄。 武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は8月14日に長州藩のに武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の・、のが会し出兵協定であるを結んだ。 なお、この三藩盟約書草案は大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っている。 10月14日、正親町三条実愛からの詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功した。 しかし、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍・徳川慶喜がを果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、の大号令を計画して実行する。 王政復古の後、に任命され、にて慶喜の辞官納地を主張した。 明治維新後 [ ] にて撮影(明治5年) 慶応4年()、にてへのを主張する。 ()にに就任し、、などの明治政府の体制確立を行う。 ()にはに就任し、の副使として外遊する。 外遊中にで問題になっていた朝鮮出兵を巡る論争では、西郷隆盛やら征韓派と対立し、にて西郷らを失脚させた。 ()にを設置し、自ら初代(参議兼任)として実権を握ると、や、などを実施した。 そして「」をスローガンとして、政策を推進した。 明治7年()2月、が勃発すると、ただちに自ら兵を率いて遠征、鎮圧している。 首謀者のら13人を、した。 さらに江藤をしただけでなく、首を写真撮影して、全国の県庁で晒し者にした。 しかし問題にはされなかった。 またが行われると、戦後処理のために全権弁理大臣としてにに渡った。 交渉の末に、、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印する。 また出兵の経験から、明治8年()5月、のに海運政策樹立に関する意見書を提出した。 大久保が目標としていた国家は()であるとも、であるともいわれる。 当時、大久保への権力の集中は「」として批判された。 また、現在に至るまでの日本の官僚機構の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれている。 明治10年()には、で京都にて政府軍を指揮した。 また自ら総裁となり、でからまで、第1回を開催している。 その後、からの要請に乗る形で自らがに就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていた。 暗殺 [ ] 大久保利通の銅像。 身長:166. 7cm• :甲東• :「為政清明」「堅忍不抜」• 尊敬する人物: 、 仕事ぶり [ ]• 金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかったには私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。 そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが 、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかったという。 政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円(2019年の価値で約2億円)を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。 寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人は少なかったと言われている。 も大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれ、すぐに引き下がったといわれる。 大久保の部下だったは、大久保の没後の内務省で後任の内務卿であるの部屋でやが盛んに夕べの宴会の話をしたり、用もないのに中井が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。 今日でいう風光関係の問題にも関心があった。 明治6年(1873年)ににへ案内された大久保は、・税所篤が園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするのを知り、「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」と反対する歌を詠んだ。 税所はこの歌を知り開発計画を撤回した。 なお、浜寺公園の入り口付近にこの時に詠んだ歌が、「惜松碑(せきしょうひ)」として顕彰されている。 技能 [ ] 畳を回すという技能を持っていた。 薩長との会合の際、長州代表主催者、周布を快く思っていなかった堀が言葉じりを捕らえ、嘲った。 空気が非常に重くなったが、さらに堀は周布を嘲り続けた。 怒った周布は「芸を見せる」と言い抜刀し踊り始めた。 堀を斬ることを察した、長州藩の藩士が堀との間に入り抜刀して踊り止めようとし、空気が緊張感がましたその時、大久保は畳を一枚ひっぺがえし、畳を回すという芸を見せた。 これで空気が弛緩し、ことなきを得た。 これはのちの世で幕末の鴻門の会と呼ばれている。 嗜好 [ ]• 家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。 出勤前のわずか10分か15分の間を、唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。 また大久保がで自宅に帰ってくると、三男のら子どもたちが争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。 平生は公務が忙しく、家族と夕食を摂ることもままならなかったが、土曜日は自らの妹たちも呼んで家族と夕食を摂るようにしていた。 大久保はこの土曜日の家族との夕食を無上の楽しみにしていたという。 趣味は。 碁好きの島津久光に接近するために碁を学んだといわれるが、それ以前の元年()の日記に碁を三番打って負けたとの記述があり、損得を抜きにして好きであったと思われる。 また大の負けず嫌いで、対戦相手に当り散らすようなことはなかったが、碁で負けたときは露骨に機嫌を悪くした。 「(碁に関しては)岩倉と大久保は両人ともなかなか上手であった。 どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。 ところが大久保は、激し易い人であったので、岩倉はその呼吸を知って居るから、対局中常に大久保を怒らせて勝ちを取った」• 「道楽の少ない男で、碁が一番大好きであった。 何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。 我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。 大久保は碁に負けると厭な顔をするけれども、決してその場では腹を立てない。 併し家に帰ると家人や書生に当り散らしたそうだ。 ナンでも碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判であった」• 「大久保公の碁は珍しい品の好い碁であって、永年の間相手となったが、一度も手許の乱れたことはなかった」• 「公の一番好きなのは碁じゃ。 余程好きで能くやって居った。 詩もチョイチョイあるが、詩人としては成功しない方だが、自分の志を云うだけのことは出来た」• で、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用し、子供達が朝晩を掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった。 また、朝用と夜用のパイプをそれぞれ分けて使っていた(そうしなければならないほど、年中煙草を吸っていた)。 茶はのを濃く淹れたものを好んだ。 も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。 写真嫌いだったとは対照的に、写真が好きで多くの肖像写真がある。 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用し、当時としては非常に洋風な生活をしていた。 また頭髪をでセットしていた。 頭頂部に大きな禿があり、それを髪で隠していたため、早朝に邸宅を訪問しても髪をセットするまで応対に現れなかったという。 明治8年(1875年)から1年かけて、三年町(旧邸及び旧邸跡)に白い木造洋館を建てた(建築費用は金と盟友の税所篤からの借金で賄ったとされる。 後にこの邸はとなった)。 当時は個人の家としては珍しい洋館であったが、金をかけたものではなかった。 また、これとは別にに純和風の別邸を所有していた。 朝廷の小御変革を報告する利通の手紙 [ ] 『大久保利通文書 第三』「桂右衛門への書簡 明治2年6月4日」に、次の通り、朝廷で行われた 小御変革を報告する手紙の内容が掲載されている。 遭難地近隣のに立つ哀悼碑• 征韓論で対立したとの確執で知られ、で江藤が裁判にかけられた際には日記に「江東 ママ 陳述曖昧実ニ笑止千万人物 推 おし 而 て知ラレタリ」、死罪判決が出た際には「江東 ママ 醜体笑止なり、今日は都合よく済み大安心」と意図的に名字の名を変え、江藤への罵倒ともとれる言葉を記している。 このことから「江藤を死罪にした裁判長のは大久保から1,000円で買収された」 「上京していた江藤の弟・を見て江藤の亡霊を見たかのように驚いた」 など当時から現在に至るまで様々な創作、風説を生み出している。 鹿児島が暴発したときには、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の暴徒を一掃できるとし、また西郷については、これでは私学校党に同意せず「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送っている(明治10年2月7日付書簡)。 しかし西南戦争前に西郷が参加していることが分かると、西郷と会談したいと鹿児島への派遣を希望したが、大久保が殺されることを危惧した伊藤博文らに朝議で反対されたため、希望は叶わなかった。 西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。 強か日本が……」と呟いたという )。 西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆をに頼んでいたりしていた。 また暗殺された時に、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとが語っている。 明治11年(1878年)に暗殺される日の朝、福島県令・に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。 よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。 それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。 明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。 明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と将来の構想を語った。 大久保神社(郡山市安積町)• 大久保利通をとして祀る「大久保神社」が、にある。 また、地元の人々によって「大久保様の水祭り」が毎年9月1日に執行されている。 地元鹿児島では「西郷どんの敵」とされ、彫刻家のが制作したが建てられたのも昭和54年(1979年)、西南戦争百周年の機会による。 評価 [ ]• 「もし一個の家屋に譬ふれば、われは築造することにおいて、遥に甲東(大久保)に優って居ることを信ずる。 然し、既に之を建築し終りて、造作を施し室内の装飾を為し一家の観を備ふるまでに整備することに於ては、実に甲東に天稟あって、我等の如き者は雪隠(鹿児島の方言・便所)の隅を修理するも尚ほ足らないのである。 然しまた一度之を破壊することに至っては甲東も乃公(おれ)に及ばない」• 「大久保は予の畏友で実に予の手駒である。 予若し事に死することあらば、予に代わって起つべきは大久保である」• 長州閥の総帥であるとは、維新後は政治的に対立することが多かったが、公人としては互いに認め合っていた。 木戸は大久保に多くの不快を持ちながらも、政治家としての大久保については「大久保先生の人物には毫も間然するところこれ無く敬服つかまつり候」と評価し、大久保も参議を辞任した木戸の慰留に何度も努めるなど、政治的な同僚としての木戸を強く必要とした。 「大久保利通は、古今未曾有の英雄と申すべし。 威望凛々霜の如く、徳望は自然に備へたり。 力量に至っては、世界第一ならん。 余が大久保をかくのごとく稱讃するは、他人の稱讃とは違へり。 支那の談判、江藤の討伐、其の他公の事業に種々あれども、余の見る所は御維新也。 (中略)日本全国の人心を鎮定して、その方向を定む。 皆大久保一人の全国を維持するに依り、維新の功業は大久保を以て第一とするゆえなり。 御一新の功労に、智勇仁あり。 智勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷也。 此の三人なくんば、如何に三条、岩倉の精心あるも貫徹せざるべし。 大久保は豪傑なれども、どこ迄も朝廷を輔賛するの心ありて、倒れて止むの気象也。 余の見る所にては大久保、木戸、西郷、、この四人なくんば御一新は出来まじ」• 「情実の間を踏み切って、ものの見事にやりのけるのは、そうさなアー大久保だろうよ。 大久保のほかにはあるまいよ。 だがね、大久保という男はあんまり功名を急ぐ欠点があるから、折々やりそこないがあったけれど、あの男のように思い切った果断に富んだ者はマアー珍しいだよ。 それだから情実の相撲取りをする今の世の中には、ああいう男が是非とも入用ださ」• は大久保を「維新時代唯一の大政事家」と評し、意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる点を挙げている。 さらに同じく維新の三傑の一人木戸孝允とともに「維新時代の二大英傑」と評している(大隈は西郷を評価していなかった)。 「大久保は辛抱強い人で、喜怒哀楽顔色に現はさない。 寡言沈黙、常に他人の説を聴いて居る、『宜かろふ』と言ったら最後、必ず断行する。 決して変更しない、百難を排しても遂行すると云ふのが特色であった。 (中略)大久保は一見陰湿な方で、且つ武骨無意気な風であった」• 「彼の頭脳が明晰で、その判断が嘗て正鵠をあやまらなかったのは、畢竟この沈着の態度を失わなかったところに基づいている。 或る場合には、彼の性格は如何にも頑固に見えて、甚だ才略に乏しいように受け取られたが、之れ畢竟極めて強固なる意志の力と執着力の甚だ猛烈なるものありしことと、赫々たる政治的熱心の絶えず活動していた結果である。 假令彼に対する反対の声が、四方に起っても、彼は毫も恐れず、騒がず、怨まず、決して愚痴も零さなかったのである。 (中略)決して彼は機敏な人ではなかった。 併し全く自らを恃む人であって、常人が狐疑逡巡して居る間に、どしどし断行して行ったのであるから、その執る仕事には非常な成績が挙った。 素より彼は、意思の人であって、感情の人ではなかった。 その冷ややかなることは、鉄の如くであって、毫も温かみのない人のように見えた。 或場合には、甚しく保守的の思想を表わすことがあったが、さりとて頑冥な保守党の因循家ではなかった。 例えば、学者の説を聞いても容易に同意しない、黙考し再考し三考するという風で、沈思黙考の結果善いと確信したならば、彼は猛然進んで毫も余力を残さないという遣方であったから、彼の進行の前路に立ち塞がり得る者は、殆ど無かった」• 「大久保は意思の代表的人物であり、木戸は感情の代表的人物である。 木戸は頴敏で磊落な才子の方で、大久保は堅剛の君子人である」• 「殊に彼の偉大であった一つは、彼が斯の藩閥的関係を以て、身を立てたるにも拘らず、殆んど藩閥的偏見に超脱していた点である。 如何にも同藩の者を多く採用したことはあるが、之れとて其間に偏見のあった訳では毫もない。 この大見識は彼の人物を見る上に就て、最も深く注意すべき点である」• 「大久保公は、沈着で喜怒色に顕れない。 知らぬ人は近づく能はず、知る人も狎るるを得ずという風で、木戸公はリベラル、大久保公はコンサバチーブ、両公相俟って大政維新を成就し、維新後の難局を処理して、開国進取の基を開かれた」• 「木戸公は 中略 忍耐の力は大久保公に一歩を譲っておった。 その代わり識力の方は大久保公も一歩を譲っておった」• 「岩倉、木戸、大久保三公はとにかく度量といい決断といい胆力といい時流に卓絶しておった。 我輩の先輩として見る所では彼の三人には一人も及ぶものはない」• 「大久保さんの威厳は一種天稟であった。 兎角人間の威厳は傲岸偏狭をともなうものであるが、大久保さんは全く違っていて、誠に珍しい度量の広大なる方で、しかも公平無私で、誰でも人を重んずる風がある、非常に広い大きな人物であった」• 「大久保さんは、誠に度量のひろい大きな方であった。 かの西郷の如きは、誠に竹馬の友として幼少のときから親しい間柄であったにもかかわらず、我輩などに対して話されるときでもつねに、老西郷、老西郷といわれ、また先代木戸公に対しては、木戸先生と鄭重に尊称しておられた。 これは単に表面上ばかりでなく、殊更につくられた態度でもなく、実際に心中に敬意を表せられ、推称しておられたように思われる。 それに、平生、誰の系統とか、何藩人とかの区別を設けず、何人に対しても推すべきは心中からこれを推し、用いるべきは心中から敬して用いておられた。 それゆえ大久保さんにはみんな心から服し、喜んで力を致したのである。 ゆえに天下に志ある者は、多く大久保さんの知遇を得んことを欲したのも、決して偶然ではない。 それで、明治の世となって以来、大久保さんほどに国家の難局を処理し、また事業を多く遂行された方は、維新の諸先輩中他に類例を見ないのである」• 「わが国憲法制定の歴史中、(板垣が)民選議員の建白に尽力されたことは宜しいが、しかし大久保さんが極端なる専制主義の人で、盛んに圧制政治を行い、立憲政治のことなどは、少しもその念頭になかったように述べてあるが、これは全然間違った話である。 (中略)大久保さんは永らく政府の枢軸に立ち、国政上の盤根錯節を一身に引き受けて切り開かれたために、民間の政客に敵が多く、誤解も多かったが、おおよそ大久保さんほど誤解された人も少ないのである」• 「世間には大久保公を目して圧政家のように思う者もあるようだが、それは甚だしい間違いである。 大久保公は早くより立憲政体を主唱された有力な一人である」• 「大久保と云う人は薩人の中にても一種特別なる性格あり。 云わば当時文明流の政治家なり。 故に動もすれば薩人中には大久保を目して、彼は驕奢に長じたる者なりとか、金殿玉楼を造れりとか云うて誹毀する者あり。 大久保の所に往きては茶一つ飲まぬと云う様なる傾きありし。 現に今の侯爵大山などもその一人なりき。 加うるに征韓論以来二派に分れ、一方は西郷に属して野に下り、一方は大久保に属して朝に留まることとなりしより、自ら政府の為す事は大久保一身に責任を負い、西郷と大久保と確執せしとはなかるべしと雖も、総て反対者より怨を受くるように為りたるなり」• 「大久保の理想は主して維新の大成に在り。 木戸の眼光は宇内列国に注ぎ、外海を禦ぐを主としたりしと雖も、大久保は専ら維新当初の志に基き、内政を整え、国礎を建て、以て尊王の業を大成せんとするの精神なりき」• 「西郷さんのところにいくといつも喜ばれて、『自分は落語家でないから話が聞きたければ物事を尋ねてくれ』という風で、有益なる談話に時のうつるを覚えず、あたかも春風に触れるよう長閑な気持ちになり、辞して門を去るときは、誰も心中に云うに言われぬ愉快を感じたものである。 然るに、大久保さんの前へ出るとこれと反対で、いかにも怖い顔をしておられた。 言葉は少なく、ただその威厳にうたれて、この方から言いたいことも言われず、小さくなって帰るので、人気は自然に西郷さんの方に集まった。 我輩も西郷党であったのである」• 「余は今までに大久保さんほど厳格な、几帳面な、そして怖い人に出会ったことがない」• 「実に果決断行の人であったが、しかし怒るときは常よりも声低く、落着いて物を言い、頗る沈着の態度を取られた。 そこで、西郷さんも大久保が声を低くして語り出すときには、用心ものだと言われたことがある」• 「非常なる精力家であって、あれほどの位置にあるひとであるから、座っていて部下を駆使して万事を慮理されたように思われるが、決して左様ではなく、何か事件があると自分で手紙を書き、自分で出かけて活動された。 実に機敏なるものであった」• 「余は従来議論においては多く人に譲らぬ自信があった。 ただ大久保という人に向っては、誠に議論の仕悪い困った人であると思うて閉口していた。 大久保は弁説の滔々として爽かな人ではなかったが、しかし一度大久保と議論を上下するときは、丸で岩石にでもぶつかるような心地がして、実にこの人だけは、議論のしにくい人であった」• 「彼、椅子に凭れ、端然として事務を執る。 同僚あるいは外国公使が試みに大久保を壓服せんと欲して、その室に入るや、彼『なんですか』と中音にて云う。 来りし者はその威儀に打たれて贅語を発すること能はず、要談を了りてそうそう去るなり。 その官房の煙草盆の清潔なりしは、人の長談せざりし証拠なり」• 「大久保は中々悧巧な男で、政治向きの事は全然伊藤に任せて何うか斯うか切り盛りして居ったが、大久保が世帯風の才があったと云っても宜い。 また極く低級の語で云えばズルかった。 彼にもズルい位の智慧はあった」• 「大久保卿が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った」• 「大久保の威望の高かったことは、実に前代未聞といってよかった。 われわれが内務省に出て見ると、卿が出て居られるかなど尋ねる必要は少しもない。 卿が居れば廰内がひっそり閑として水を打ったようであるから、直ぐにそれと分った」• 「大久保公は渾身これ政治家なり。 凡そ政治家の資格として必要なる冷血を、多量にその脈管にたたえたる。 余は未だ候の如きを視ざるなり。 候の顔色を望み、風采を仰ぐごとに、余は恰も北洋の氷塊に逢ふが如き思いをなしたれば、このことを藍田三郎、小松齋治君ら告げたるに、諸氏もまた同じ思いをなすものなりといえり。 その平常沈黙にして言語挙動を慎重にし、容易には笑顔を我らに見せられたることなかりき。 故に余は候に用いられ、候に咫尺せること殆ど一年半の長きに渉れるに拘らず、よく候の性情を洞察すること能わず。 たまたま伊藤伯の物語に依ってこれを推知するに止まりたるなり。 且つや気稟の相異る、候は常に余を冷眼視せられ、余もまた敢えて勉めて候の知を求めんとはせず、長・属の間にありながら、宛然疎遠の状にてその日を送りたり。 (中略)公が政治家としては最上の冷血たるに似ず、個人としては懇切なる温血に富んでおられたことがわかるのである」• 「よく人にも計り、人の言も容れた人で、一事を裁断するにも念には念を入れる流儀だったが、ただ裁決した以上は、もう何事が起こっても気が迷うの、躊躇するのということはなかった」• 「父は相談には頭から反対したり、いけないと言って止めたりはせず、あまり賛成しない時は、ただもっとよく考えてみたらよかろうと言うのが常であった」• 「大久保は明治年間における唯一の大宰相であった。 社稷の臣、宰相の器として其右に出づる者はない。 (中略)事務の裁決などということを以て大久保を論じては大変な間違である。 裁決流るるが如しとか何とかいうのは、ヤリ手とか才子とかいうもので、畢竟それは刀筆の吏である。 大久保はそんなものを超越して居る。 彼の人そのものが国家の柱石であったのである」• 「一の建議案が諸参議の間に全部賛成を得てから大久保の処へ出ると、その場合大久保がもう一遍よくお考えになったらいいでしょうと言ったら、その案はもう潰れてしまったことにされた。 (中略)よく考えたらいいでしょうの一言で以て諸参議の賛成案もたちどころに潰れた威重は、要するに、あの人の至誠国に尽くすの心、己を空しくして国のためにした、あの人格の力である。 だから、あの人のいた間は天下はピリッともしなかった」• 「大久保公は部下に対しては大変親切な人でした。 親切で大変よく世話もされたが、しかし決して礼譲を疎そかにされなかった。 私どもを呼ぶのでも決して呼び捨てにはせず、また高橋君とさえも言われなかった。 何時も、『高橋さん、あなたが』と言う風の物の言い振りで、私どもが行って辞儀をしても、先方はやはり丁寧に頭を下げて、畳へ二、三寸ばかりのところまで俯いて辞儀される。 帰る時は玄関まで送って出て、シッカリと辞儀をされた。 この点は大西郷がよく似ていた」• 「なにしろ大久保さんは無口な人で、(洋行中の)汽車の中でも終始煙草ばかり吹かしていた。 (中略)大久保さんの煙草のみは非常なもので、大久保さんが汽車におると、外から戸をあけて這入った時、煙が濛々としているくらいだった。 (中略)大久保さんの笑い振りはどこか親しげな微笑が浮かぶのみで、そう愛想笑いをするのでもなく、ただなんとなく打ち解けた笑い方で、恐ろしい中にも心から信頼のできる親に対するような気持ちがされた」• 「公の風貌は他諸君の談話にも尽くされてある如く、眼光炯々として鋭く輝き、頬より頤にかけて漆黒なる髭を厳しく垂れ、一見人をして覚えずその権威に畏敬の念を懐かしめ、しかのみならず寡言沈黙いやしくも口を開かざるため、善く言えばますますその権威が加わり、悪口をするとなおなお窮屈と畏怖が増すのであった」• 「はつまらぬと言ったら、大久保公は私をギロリと睨んで『すでに勅が出た』とただ一言いわれた。 ピシリと頭に応えて、私は黙って還ったが、イヤもう恐ろしい威厳で、私は生涯あんな怖いことはなかった」• 「大久保公が今少し永く朝廷に立って居られたらば、世の中も今日の如きものではなかったであろう。 公の如きは誠に国家棟梁の臣であった」• 「大久保さんは未だ嘗て一度たりとも『之は困った』と云ったことがないとて有名な話になっていた」• 「胆は泰山の如く、量は大洋に如く、識見高邁才幹古今に絶して居る。 洵に前代未聞の豪傑である」• 「公の長ずる所は、つとめて大体を総覧するにあり。 民心を収拾するにあり。 苛察ならざるにあり。 賢良を親づけ、宵小を憎むにあり。 毅然不抜、確乎篤信の気象あれども、事はなはだ執拗せず。 執拗せざるが故に、時と流通して、身権貴を失わず。 故西郷氏も、所長多けれども、不執拗の三字だけは、この公に譲られしなり。 余ももとよりこの公に恥るなり。 この公の長ずる所は、区々たる一事業にあらざるなり」• 「余が驚いたのは、欧米巡廻の旅行によって公の人品が変化していたことであった。 従前は、只豪邁沈毅の気象のみに富んだ人であったが、巡廻後はそれに洒落の風を交え、加うるにその識見が大いに増進せるを感じたのである。 初は全く政治の大體のみに心を傾けて、餘り些細な事には留意されない人であったが、帰朝後は、我帝國をして宇内萬邦に対峙せしめんには、必ず富国の基礎を強固ならしめなければならないと語られ、施政方針は、専ら教育、殖産、工業、貿易、航海等の事業にあって是等を盛んに奨励せられたのであった」• 「大久保さんに接してその端厳な威容と、そのよく人言を傾聴して倦まなかった熱心さとを見ると、まるで大久保さんが二人居るようであった。 一人の大久保さんは威儀端然たる大久保さんで、他の一人の大久保さんは謙遜で、敬虔で、よく人言に耳を傾ける大久保さん。 私はこの二人の大久保さんを見た」• 「公は部下を使わるるに、よく其心を人の腹中において其力を信認され、部下に遣れるだけのことを遣らせるという風であった。 (中略)『各部の専任者は、決して私一己に使われるとか、薩長に使われるとか思わずに、国家の役人である、国家の事務を掌るというつもりで自任してやって貰わなければならない。 且また細かい事は自分は不得手である、事務の方は、万事諸君に一任するから力を盡して遣って貰いたい。 其代り、責任は我輩が引受けてやる。 顧慮せずに遣って貰いたい』と云われた。 (中略)殊に公に敬服すべきは、人に任しておいて動かなかったことである」• 「大久保公の内務卿時代には、内務卿の室は、神聖なものと見做されていた。 何時行ってもシーンとしたもので、大久保公の所へ何か一つ議論でもしようと押しかけて行く者があっても、内務卿の室へ入ると、議論を始めるどころか縮み上って還って来るという風であった。 卿の室には粛然として声が無かった。 仕事の上の事でも唯黙って聞いて居られた。 自分でも議論はされず、伺い書があると呼び付けて聞いて、『ヨシ』と言ってポツンと印形を押して、黙って返してよこすという風であった」• 「大久保公はそういう厳格な人ではあったが、しかし人を叱るというようなことは決してされなかった。 私はたった一度叱られたことがある。 恐らく、あれくらい烈しく叱られた者は、私一人であろうと思う。 (中略)一旦やりかけた事を、不詮索の結果、後になって変更するようなことは、ひどく嫌いであった」• 「(天竜川の)治水の問題で、伊藤内務卿の時代は三ヶ月を費し、大久保内務卿の時には僅に一日にて慮断された。 たとひ時代の推移はあるにせよ、その人物の等差も隔りがあるものである」• 「木戸公が(地方官会議の)議長席に着き、議場整理の任に当られたけれども徹底しなかった。 そこへ大久保公が入って来、議長の外側に着席されると、満場水を打ったように静粛となり、議論好の議員達も、成るべく発言を遠慮し、殊に寡言な大久保公が簡単な説明でもされようものなら、分からぬでもわかったような顔をして引下ったものであった。 木戸公に粛清な風があれば、大久保公には慥に雄大な趣があった。 大久保公をして明治二十三年まで長命せしめ、帝国議会に臨ましめたならば、堂々たる一国の大宰相として議政府三百の頭顱、恐らく正面より戦う者なかったであろう」• 「沈毅果断の人で、天稟により国家の大臣たる資格を備えて居られたというてよろしい。 多弁でもなければ事を軽々しく決断もされなかった。 また大久保さんは随分信義を重んぜられた。 その一諾には実に千金の値があった」• 多田某(内閣吏員) 「大久保氏は極めて寡言のひとなり。 然れども始終黙するにもあらず。 普通の事は役所にてもよく笑いし事あり。 しかして公務につきては多く口を開かず、黙して人の言う所を聴き居たり。 明治八年より開きたる地本官会議において、府知事県令はいずれも当時の豪傑にして、容易に屈服するの人あらず。 然るに大久保内務卿の前においては、議場粛然あたかも水を打ちたる如く、その言はただ命これ従うの状なりき。 沈黙なる代りに一たび引き受けたる事は百礙を除き、万難を排して遂行するの概あり。 よって地方官は皆大久保氏に信を置き、一諾千金より重しとは大久保の事をいうなりと感歎する者ありき」• 「世人は動もすれば甲東の謹厳にして沈黙なるが為に、青年書生の如きは軽視して引見することが尠かったように考える。 しかし甲東は決してそんな人ではなかった。 青年輩が相携えて其邸に到り教を乞うことがあれば、熱心と親切とを以て諄々として誨へ導くのを常とせられた」• 「私が逢った人物の中で大久保さんほど恐い人はない。 大久保さんが人に対して言う言葉が三つあった。 それは『よろしい』、『いけませぬ』、『考えときましょう』という三語である」• 「当時威権赫々たる廟堂の大黒柱でありながら、少しも辺幅を飾らぬ純真無垢な、懐かしみの深い御方で、まことに居心地が好かった。 だから私は物質的にはあまりめぐまれなかったけれども、公の御邸から御使が来るか、来状がありますと、何を差し置いても、勇んで参上いたしました。 時には家従から何の挨拶もない事もあり、またこの次に御一緒にというような申訳もありましたが、そこが私の最も感激した所でありました。 あれ程の御身分でありながら、内帑はそんなに満たされてないのであろうかと思いやりますと、荘厳崇高なる公の人格の神々しさが、キラキラと眼前に輝いて、そぞろに頭の下がるを禁じ得ませんでした。 あんな純真無垢な。 そして恬澹寡欲な大宰相がまたと世にあるでしょうか」• 「公は一見して、予の志望を容れられ、初一念を貫徹することを得たが、公がよく青年を愛し、その言を聴かれたことは感服に堪えない」• 「大久保公は従容端然五代(友厚)氏等と、日々碁を囲みたり。 木戸公来訪のときは、必ず上座に招して、玄関まで見送せられたれど、その他は左なかりし。 また日々文書は、細大盲印を捺するということなし。 事の軽重を甲乙に分ち、観覧の便を計りたれど、矢張り丁寧に検閲せらるること、平時に変るなし。 假令は法制のことは、伊藤公に謀り、経済のことは大隈公に問い、大事吾之を決すという如く、大臣の態度を備えたり。 公正剛毅申し分なき大宰相なりき」• 「大久保利通公は私を嫌ひで、私は酷く公に嫌はれたものであるが、私も亦、大久保公を不断でも厭な人だと思つて居つたことは、前にも申述べて置いた如くである。 然し、仮令、公は私に取つて虫の好かぬ厭な人であつたにしろ公の達識であつたには驚かざるを得なかつた。 私は大久保卿の日常を見る毎に、器ならずとは、必ずや公の如き人を謂ふものであらうと、感歎の情を禁じ得なかつたものである。 大抵の人は、如何に識見が卓抜であると評判せらるゝほどでも、其の心事の大凡は外間から窺ひ知られるものであるが、大久保卿に至つては、何処辺が卿の真相であるか、何を胸底に蔵して居られるのか、不肖の私なぞには到底知り得らるゝもので無く、底が何れぐらゐあるか全く測ることの能きぬ底の知れない人であつた。 毫も器らしい処が見えず、外間から人をして容易に窺ひ得せしめなかつた非凡の達識を蔵して居られたものである。 私も之には常に驚かされて「器ならず」とは大久保卿の如き人のことだらうと思つてたのである。 底が知れぬだけに又卿に接すると何んだか気味の悪いやうな心情を起させぬでも無かつた。 之が私をして、何となく卿を「厭やな人だ」と感ぜしめた一因だらうとも思ふ」• 「大体から其平素を謂へば、大久保卿はやとは異つて、容姿の閑雅な、挙動に落付いた処のあつた方で、容易に他人と争はれるやうな事をせられなかつたものである。 私と争つた場合の事に就て謂へば、若し大久保卿にいま一段と大きな性格がありさへしたら、あの場合にも私などと争はず、私の言ふ処にも理があるから、一つその意見を訊し詳細を聞いてやらうとの気を起され、私と争ふ如き児戯に類する事をせられなかつた筈だと思ふのである。 ここがと大久保卿との異る処である」• 「大久保は、とかく財政には関心がなく各省が欲しがるままにその費用を支給しようという考えで、自分は一人この間にいて、とくに苦慮し、尽力もしました。 大久保は国家の柱石ともいわれる人で、現に大蔵省の最高権力者である。 それなのに財政の実務に詳しくないどころか、その根本原理さえわかってなかった」• 「南州翁を訪うてその警咳に接した時には、心持がさっぱりとして胸が開け、何とも知れず愉快な心持になる。 去って甲東と話してみると、これはまた南州と正反対に何とも知れぬ厳粛な心持になる。 そうして今まで楽しかった春のような気分も、忽ち消失せて寒厳骨に徹する冬の思いがする」• 「さんが公使として赴任を命ぜられた時のことであった。 築地の自邸に別離の宴が催されて、当時の顕官達が大抵その席に列した。 時刻が近付くと客が追々に集まって来て、話が遊びのことに及び、お互いに素っ破抜きだの皮肉だのが出て興が漸く熟して来た。 そこへ大久保さんが見えて上座に着かれると、今まで沸き返って居た宴席は忽ちひっそりとして、如何にも真面目なしんみりとした別宴となった。 自分はその頃年少でたまたま森家に居合わせたが、この光景を見て、偉人の威力というものはかようなものかと深く感激した。 その時のことを想い起すと未だに大久保さんに対する畏敬の念を新しくせずには居られぬ」• 「当時私の妻の兄が霞ヶ関の大久保邸門前に住んでいたので、私は同家に止宿し大久保の一挙一動を探った。 そして彼の顔をよく知っておく必要から再度訪問もしたが、身丈五尺五寸凄味のある彼であるが、私には極く親切で何事も話してくれた。 話をそっちのけにして顔ばかり見つめていたので、あるとき『貴公はどうして顔ばかりみるんじゃ』と質問されたこともあり、彼の生活は質素なものであったと後世伝えられているが、銀の火鉢に金の煙管で煙草を吹かしており、しかも一か月の煙草代十六圓であることを知って憤慨したものだ」• 「(紀尾井町事件の際)甲東この急場に臨み、命を助けよと言わずして、しばらく命を貸せという。 その大胆、実に驚くべし。 我れ大人物を殺せしを悔ゆ」 系譜 [ ] 藤巴紋 明確ではないが末流を称している。 は左三つ藤巴。 末に京都から薩摩に移るというが、系図は年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)したより始まる。 暗殺後の遺族は、当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、木戸孝允の遺族とともにただ2家のみであった。 家族・子孫 [ ] 子供は正妻との間に四男一女、妾との間に四男をもうけた。 安政4年()12月、薩摩藩士・の次女・と結婚。 満寿子との間には長男・ 、次男・(娘婿に)、三男・、五男・、長女・芳子が生まれた(芳子の夫は後の・)。 また、大久保には妻の外におゆう(・のの9代目主人の娘。 か?)というが居り、おゆうとの間に四男・ 20代で早世 、六男・(農業技師、島糖業試験場長、妻は妹)、七男・(農業技師)、八男・(頭取、妻は次女)が生まれた。 大久保の孫のは日本近代史家、憲政資料室の成立に寄与した。 もう一人の孫である大久保利春はの専務で、のに際してはの一人として逮捕・起訴され、有罪を受けた。 「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。 曾孫に(作家)、(理事長、元学長)、玄孫に、()、(第92代)、()がいる。 父・利世の時代の島妻の子孫にがいる。 正字では利濟。 御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。 なお、この職についた御小姓与クラスの人物にの玄祖父であるやがいる。 文久元年4月23日より忠教は諱を久光に改める。 の日記に、「速なる昇進にて、人皆驚怖いたし物議甚しく候」と書かれるほどの異数の大抜擢だったという。 なお、この年文久3年に両親をともに亡くす。 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 p. 280• 久光の七男・真之助が元服し、と名乗ったため、「済」の字をしたという。 これが、管船政策の濫觴となった。 の「音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ」の• に同行、1890年帝国議会開設とともに貴族院議員となる。 1881年と共に設立に参画、1888年には社長となる。 出典 [ ]• 『伊藤博文』 2004 133頁• 『日本人の覚悟』 2014 58頁• 『早わかり幕末維新 ビジュアル図解でわかる時代の流れ!』外川淳 2009 297頁• 『大久保利通』()、5頁• 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 附録「甲東年譜」p. 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 附録「甲東年譜」p. 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 附録「甲東年譜」p. 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 附録「甲東年譜」p. 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 附録「甲東年譜」p. 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 附録「甲東年譜」pp. 13-14• 勝田孫彌『甲東逸話』冨山房、1928年 附録「甲東年譜」pp. 13-14• 大久保利通日記1• 『帝国海運政策論』巌松堂書店、1923年、第二篇「本邦海運政策の沿革」第一章「海運政策の変遷」第一期「本邦海運の萌芽発育時代(明治維新より日清戦役に至る)」二「本邦海運政策の濫觴」に、「八年五月大久保内務卿の建議」「八年九月三菱に対する政府命令書と航海補助金」「本邦近代的海運政策の起原」「三菱と米英船との競争」の項。 逓信省『逓信事業史 第6巻』逓信協会、1941年、第十篇「管船」第三章「海運及造船事業に関する政策及法令」第一節「明治前期」第三款「大久保内務卿の海運政策樹立建白」。 遠矢浩規『利通暗殺 紀尾井町事件の基礎的研究』(行人社、1986年)• 『生きている歴史』P85 五尺五寸の身丈とあり。 『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)58頁• 近代デジタルライブラリー『大隈侯一言一行』• 近代デジタルライブラリー• 『伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談』近代デジタルライブラリー• 水原紫織 2020年1月. 『もう1人の「明治天皇」箕作奎吾』. ヒカルランド• 御厨貴編著『近現代日本を史料で読む』p. 司馬遼太郎『歳月』• 鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』• 監修『実はこの人こんな人』 四季社、2002年4月10日、 C1023• 『済世遺言』• 『甲東逸話』• 『逸事史補』• 『氷川清話』P359• 近代デジタルライブラリー• 『大隈伯演説座談』近代デジタルライブラリー• 近代デジタルライブラリー• 『甲東先生逸話』• 『甲東逸話』近代デジタルライブラリー• 『園公秘話』P141• 『大久保利通』白柳秀湖著• 『大久保利通』講談社学術文庫• 『大久保甲東先生』• 『大久保利通』白柳秀湖著• 『維新英雄詩人伝』• 『棋界秘話』• 『甲東先生逸話』• 『維新雑史考』P60• 『雨夜譚会談話筆記』• 『大久保利通』白柳秀湖著• 『大久保利通』白柳秀湖著• 『生きている歴史』P85• 『近世偉人百話[正編]』• スポニチAnnex. 2015年3月7日時点の [ ]よりアーカイブ。 2011年3月10日閲覧。 参考文献 [ ]• 『大政事家 大久保利通 近代日本の設計者』 、2015年3月。 改訂版• 勝田政治『大久保利通と東アジア 国家構想と外交戦略』吉川弘文館〈〉、2016年2月。 『大久保利通日記』全2冊 本史籍協会叢書、1927年。 復刻北泉社、1997年。 『大久保利通文書』全10冊 本史籍協会叢書、1927年-1929年。 、1983年に復刻。 『大久保利通関係文書』全5冊 立教大学文学部史学科日本史研究室編 吉川弘文館、1965年、復刻、2005-2008年。 『大久保利通伝』 同文館(上中下)、1910年、1911年、1921年。 勝田孫弥 『甲東逸話』 、1928年。 『外政家としての大久保利通』 、1942年/、1993年• 佐々木克監修 『大久保利通』 、2004年。 『回顧録』 新版・中公文庫(上下)、改版2018年。 『大久保利通 維新前夜の群像5』、1974年• 『大久保利通と明治維新』 〈歴史文化ライブラリー〉、1998年。 佐々木克 『志士と官僚 明治を「創業」した人びと』 講談社学術文庫、2000年。 『大久保利通 幕末維新の個性3』 吉川弘文館、2005年。 『大久保利通 国権の道は経済から』 〈評伝日本の経済思想〉、2008年。 『大久保家秘蔵写真 大久保利通とその一族』、大久保利泰監修、国書刊行会、2013年。 『 明治三傑』 新版・講談社学術文庫、1981年。 『木戸孝允日記 全三冊』 東京大学出版会、1985年。 遠矢浩規『利通暗殺 紀尾井町事件の基礎的研究』行人社、1986年。 大久保利通を主題とした作品 [ ] 史論• 『明治維新三大政治家 大久保・岩倉・伊藤論』 小説• 『西郷と大久保』• 『西郷と大久保と久光』• 『歳月』• 『大久保甲東先生』 テレビドラマ• 『』(・NHK大河ドラマ 演:) 大久保利通が登場した作品 [ ] 小説• 『』 漫画• 原作、作画• 『』 テレビドラマ• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(度下半期、NHK、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:) テレビアニメ• 『』(演:)• 『』(演:)• 『』(演:) - の細長い猫キャラとして描かれる。 『』(、演:) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 大久保利通に関連する および があります。 外部リンク [ ]• (左記オリジナルURLの2012. 9時点の)• (左記オリジナルURLの2013. 4時点の)• (左記オリジナルURLの2013. 4時点の)• - 公職 先代: 創設 初代:1873年11月29日 - 1874年2月14日 第3代:1874年4月27日 - 同8月2日 第5代:1874年11月28日 - 1878年5月15日 次代: 先代: 第3代:1871年6月27日 - 1873年10月12日 次代:.

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大久保利通の偉大さ!子孫まで凄い!麻生太郎も?妻はどんな人?

大久保利通 子孫

江藤新平(出典:) 江藤新平は1834年、肥前国佐賀郡(現在の佐賀県佐賀市)に生まれました。 1848年に藩校の弘道館へ入学した彼は成績優秀でしたが、生活が困窮したことからその後枝吉神陽という人物の私塾に学ぶこととなります。 ペリー来航などで日本を取り巻く情勢が変化を見せると、彼は22歳にして開国の必要性を説いた『 図海策』を執筆しています。 1862年に脱藩し、帰郷後に永蟄居(無期謹慎)の処分を受けます。 脱藩は本来は死罪に当たるのですが、彼の才能を評価していた鍋島直正により、彼の罪は軽くなったのです。 大政奉還後に彼の蟄居は解かれます。 戊辰戦争中は、江戸を東京と改めるべきことを岩倉具視に献言したほか、旧幕臣を中心とした彰義隊を瓦解させるなど、活躍を見せました。 明治新政府では、フランスの法制度を高く評価したうえで、近代的な国づくりに尽力しています。 文部大輔や司法卿、参議などの数々の要職を歴任する中で、 学制の基礎固めや司法制度の整備に貢献したほか、山県有朋や井上馨の汚職事件を激しく追及し、両者を一時辞職に追い込んでいます。 しかし、 1873年に征韓論問題から起こった政変で西郷隆盛らとともに下野し、翌年に民撰議院設立建白書に署名して帰郷を決意します。 佐賀に入ると島義勇という人物と会談を行い、その後 佐賀征韓党の首領に擁立されます。 そして 佐賀の乱が起こりますが、江藤らは激しい抵抗を行うも敗退し、彼は捕らえられました。 江藤は釈明の機会も十分に与えられないまま裁かれ、死刑判決を受けることとなります。 そして、 1874年4月13日、死刑は執行されて彼は40歳で亡くなりました。 次に、江藤の残した功績について見ていきます。 江藤新平の功績 江藤新平は幕末期から明治初期にかけて、多くの功績を残しました。 まずは、 1868年の東京奠都(江戸が東京と改められ、都と定められたこと)です。 大久保利通らは当初、大坂遷都の案を唱えていましたが、江藤は同じく佐賀藩士の大木喬任とともに、江戸を東京として、この地を拠点に人心を捉えることが大事と考えました。 そして、東西両京の方針は実現したのです。 明治時代になると、彼は近代国家の建設に向けてさらに活躍します。 ひとつに、 身分や性別の区別なく、国民皆学を目指した学制の基礎を固めました。 そして、従来の「士農工商」の身分の差異をなくし、四民平等の実現に寄与します。 また、 警察制度を整備しました。 これだけ見ても十分な実績なのですが、彼はさらに 司法改革も行なっています。 それについては次章で見ていくことにしましょう! 江藤新平の司法改革とは? 1872年に司法省が設置されると、彼は 司法卿となりました。 彼はイギリス・フランスを手本とした三権分立の導入を目指し、裁判所の建設や民法・国法の編纂を行いました。 こうした功績から、彼は「近代司法制度の父」とも呼ばれます。 次に、江藤の作った指名手配の制度をご紹介します。 指名手配のシステムの創設者? 江藤は1872年、指名手配の制度として写真手配制度を確立しました。 司法改革の一環として、犯罪者の早期逮捕のシステムを作り上げたかったのでしょう。 しかし 皮肉なことに、この制度の最初の適用者は江藤自身だったのです! 佐賀の乱を起こしたことで指名手配された彼は、彼の写真が出回っていたために迅速に逮捕されてしまいました。 前述のように、まともな審議を受けられなかったことから、法を整備した彼自身は、法によっては守られなかったのです。 次の章では、江藤と大久保利通との対立について見ていきます。 大久保利通と対立? 大久保利通(出典:) 明治政府内で要職を歴任してきた彼ですが、とあることから当時の最高権力者ともいえる 大久保利通と対立してしまいます。 それが、 征韓論をめぐる論争です。 征韓論とは、武力によって朝鮮を開国させようという首長であり、江藤や西郷隆盛、板垣退助などがこれに賛成していました。 一方の大久保は、日本国内の政治を整えることを優先すべきだとして、征韓論に反対していました。 この意見対立から、結果として江藤ら征韓派は辞職し、下野することとなりました。 この政変は、起きた年から「 明治六年政変」と呼ばれます。 そして江藤が佐賀に戻ることとなると、大久保は佐賀討伐のための総帥として、自ら遠征を行う準備を整えるのでした。 次の章では、そこから始まる佐賀の乱について見ていきます。 佐賀の乱 佐賀の乱 江藤は佐賀に入ると、憂国党というグループを率いる 島義勇と会談します。 江藤と島は、1850年に枝吉神陽が結成した「義祭同盟」にともに参加した間柄です。 江藤は佐賀征韓党の首領に擁立され、この征韓党と憂国党とが共同して反乱を計画することとなりました。 そして、江藤が佐賀に入ってからわずか5日後の夜、憂国党が反乱を起こしたことで、 佐賀の乱は勃発します。 江藤らは激戦を繰り広げますが、政府軍は野津鎮雄少将自らが先頭に立って活躍するなどし、最終的に政府軍の勝利で幕を下ろしました。 江藤は征韓党を解散して逃亡しましたが、逮捕されました。 次の章では、江藤新平の子孫について見ていこうと思います。 衆議院議員を務め、犬養毅の側近として活躍したことで知られています。 新作の子・ 夏雄も、父と同じく衆議院議員として活動しました。 夏雄の子である 小三郎は、社会運動家、陸上自衛官として活躍しましたが、1969年2月11日の建国記念の日に焼身自殺しました。 この行為は、小説家・三島由紀夫の自決にも影響を与えたとされています。 2018年現在ご存命の方として、江藤新平の曾孫にあたる 江藤兵部さんがいます。 兵部さんは、航空自衛官として活躍し、航空総隊司令官の地位にまで昇った人物です。 次に、江藤新平の墓についてご紹介します。 江藤新平の墓 江藤新平の墓は、佐賀県佐賀市の本行寺にあります。 彼の正しさを知っていた当時の人々は、彼の墓に押しかけ、そのあまりの多さに政府が彼の墓参りを禁止したと言われています。 墓地は広く、墓石も大きく作られています。 次に、江藤新平を知ることのできる本をご紹介します。 江藤新平を知る本 江藤新平は、明治政府に反旗を翻したとはいえ、その多くの功績から、時代を牽引した人物でもあり、さまざまな捉え方ができます。 彼について書かれた本はいくつもあります。 『江藤新平 急進的改革の悲劇』(毛利敏彦、1987年、中央公論新社)• 『司法卿 江藤新平』(佐木隆三、1998年、文藝春秋)• 『江藤新平と明治維新』(鈴木鶴子、1989年、朝日新聞社)• 『歳月』(司馬遼太郎、1971年、講談社) 今回はこのうち『江藤新平と明治維新』『歳月』を取り上げます。 まずは『江藤新平と明治維新』です! 江藤新平と明治維新 『江藤新平と明治維新』は、江藤の実像に迫る作品です。 この作品の特徴は、江藤の血縁者の聞き書きをもとにしているということです。 明治期は大久保利通や西郷隆盛たちばかりが前面に出てきがちですが、この作品を読むことで、江藤がそんな人物たちにも匹敵すると再評価することができるでしょう。 次に、『歳月』について見ていきます! 歳月(司馬遼太郎) 『歳月』は、ノンフィクション作家として有名な司馬遼太郎が、江藤の生涯を描き出した作品です。 栄達を遂げた前半生から、後年佐賀の乱の首謀者として転落してしまった彼を描いたこの作品は、なんと 700頁を超える超大作となっています。 まとめ いかがでしょうか。 それではもう一度、江藤新平について振り返ってみましょう。 1834年に佐賀で生まれた江藤は、生活が貧しい中でも学業で優秀な成績を収め、佐賀藩10代藩主鍋島直正にもその才能が評価されていました。 戊辰戦争中には、江戸を東京と改めることを岩倉具視に献言したほか、旧幕臣を中心として組織された彰義隊を瓦解させるなどの活躍を見せています。 明治政府では、文部大輔や司法卿、参議などの要職を歴任しました。 国民皆学を目指した学制の基礎作りや四民平等の実現、警察制度の整備のほかに、司法改革を行って三権分立の導入を目指しました。 しかし、征韓論をめぐって大久保利通と対立した彼は、明治六年政変によって下野し、佐賀の乱を起こすこととなります。 江藤は奮戦するものの敗れ、逃亡しましたが、彼が政府にいたころ定めた写真手配制度が適用され、すぐに逮捕されてしまいます。 江藤はろくに釈明の機会も与えられないまま死罪の判決を下され、1874年に40歳で亡くなりました。 彼の墓は佐賀県佐賀市の本行寺にあります。 彼の子孫の中には衆議院議員として活躍した人物が複数名おり、江藤兵部さんのように航空自衛官として活躍した方もいます。 江藤新平を知ることのできる本としては、鈴木鶴子著『江藤新平と明治維新』や司馬遼太郎著『歳月』などがあります。 ぜひ一度手に取ってみてください!.

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