禍い 災い 違い。 「災い転じて福となす」とは?意味や使い方を解説!

コロナ禍とは|読み方や意味、使い方・「災」との違い・コロナ禍の影響を受けた業界、働き方の変化を解説

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「パンドラの箱」の使い方 「パンドラの箱」を開けると、禍いが飛び出します。 慣用句で使われている場合、その禍いとは「触れていはいけない話題」であったり、「首を突っ込んではいけない物事」のことを指しています。 その話題をすると逆鱗に触れることになる場合などに使われます。 例えば上司にミスがあった場合に、そのミスが起きた案件や業務について部下や後輩が「あの案件(もしくは業務)ってどうなりました?」などと本人がいるところで聞いてしまうことです。 聞いた本人が上司のミスを知っている場合でも知らない場合でも使われます。 その上司のミス(またそのミスを含めた案件)を「パンドラの箱」と表し、聞いてしまったことを「パンドラの箱を開けた」と表現します。 他にも、婚約破棄をした人の前で、本人の結婚のこと以外でも「結婚の話題」そのものが「パンドラの箱」であったりします。 そういった場合は「今、結婚の話題はパンドラの箱だから!」などと使います。 神ゼウスが、人間の女性を作らせました。 その女性の名前が「パンドラ」です。 このパンドラが地上へ行く際に「絶対に開けてはいけない」と言って、ゼウスはパンドラに「 絶対に開けてはいけない箱」を渡しました。 (この箱は壺だったという説もあります) しかし、開けてはいけないと言われて気にならないわけがなく、パンドラは地上について何日か経ったある日、ついにその絶対に開けてはいけないと言われていた箱を好奇心に負けて開けてしまいました。 その時箱から飛び出してきたのは、「 禍い(わざわい)」でした。 その「禍い」とは、 「争い」「疾病」「悲観」「不安」「憎悪」「犯罪」「欠乏」など、ありとあらゆるの「不幸を引き起こす原因」のことを指します。 パンドラは慌てて慌てて蓋を締めましたが、すでにすべての禍いは人間界に解き放たれてしまいました。 「パンドラの箱」に残ったものは希望? そして、 この閉めたパンドラの箱に最後に残ったものは、「未来がすべて分かってしまう禍い」だとされています。 そのため、人間は災厄に見舞われながらも、「未来がすべて分かる禍い」が出なかった=未来に対する希望だけは失わずに済んだため絶望することなく生きていくこととなりました。 そのことから「 箱に残ったもの=希望」と言われるようになりました。 しかし、いつ禍いが降りかかるかわからないことは盲目の希望とも言われ、「未来がすべてわかる禍い」が出なかったことにより、人は分かりもしない未来に希望や夢を馳せては叶わずに絶望することを繰り返すようになったとも解釈されています。 なんとも、残酷な話ですがゼウスは何がしたかったのでしょうか? ルネッサンス時代の話であり、真相はわかりませんが、、、 しかし、初めての人間の女性として地上に送られた「パンドラ」は、開けてはいけないと言われていたものを開けてしまったわけで、箱をあけなくとも人間には「煩悩」があったことが分かりますよね。

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「コロナ禍」は何て読むの?正しい読み方・意味・使い方とは

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至福と禍福の意味を今日と言う日に考察する機会を頂きました 真田 征則さんに心より感謝申し上げます。 前トピックにて浅田真央さんの例を引用して幸福の定義に肉迫する参考として紹介した記事に真田さんより下記のような言葉が書き込まれました。 > 至福 というのを入れてください。 これは、統合された場での意識です。 「至福」と言う語彙は往々にして世間に誤解を与える解釈に誘導された言葉の一つという解釈をしています。 ソチオリンピックで浅田真央さんが世界に衝撃を与えたインパクトは、まさに今の辞書において翻訳される下記のような言葉の意味と合一しているように瞬間的は思えます。 ソチオリンピックで浅田真央さんが世界に衝撃を与えたインパクトは、まさに今の辞書において翻訳される下記のような言葉の意味と合一しているように瞬間的は思えます。 一般的な「至福」と言う言葉への解釈。 >これ以上ないというほど素晴らしい体験をした時間 >至福のひととき ・ 至福の時 ・ 最高の時間 ・ 最上のひととき >極めて強い快感が生じる時間のこと >甘美なひととき ・ 至福のひととき ・ 至福の時 ・ 最高の一瞬 ・ 至福の一瞬 ・ 最高のひととき 上記のような解釈が多いようです。 しかし、至福の本当の意味とは、あのような絶対的な悦びの瞬間を表す言葉として理解することが正しいのでしょうか? マザーテレサは、「人生とは至福です。 味わいなさい。 」と説いています。 「至福 しふく という言葉の至 し とは、ゆきつく、ゆきついてその先がないetc. の意味となります。 」と言うような解釈は正しいのでしょうか? もしも、それが正しいのであれば最上の至福は、禍い(災い)の始まりとなる可能性が非常に高くなります。 哲学者 ショーペンハウエルは、『幸福について』 目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。 世俗的な幸福の源泉を人のあり方・人の有するもの・人の印象の与え方に大別した上、肝心なのは「人のあり方」であると説いているようです。 マザーテレサは、「人生とは至福です。 味わいなさい。 」と説いています。 マザーテレサの「人生とは至福です。 味わいなさい。 」とは、 「幸せをみつけるきっかけは、幸せと思える心を養うこと」 『幸せ』は外にあるのではなく、自分の中にすでに存在しているもので、それを実感する生き方ができているかどうかを説いていると言われているようです。 >至福に従えば宇宙はあなたのために壁でしかなかったところに扉を開くだろう。 (ジョセフ・キャンベラ) 真田さんが 幸福の定義とはいかなるものか? 世界中の人類及びあらゆる生命とも合致でき、時代を超えて普遍的に合致する究極に合致可能な幸福の定義とはいかなるもでしょう?という私のトッピックに続いてアップした 「悦楽」と言う言葉の理解も世間では、全く異なって解釈し活用されているようですが、「幸福」を定義する為には、「快楽と悦楽の違いとは?」への掘り下げも大切になることを気づかせて頂きましたのでアップします。 と言うテーマに対して書き込んでくれた下記の真田さんのコメントは、私の幸福論の定義づけに一般的な人心誘導型の御用聞き辞書による解釈の奥行きからマザーテレサの視点による真意の至福と言う言葉の意味への扉へと誘導して頂けた言葉だと感じて居ます。 辞書の解釈によって一般的に共有化されている認識と真意が異なる内容への返事となることと、そもそもの「幸福の定義」をより成熟し、整理させる意味においても重要なことと考えましたので、コメント欄によるレスではなくトピックにします。 真田さん「至福」を考察する参考として下記のブログ記事を転載します。 至福と「至福」 ジョーイ・ロット >ジョーイ・ロットのブログの記事をひとつ和訳してみた。 至福についてのもの。 >いろんなミーティングに出てみて感じるのは、至福という想像上の状態についての質問が >けっこう多いということだ。 >「あなたはつねに至福の境地にいるんですか?」と先生に聞く人を何度も見た。 >それから「至福の境地からいつも追い出されてしまうんですが、追い出されないようにするには >どうしたらいいんですか?」という質問もある。 >そのあたりについてかなり噛み砕いて説明している記事だ。 >原文: Bliss >== 以下、訳 == >至福 >ここ最近の話だけど、 大きなくくりで言えば 至福というテーマについて何人かの人たちから話が出た。 >それで、そのことについてちょっと書いてみようかという気になった。 >書く意味があると思うから。 >どんなストーリーを抱えていても、何に関心を持っていても、どういう性格だとしても >、何をしているとしても、ほとんどの人が至福を求めている。 >もしかしたらそんなふうに思ってるのは僕だけかもしれない。 >僕の場合、自分が追い求めている至福の境地というのは永久に続く >オルガスムみたいなものなのかなあと はっきりとじゃないけど 空想していた。 >そういうのは素敵なイメージではある。 >落とし穴でもある。 >だから、至福を定義しなおしたい。 というのも、至福というのはある意味で超越的だったり >途方もなかったり特殊だったりする状態のことだっていうお決まりの観念では、僕の経験するような >至福の現実性が抜け落ちてしまっているからだ。 >おっと、そうは言っても、僕の新しい定義がすぐに受け入れられるなんて思ってない。 なにしろ、 >僕の定義する至福はまるで特別なものじゃないんだから。 >意識が拡張した状態のことじゃない。 いつまでも続くオルガスムとも違う。 >そういうことじゃなくて、僕の定義はこうだ。 たったいま、まったくありのままのこれ。 >自分が何を望んでいるかは関係ない。 こうだったらいいのにというようなことでもない。 >実際はこうなんじゃないかなあと思い描くこととも違う。 ただこれ。 >そしてついに、これに抵抗したり、なにか別のことが起こるかもとか想像したりしなくなること。 >というのも本当に、すべてがものすごく単純なのだ。 気にいるかどうかには関係なく、 >たった今起こっているのが恐ろしいことだったとしても 実際そういうことはときどき起こる 、 >このたった今はまったく否定できないし、まったく変えられないし、まったくどうしようもなく >すでに起こっている。 そこから逃げることはできない。 これはもう起こってしまってるんだから。 >それについて何かをしようとか、解釈しようとか、理解しようとかしたところで、その瞬間には、 >つかもう、わかろうとしているものはもう消えてしまっている。 >あるのは、それについての単なる観念や記憶で、それもたった今起こっている。 >つまり、今、 これが今あるものだ。 というわけで、ボーグは正しかった! 抵抗は無意味だ。 > そう、スタートレックにちょっと登場してもらった とは言っても、 >ボーグというのは よく知らない人もいると思うけど、ボーグというのはSFに出てくる「種族」集合体で >人を恐怖のどん底に陥れる。 というのもボーグはどんな人も同化して、人間を個々のアイデンティティを >失った単なる自動機械にしてしまうからだ 、抵抗を完全にやめたらどうなってしまうんだろうという >恐怖から生まれた空想だ。 >でもここで僕が言っている抵抗というのは、いまあるものに対する抵抗のことだ。 >それがどれだけ無意味かわかるだろうか? いまあるもの、それはいまあるものだ。 >そこから逃げられる見込みはない。 そして、いまあるものに抵抗しなくなると、 >それまでと変わらない現実が単に明らかになる。 抵抗しても現実は変わらない。 >抵抗は、自分はいまあるものとは別の存在だっていう錯覚の強化につながるだけだ。 >意外なのは、抵抗をやめて、自分はこれと別のものじゃないんだということがわかると、 >生きてるってことの創造力と表現が本当の意味で可能になるってことだ。 >実際は、それはいつでも起こっていることだ。 でも抵抗が止まったとき、 >いまあるものがはっきりとしてくる。 >それに、抵抗しなくなったとしても自動機械になるなんてことはない。 >単に、ずっとそうだったことが明らかになるだけだ。 つまり分離している自分というものはないし、 >これがあるだけ。 だから、自動機械になるもなにも誰がですか?っていう話だ。 >ということで、僕らが探し求めている至福は本当の至福じゃなくてただの幻想で、 >そのせいで幻影を追いかけ続けるはめになってしまう。 >本当の至福は、僕の経験から言うと、真の意味での休息だ。 >いまあるものへの対抗が終わること。 これが存在するすべてだってことを絶えず発見し続けること。 >それからそれ以上に、存在するあらゆるものが、自分であるこの無限の生へとずっと還り続けているということを発見し続けるってことだ。 それと至福は、ときどき現れる恐怖のような姿で現れたり、そう感じさせたりすることもある。 >病気。 そういうことは起こる。 >僕らが追いかけている至福という虚構の幻影には、その境地に到達してずっとそこに留まり続ける >ことができれば、生のあらゆる恐怖から守られることになるという保証がついている。 >病気も苦痛も暴力も、きれいさっぱりなくなりますよ、と。 けっこうな空想だ。 >でも実際、もっとよく考えてみると、至福という空想が成立するためには、生そのものの直接性、 >生々しさ、まったくの予測不可能性から隔てられ、切り離されている必要がある。 >というわけで、僕らが 本当に求めているのは、じつはすでにここにあるものなのだ! >僕らが本当に求めているのは、つながり、全体性、包括性だ。 僕らが本当に求めているのは、直接性 >生々しさ、自発性だ。 僕らが本当に求めているのは、まったく今あるとおりにあって、 >これがどんなものだろうとその無限性を果てしなく発見しつづける自由だ。 >そう、 それが至福だ。 まさかと思うかもしれないけど。 >正真正銘自分自身で経験したことによって僕が完全に確信しているのは、なにか 別の至福、 >ここではないどこか、別の場所でいつか別のときに見つけることになる神秘的で魅惑的で >意識が拡大する至福、それを手にすれば自分は完璧になってすべてはいつでも思いどおりに >進むことになるような至福を追い求めること、そういう空想を追いかけるという そのこと自体が >いわゆる苦しみだってこと。 本当に。 >つまり、苦しみの終わりは、至福という空想を追いかけるのを止めることだ。 >苦しみの終わりは、自分が追いかけ続けてきたのが幻影だったってこと、そのせいで >疲れ果ててしまった上でに何も手にできなかったという事実を認めて自分をごまかさないということだ。 >で、平板な感じを感じたら、さらにもっと迎え入れ、手放し続けよう。 >もし気が抜けているとか無慈悲だとか冷たいとか感じられるのなら、手放し続ける。 >あらゆる防御を手放す。 もしからっぽで虚空のような感じがしたら、もうすぐ、ほんとうにもうすぐだ。 >なにしろそれはからっぽさ そのものなんだから。 虚空 そのものだ。 >でもそこにはもっとはるかにたくさんのものがある。 >というのも、それは自分がこれまでに求めてきたものすべて、これまでに拒否してきたもの >すべてだからだ。 その すべてだ。 それは具体的な何かじゃない。 全体性だ。 >だから、それがからっぽであるあいだは、そして本当の至福をあともうすこしで見いだせそうなときは、 >それからからっぽさが至福のように感じられることがあっても 実際そうだからだけど 、手放し続け、 >迎え入れ続ける。 進んですべてを失おう。 どんな状態になってもそれを進んで手放すこと。 >至福の境地もだ。 本当に求めている至福はどんな境地でもないんだから。 どんな感覚とも違う。 >そういうものをすべて含んでいる。 そしてそのからっぽさすら通り抜けてしまったとき、 >自分は手放すことそのものだってことに気づく。 すべてがその中に消え去る無限性、それが自分だ。 >拒まれるものなど何もない。 これが本当の至福だ。 でもそれはこれとまったく同じに見えるし、 >同じ感じがする。 たった今のこれと。 == 訳は以上 == 「シフク」の「シ」に使われる漢字は非常に意味深です。 「死」という「至る」の語彙の究極を表す終わりを象徴するような語彙は、 同じように「シ」と読む漢字の羅列を見ると実は終わりを示していないことを学ばせてくれます。 「シ」と読む漢字の羅列は、実は終わりを表すのではなく、 むしろ循環の起点となる漢字であったり、 本質としては「ちょうど良い」と言う意味を示す漢字が並びます。 「視支史志私示自思此至始止旨糸紫雌次之」などがそれらに当たります。 3・11と言う今日と言う日は、日本史上においての悲運な未曾有な「死」を私達は連想します。 このような「死」を私達が「始まり」という「シ」に変換する力とは如何なるものなのか? という教示を「シ」という読みをする漢字達が私達に大切な教示をしてくれているように私は感じます。 「至福」とは、 自分自身が明らかになる瞬間・・・ 自身を感じる瞬間だと言います。 自身が本当の自身を感じた瞬間、それは何事にも変えられないほど気持ちがよい瞬間だと言われています。 ずっと昔から親しんできたストーリーが見つかる瞬間・・・ その感情を取り巻く経験が見つかる瞬間・・・ 「ちょうど良い」を知る力。 「自身にとってちょうど良い」に導く力。 丁度の「丁」は、至る先を表す言葉です。 私達日本人が「頂きます」をとても大切にしてきた意味は、殺生の心にあります。 至を表す「丁」と頭と次への始まりの意味を表す「頁」の組み合わせの「頂」に手を合わす心は、まさに「シ」そのものへの感謝を表す言葉だと言われて居るようです。 1頁ごとに人生の扉を丁寧に開いていくような味わいをマザーテレサは。 日本語の意味を知らなくても世界共通の遺伝子レベルに共感する力でメッセージを贈っているように思われます。 3・11の被災によって命を引き継いだ人々の新たな頁を開くために我々ができることや、暫定的に現世の命を至る起点を体現した人々の思いに繋ぐためにマザーテレサの言葉は、とても大切な教示をしているのだと思います。 「至福」も「自身にとっての節度ある調度良い」という体感を感謝の力とできない人生を歩み出せば、『禍福』の節目に豹変します。 浅田真央さんは、当用漢字の辞書の意訳による「至福」に祝福されました。 しかしその祝福が同時に、「禍い」(ワザワイ)を引き込む力に転換してしまうのかは、浅田真央さんの心が決めることです。 聡明な浅田真央さんが当用漢字の意訳の熱狂の悦びから、「禍い」を呼び寄せる人生翻弄されること無く、マザーテレサのような学びを自信の人生の羅針盤とするような記憶に昇華させることを心から祈っています。 「禍福は糾える縄の如し」 禍福は糾える縄の如しとは、幸福と不幸は表裏一体で、かわるがわる来るものだということのたとえ。 災いと幸福は表裏一体で、まるでより合わせた縄のようにかわるがわるやって来るものだ。 不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりする。 成功も失敗も縄のように表裏をなして、めまぐるしく変化するものだということのたとえ。 『史記・南越列伝』には「禍に因りて福を為す。 成敗の転ずるは、たとえば糾える縄の如し」とあり、『漢書』には「それ禍と福とは、何ぞ糾える縄に異ならん」とある。 「糾える」は文語動詞「あざなふ」の命令形+完了を表す、文語助動詞「り」の連体形からで、「あざなふ(糾う)」は「糸をより合わせる」「縄をなう」を意味する。 人間万事塞翁が馬 「絶対的幸福というものは存在しない」社会心理学者アブラハム・マズロー.

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『コロナ禍』ってなんて読むの?「禍」の読み方と意味・ことわざ

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「禍」の読み方と意味 「禍」は「か」「まが」「わざわい」と読みます。 「禍」の意味は、 「わざわい・不幸せ・災難・災厄」 です。 「禍」の漢字の成り立ち 禍の漢字の成り立ちを見ていきましょう。 「禍」の部首はしめすへん。 しめすへんはもともと「示す」という文字で、祭壇をあらわしています。 「禍」漢字の右側の意味はくぼんだ穴。 くぼんだ穴と祭壇が組み合わされた漢字で、 「神のタタリを受けて、落とし穴にハマる」ことを表しています。 このことから、「禍」は「わざわい・不幸・災難・災厄」の意味を持った漢字となっています. ちなみに、鍋(なべ)は金属とくぼんだ穴という文字を組み合わせた漢字。 渦(うず)は水を表す「氵(さんずい)」と「くぼんだ穴」という意味を持つ文字が組み合わされています。 「禍」を使った言葉・ことわざ 続いて、「禍」を使った言葉・ことわざを紹介していきます。 「コロナ禍」の意味は、 「新型コロナウイルスによる災難」ということになります。 最後に 今回はニュースの見出しに使われている「コロナ禍」の「禍」の読み方や意味、「禍」を使った言葉やことわざを紹介しました。 「コロナ禍」と書いて「ころなか」と読むのが妥当だと思います。 「禍」は 「わざわい・不幸せ・災難・災厄」 という意味を持った漢字です。 ちなみに、「禍い(わざわい)転じて福をなす」ということわざの「わざわい」は今までずっと「災い」だと思っていました。 今回調べて初めて知りました。 「まがまがしい」も「禍」が使われることも初めて知りました。 といういことで、今回は「コロナ禍」の「禍」ってなんて読むの?禍の読み方・意味・「禍」を使ったことわざについて紹介しました。 あわせて読みたい記事 参考:「例解学習漢字辞典 第八版 オールカラー版 発行:小学館」「広辞苑 第四版 発行:岩波書店」 スポンサーリンク.

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