大瀧 詠一。 大滝詠一の歌詞一覧リスト

大瀧詠一とは (オオタキエイイチとは) [単語記事]

大瀧 詠一

2013年12月31日、大瀧詠一さんが亡くなられた。 むかしばなしを一節語って供養に代えたい。 1976年の3月に野沢温泉スキー場で『楽しい夜更かし』を聴いたのが最初の大瀧音楽経験だった。 スキー場から戻ってすぐにレコード店に行って『Niagara Moon』を買い、以後37年忠実なナイアガラ-として過ごした。 大瀧さんとはじめてお会いしたのは2005年8月21日。 そのときの感動については当時の日記に詳しいので再録。 「行く夏や明日も仕事はナイアガラ 長く生きているといろいろなことがある。 まさか大瀧詠一師匠にお会いできる機会が訪れようとは。 お茶の水山の上ホテルの玄関で、キャデラックで福生にお帰りになる大瀧さんを石川くんとお見送りして、ただいまホテルの部屋に戻ってきたところである。 午後3時から始まった対談は二次会のホテルのレストランから「営業時間終わりです」と言われて追い出されるまでなんと8時間半続いた。 いやー、話した話した。 30年間のナイアガラーとして大瀧さんに訊きたかったあのことこのこと、もう訊ける限り訊いた。 8時間半の話はとても文藝別冊『大瀧詠一/大滝詠一』特集号には収録しきれないだろうから、残念ながらみなさんにお読み頂けるのはそのごくごく一部である。 小学四年生のときの「右投げ左打ち」転向のことから始まって、中学高校時代のレコードライフへの耽溺、布谷文夫さん細野晴臣さんとの出会い、はっぴいえんど時代、『Each Time』からの15年の音楽活動、『幸せな結末』録音秘話、山下達郎、伊藤銀次両君にまつわる逸話の数々、音韻論にもとづく歌唱法、エルヴィスのオリジナリティ、楽曲を提供した数々の歌手の話、遠藤実、船村徹、星野哲郎、小林信彦、ムッシュかまやつ、高田渡、植木等、ハナ肇、上岡竜太郎さんらとのインタビュー・バックステージ話、竹内まりやとのSomething stupid 録音の経緯、太陽族映画と現代政治との関連性・・・と話頭は転々奇をきわめて録することがかなわない。 敬して止まない師匠の「分母分子論」以来の系譜学的思考のほとばしるような叡智のおことばを全身に浴びて、私はこの希有の人と同時代を生き、まみえることのできた喜びに手の舞い足の踏むところを知らなかったのである。 昨年の『ユリイカ』の「はっぴいえんど」特集に私は「大瀧詠一の系譜学」と題する短文を寄せた。 大瀧さんはこれをお読みになって私の述べるところを諒とされて、私と石川くんという「ナイアガラー第一世代」との交歓のひとときを快諾せられたのである。 実際にお話しを伺ってみて、私は自分がいかに大瀧さんのものの見方に深い影響を受け、その思想を知らぬまに血肉と化していたことを改めて思い知った。 このような機会を恵んで下さった編集の足立さん、ソニー・ミュージックの城田さんはじめ関係者のみなさんに御礼を申し上げたい。 なにより、『ユリイカ』に「大瀧詠一について書くなら、ウチダさんでしょう」と推輓の労をとってくれた増田聡くんにお礼を申し上げる。 彼は私の人生の節目節目に登場して思いがけない出会いへと私を導いてくれる守護天使のような人であることがだんだんわかってきたよ。 そして、私のナイアガラー・ライフを30年にわたって支えてくれた石川茂樹くんの友情ある忍耐に感謝。 」 上に記した「大瀧詠一の系譜学」も再録しておく。 大瀧詠一の系譜学 1・ 「大瀧詠一の系譜学」と言っても、別に大瀧さんの故事来歴をご紹介するわけではありません(ご紹介したくても、知らないし)。 そうではなくて、これは一「ナイアガラー」によるところの、大瀧さんの(ふつうはこういう文章では敬称を略するのですが、どうにも抵抗感があるので、敬称つきで続けさせて頂きます)系譜学的な音楽史の卓越性を讃える試みであります。 私は大瀧詠一さんの音楽史こそは ミシェル・フーコーを学祖とする 構造主義系譜学の日本における最良の実践例の一つだとつねづね考えてきました。 今回、縁あって、いささかの紙数を『ユリイカ』編集部からお借りすることができましたので、この論件について、広く日本全国の皆さまのご理解を賜るべく、以下に思うところを述べたいと思います。 最初に、二点だけ確認させて頂きます。 第一に、本稿は冒頭で名乗っております通り、「ナイアガラー」という党派的立場からなされる論考です。 はなから「ナイアガラの擁護と顕彰」のために書かれたテクストでありますから、「そういうもんだ」と思ってお読み下さい。 「学術的中立性が欠けている」とか言われても困ります。 第二に、本稿が扱うのは、大瀧さんの音楽史の方法でありまして、その音楽そのものではありません。 大瀧さんはみずからの方法についてきわめて自覚的な人で、83年の「分母分子論」以来、折々にその理論的基礎づけを行ってきていますけれど、ナイアガラーの皆さんの中に、大瀧さんの方法の卓越性について検証された向きは、これまではおられないようです。 私はさいわいフランス現代思想が専門ですので、そのささやかな知見を動員して、いまだなされていない方面からのアプローチを試みてみたいと思います。 『ユリイカ』の「はっぴいえんど特集号」をご購入のみなさんの中に、「ナイアガラー」の語義をご存じない方はたぶんおられないと思いますが、一応念のためにひとこと解説しておきます。 「ナイアガラー」というのは、大瀧詠一さんが実践してきた音楽活動(には限定されないもろもろの活動)をフォローすることを人生の一大欣快事とする人々の総称です。 ナイアガラーが通常の音楽ファンと違うところは、この「フォロー」行為が、新譜購入や追っかけやツァーでも「出待ち入り待ち」といった定型的なファン活動のかたちを取らない(というより「取れない」)点にあります。 というのは、ご承知のとおり、歌手「大滝」詠一氏は『Each Time』のあと『幸せな結末』まで13年間作品をリリースしませんでしたし、コンサートも『ナイアガラ・ツァー』を最後に20年以上停止してきているからです。 ナイアガラーたちを「失望を織り込み済みの期待」のうちにとどめおいていた17年ぶりのニューアルバム企画『2001年 ナイアガラの旅』(仮題)も発売されることなく終わりました。 けれども、それに不満をもらすような狭量な人間は、そもそも「ナイアガラー」とは呼ばれないのであります。 では、ナイアガラーたちは何で「満たされている」のかと言いますと、大瀧さん自身のことばを借りて言えば、大瀧さんの「広義における音楽活動」によってなのであります。 「広義における音楽活動」とは何のことでしょうか? 山下達郎さんとの『新春放談』 99年 で、大瀧さんは「音楽活動」について独特な定義を下しています。 同じ年の1月にNHKで放送されるラジオ番組『日本ポップス伝2』について論じたときのことです。 大瀧さんはこう語っています。 「大瀧:自慢じゃないんだけどさ。 あれは今回、自分のアルバム以上のものなんだよ(笑)。 音楽活動ということがアルバムづくりとかシングル製作だけに集約されるということ自体がね、おれは非常に偏った考え方だと思ってるわけ。 音楽なんてそんな狭義なものじゃないんだよ。 ものすごく、広義のもんなんだよ。 だからあれがおれのニューアルバムなんだけど、どうせ分ってもらえないだろうな、とはなから思ってるんだ 笑。 」(『新春放談』、1999年、1月3日) 『日本ポップス伝』は大瀧詠一さんの「ライフワーク」とでもいうべき仕事で、明治以来の近代音楽史の読み直しをめざした壮大な企図のものです。 その全五回、八時間に及ぶ音楽史講義は、大瀧さんの持論であるところの「分母分子論」を実際の楽曲を資料に、徹底的に考究したものです。 ですから、ナイアガラーの条件は、このような学術的講義を「大瀧詠一のニューアルバム」として満腔の歓びをもって享受することができる人、ということになります。 録音テープをすり減るまで繰り返し聴くのでは足りず、テープ起こしを「写経」と称して楽しむナイアガラーまでいたんですから。 2・ では、本題に入りましょう 大瀧詠一さんの音楽史の方法は構造主義系譜学の方法を実践している。 私は上にそのように書きました。 「構造主義系譜学」とはどういう方法のことなのか。 具体的な方が話が早そうなので、ピーター・バラカンさんとのラジオ対談の中での、次のような発言からご紹介しましょう。 「ビートルズって、今見ると、変なスーツ着てるし、別に大騒ぎするほどロングヘアーでもないし、不良っぽくないじゃないですか。 あれをどうして当時のイギリスの人はショッキングに感じたんですか」というリスナーからの質問にピーターさんはこう答えました。 「バラカン:ショッキングになんか感じませんでしたよ。 だから、ショッキングに感じないように、マネージャーのブライアン・エプスタインがわざわざあんなスーツ着せていたわけですから。 ジョン・レノンは非常に嫌っていたようですけどね。 髪の毛の長さは、そりゃ90年代の基準から考えれば、もちろん短く見えますけどね。 ビートルズ以前のことを考えれば、それは長かったんですよ。 」 大瀧さんはそれにこう続けています。 「今の基準で考えれば短いけれども、って言うけれど、何でも今基準にして考えちゃいけません。 どちらかというと、昔から流れて来ているから今があるんですからね。 歴史を逆に見ちゃいけないということですよ。 」(FM横浜、『我が不滅のリバプール』、1997年2月7日) ここで大瀧さんは若いリスナーに発想の切り替えを要求しています。 それは「今・ここ・私」を中心としてものを見ることを自制せよ、ということです。 系譜学的思考の第一条件は何よりもまずこの「節度」です。 学問的方法の条件が「節度」であるなんて言うと変に聞こえるでしょうけれど、「節度」というのは実は学問的にはとても大切なことなのです。 というのは、人間は例外なく自分の判断の客観性を過大評価する傾向にあるからです。 それはことばを言い換えると、「今・ここ・私」の批評性を過大評価するということです。 「ビートルズの髪はそれほど長くない」という判断を自明のものとするためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要です。 大瀧さんはラジオ放送のときに、きびしい口調でこのリスナーの自己中心性をたしなめました。 おのれにとって「自明」であり「自然」と思えることを、そのまま「現実」と思い込まないこと。 自分の「常識」を他の時代、他の社会、他の人間の経験に無批判的に適用しないこと。 それが系譜学者にとって、第一に必要とされる知的資質です。 3・ 私たちの自己中心性と愚鈍さの核にあるのは、判断基準のでたらめさではありません。 むしろ、判断基準のかたくなさです。 マルクス主義が支配的なイデオロギーである時代が終わった今でも、多くの人々は依然として歴史は「鉄の法則性」に従って粛々と「真理の実現」に向かって流れていると信じています。 これは、ほんとうです。 さすがに人間社会が「未開」から「文明」へ直線的に進化していると素朴に信じている人は少なくなりましたけれども、いまここにあるものだけが存在するに値するものであり、存在するに値しないものは消滅した(あるいは、消滅したものは、存在するに値しなかったものだ)という「歴史の淘汰圧」についての信頼はにわかには揺るぎません。 「これからは・・・の時代だ」とか「・・・はもう古い」ということばづかいの前提にあるのは、この歴史の淘汰圧への盲信であると言ってよいでしょう。 このような考え方を本稿では「歴史主義」と呼ぶことにします。 歴史主義は音楽史を語るときの私たちの考え方にも深く浸透しています。 現に、いまだに「今・ここで・私が」聴いている楽曲こそ、歴史の審判と市場の淘汰を生き延びた、もっとも洗練され、もっとも高度で、もっとも先端的な音楽であると、何の根拠もなく信じているリスナーは少なくありません。 人々の嗜好が変わり、ひとつの音楽ジャンルが衰微すると、それにつれて、それまで我が世の春を謳歌していたプレイヤーもソングライターもプロデューサーも・・・次世代に席を譲って、表舞台から退場する・・・という諸行無常盛者必衰の歴史主義が声高に語られ、リスナーはそれを信じ込まされています。 もちろん、音楽商品が短期的に無価値になる方が資本主義的にはベネフィットが大きいからです。 けれども、音楽の「変化」(それは決してレコード会社や音楽評論家たちが信じさせようとしているように「進化」ではありません)はほんらいもっとランダムで、もっとワイルドなものだったのではないのでしょうか? キャロル・キングの音楽的遍歴について山下達郎さんと語った中で、大瀧さんは「ひとりの音楽家にひとつの音楽ジャンルでの活動しか認めない」硬直した歴史主義に鋭い批判を突きつけています。 「山下:大瀧さんは『ロコモーション』から始まってずっと来て、自分でプロになって、はっぴいえんどをやるときにバッファロー・スプリングフィールドになるわけじゃないですか。 だけど、結局あの、バーズとあの周辺のウェストコーストのああいうもので、いきなりあそこで出てくるじゃないですか、キャロル・キングが再び。 大瀧:再び出てきたわけよ。 何なんだ!と思ったよ、だから。 『ユーヴ・ガッタ・フレンド』で。 キャロル・キングでしょ。 山下:どう思いました? 大瀧:何してんのと思ったよ。 ずうっと、お化粧変えてさ。 何なんだと思って(笑)。 でも、その曲って、ヒットしてるじゃない。 知らなかったから。 それでキャロル・キングって言うからさ。 はあっと思ったよ。 あ、歌っていうのは歌なんだ。 つまりさ、『ロコモーション』はダンスナンバーだ、『ユーヴ・ガッタ・フレンド』はシンガーソングライターだ。 そんなことはどうでもいいんだ(笑)。 なあんだ、歌は歌じゃねえか。 そう思ったのよ。 ・・・ だからさ、同じ人間がいろんなタイプの曲作っていいわけよ。 ・・・ 船村(徹)さんがね、自分だって、『ダイナマイトが百五十屯』とか、いろんなああいうの作っていたんだと。 やっていくうちに『王将』が出て、『王将の船村、船村の王将』ってことになって、まわりがみんな、ああいう曲じゃなきゃあ、という感じになってきて・・・というのがよくわかったんだよ。 」(『新春放談』、2002年1月13日) ここで大瀧さんは「同傾向の楽曲を繰り返し聴きたい」というリスナーたちの欲望(とそこから利益を引き出すビジネスの要請)が、音楽家をひとつのジャンルに縛り付け、彼らの「曲を作る自由」を抑圧し、ジャンルと運命を共にすることをほとんど強要することで成立しているという事情を指摘しています。 音楽家たちは収益の高そうなジャンルに縛り付けられます。 例えば、演歌というジャンルの収益率が高ければ演歌ジャンルにリソースが集中され、それが売れなくなれば、ジャンルごと「歴史のゴミ箱」に棄てられる。 そして、収益の高そうな次のジャンルに人々は雪崩打つ・・・音楽ビジネスはそんなふうに、ジャンルを短期的に使い捨てにすることで収益を上げてきました。 そして、そのビジネス戦略のためには、「音楽史はそのつど最高の音楽ジャンルが継起的に出現する不可逆的な進化のプロセスである(つまり、最新の音楽が最高の音楽である)」というほとんどヘーゲル的な歴史主義イデオロギーをリスナーと分かち合うことが必要だったのです。 大瀧さんの音楽史のねらいの一つはこの素朴な進歩史観を退けることにありました。 歴史主義への痛烈な反証として、大瀧さんは、ジャンルの消長にもかかわらず、つねに「同じ音楽家」が、そのつど異なるジャンルで良質の作品を提供し続けているという(業界内部的には熟知されているけれど)リスナーにはあまり知られていない事実を示します。 60年代のボビー・ヴィーやクッキーズのアイドル歌謡から、エヴァリー・ブラザーズの『クライング・イン・ザ・レイン』、『ロコモーション』、スティーヴ・ローレンスのバラード、70年代の『タペストリー』まで、ジャンルにとらわれず縦横無尽の活躍をしたキャロル・キングは、ご存じの通り、大瀧さんの変わることのない敬愛の対象です。 そのことは、大瀧さんの伝説的なDJ番組『Go! Niagra』 ラジオ関東 がキャロル・キング特集から始まったことからも窺い知ることができます。 その敬意の理由は、もちろんキャロル・キングの音楽性(大瀧さんのカテゴライズによると「教条主義的・啓蒙主義的な匂いのある」曲想)に対する嗜好もありますけれど、彼女が「歌っていうのは歌なんだ」というきっぱりとした主張を貫いて、音楽における歴史主義に対する「生きた反証」となっていることへの共感もおそらくはかかわっているのではないでしょうか。 『ロング・ヴァケーション』がキャロル・キングへのオマージュであることは、大瀧さん自身も認めています。 「山下:ぼくこのあいだキャロル・キング特集、自分で三週間やってみて、何がいちばん面白かったかというと、いかに大瀧さんがね。 キャロル・キングに、とくに『ロンバケ』。 ナチュラルにぱっとああいうふうに出したときに。 キャロル・キングをいかに大瀧さんがよく取っているかと思う。 そう思うほどにキャロル・キングがよくわかっているんだなということが、ぼくはよくわかった。 だって、聴くとわかるんだもん。 大瀧:1、2、3は完璧にキャロル・キングですよね。 」(『新春放談』、2002年) 大瀧・山下ご両人の伝説的プログラム『新春放談』(これはナイアガラーにとっては20年来の、年に一度の「お年玉」です)でもっとも頻繁に言及されるミュージシャンの名前は、キャロル・キングとエルヴィスと小林旭とフィル・スペクターですが、私の記憶が正しければもう一人います。 それはハル・ブレインです。 何度も聴いているうちにヴォーカルもギターもだんだん印象が薄くなって、いつしかドラムばかり聞こえるようになる・・・という不思議な経験はハル・ブレインならではのものです。 このハル・ブレインに対する大瀧・山下ご両人の高い評価はもちろん何よりもまずその卓越した技量に対するものなのですが、それと同時に(キャロル・キングの場合と同じく)、「ジャンルの消長に伴って、古いミュージシャンは新しいミュージシャンによって駆逐される」という歴史主義イデオロギーをハル・ブレインの存在そのものがきっぱりと否定していることへの共感によるものではないかと私は思います。 系譜学者の第二の条件、それは「歴史はある法則性に従って、粛々と進化している」という物語を決して軽々に信じないこと、これです。 4・ すぐれた音楽家は、どのような音楽的リソースからも自由に楽想を引き出すことができる。 「歌は歌だ」という大瀧さんのことばを私なりに書き換えると、こんなふうになります。 「どのような」に傍点をふったのは、ぜひその点を強調したいからです。 大瀧さんは前出のピーター・バラカンさんとの対談の中で、(ピーターさんの嫌いな)ハーマンズ・ハーミッツの『ヘンリー八世くん』を掛けたあとに、次のような驚くべき指摘をしています。 「大瀧:皆さん、お聴きになりましたか、いまのエンディング。 『シェー』いうてまんねん、これ。 (笑)ほんとだよ。 ちょうど『おそ松くん』がはやっているとき、日本に来たのよ。 それで、『シェー』が気に入って、帰って行ったの。 いや、マジ、マジ。 ほら、これ見て、日本に来たとき、みんな『シェー』してるでしょ。 写真、証拠写真。 来日したとき、『シェー』が気に入って。 『ヘンリー八世くん』のエンディングは『シェー』なんですよ。 知らなかったでしょう?」 大瀧さんはここで、全米、全英のヒットチャートをにぎわした『ヘンリー八世くん』(ほんとにひどい曲だけど)のエンディングが赤塚不二夫からの「盗用」であったというトリビアな情報を披露しているのではありません。 そうではなくて、私たちが「ロックは英米発のもので、日本人リスナーはそれを受動的に享受することしかできない」という前提に立って、「だからなんとかして英米の流行にキャッチアップしなきゃいけない」という歴史主義の論法を(それは今日では「グローバリズムの論法」というのとほとんど同じことですね)無反省的に採用していることについて、自制を求めているのです。 音楽の伝播というのは、人々が思っているほど一方向的なものではないし、時代とともに「進化する」というものでもありません。 それは時間と空間を行きつ戻りつし、さまざまな非音楽的なファクターをも吸い寄せて、絶えざる変容と増殖を続ける不定形的でワイルドな運動なのです。 ピーター・ヌーンがおのれの「出っ歯」的風貌の戯画的な達成を赤塚が造型した「イヤミ」の図像のうちに見い出して、深い親しみを覚え、そこから音楽的アイディアを得て、全世界に発信した・・・というようなことは「ロック英米渡来説」を素朴に信じる限り、なかなか理解しがたいことです。 けれども、「イヤミ」のモデルがトニー谷であり、トニー谷がアメリカのボードヴィリアンの戯画であったことを考え併せると、そこにはおそらく俗眼には見えにくい「因果の糸」が紡がれているのです。 5・ 大瀧さんの音楽史の真骨頂は、この「目に見えない因果の糸」を自在に取り出す手際にあります。 この名人芸を支えるのは、もちろん大瀧さんの膨大な音楽史的知識であるわけですが、通常の音楽評論家と大瀧さんの違いは、その音楽史が過去から未来にではなく、しばしばそこでは時間が現在から過去へ向けて逆走する点にあります。 そして、このような逆送する時間意識こそ、系譜学者の第三の条件なのです。 歴史学者と系譜学者の発想の違いを一言で言うと、歴史学者は「始祖」から始まって「私」に達する「順-系図」を書こうとし、系譜学者は「私」から始まってその「無数の先達」をたどる「逆-系図」を書こうとする、ということにあります。 歴史学的に考えると、祖先たちは最終的には一人に収斂します。 『船弁慶』の平知盛が「われこそは桓武天皇九代の後胤」と告げるのは典型的に歴史主義的な名乗りです。 しかし、これはよく考えるとかなり奇妙な計算方法に基づいたものです。 というのは、私たちは誰でも二人の親がおり、四人の祖父母がおり、八人の曾祖父母・・・つまり、私のn代前の祖先は2のn乗だけ存在するはずだからです。 平知盛の九代前には計算上は512人の男女がいます。 にもかかわらず、知盛が「桓武天皇九代の後胤」を名乗るとき、彼は残る511人をおのれの「祖先」のリストから抹殺していることになります。 たしかに、歴史学的な説明はすっきりしています(しばしば「すっきりしすぎて」います)。 系譜学はこの逆の考え方をします。 「私の起源」、私を構成している遺伝的なファクターをカウントできる限り算入してゆくのが系譜学の考え方です。 ファクターがどんどん増えてゆくわけですから、これをコントロールするのは大仕事です。 けれども、まったく不可能ということはありません。 それは、炯眼の系譜学者は、ランダムに増殖するファクターのうちに、繰り返し反復されるある種の「パターン」を検出することができるからです。 歴史学者がレディメイドの「ひとつの物語」のうちにデータを流し込むものだとすれば、系譜学者は一見すると無秩序に散乱しているデータを読み取りながら、それらを結びつけることのできる、そのつど新しい、思いがけない物語を創成してゆくことのできる人のことです。 『日本ポップス伝2』で、大瀧さんは遠藤実さんの曲を時間を逆送しながら聴くことで、それまでどのような音楽史家も思いつかなかったような「物語」を提出してみせます。 千昌夫の『星影のワルツ』をかけた後、大瀧さんは「この曲の前に、遠藤さんはこのタイプの曲をつくっています」として、同じワルツ形式の舟木一夫の『学園広場』に遡航します。 「こうなると遠藤さんのその前の曲というのを聴きたくなってきますね。 島倉千代子さんの『襟裳岬』というのをちょっと聴いてみましょう。 」 『襟裳岬』をかける 「これが島倉千代子さんの『襟裳岬』ですけれど、『襟裳岬』というと、みなさんはこちらの方の曲を思い起こすのではないかと思われます。 」 森進一の『襟裳岬』をかける 「誰が聴いても、『襟裳岬』というと、今はもうこれを思い出すと思うんですけれども、島倉さんのヴァージョンの方が先な訳ですよね。 ・・・ 偶然だと思うんですけれど、私思うには、これは決して偶然じゃないんですね。 偶然なんですけど、歴史的な必然が実はあるんです。 なぜか、襟裳岬を選んでしまったと思うんですね、岡本おさみさんは。 実はそのオリジナルが遠藤実さんだったんですよ。 で、この吉田拓郎ヴァージョンと島倉ヴァージョンに何の関係があるかというと・・・次の曲を聴くと分る、ということになっています。 」(千昌夫『北国の春』をかける) 「『北国の春』、千昌夫なんですけど。 これ遠藤実さんなんですよね。 ・・・ 70年代の日本の若者によって作られたフォークというジャンルがあるんですけれど、島倉さんよりも拓郎ヴァージョンの方が有名になりました。 けれど、実は本家は遠藤実さんだったんですよ。 で、遠藤実さんも、負けてはいられないのというので、『襟裳岬』の後に『北国の春』でその位置を奪還したんじゃないかなと思います。 70年代フォークというと吉田拓郎さんですけれど、その前に岡林信康さんがいて、その前にさらに千昌夫さんがいたんですよ。 日本のフォークというのは遠藤実さんが創始者である、と私は思います。 といいながらもね・・・実は千昌夫さんにも先達がいるんです。 歴史というのはそういうものですね(笑)。 千昌夫さんの先達はこの人です。 」(『新相馬節』をかける) 「これが三橋美智也さんの『新相馬節』です。 ・・・ この人が歌謡曲に本格的な民謡の小節を入れた最初の人なんですね。 この人以上にうまく入れてる人は他には後は出てこないんすね。 最初の人のすごいところというんでしょうか。 で、結局、日本のフォークはこの人が原点だったんですよ。 三橋美智也が。 『北国の春』は70年代の一つの頂点でしたけれど、三橋さんの頂点はこの曲でした。 」(『達者でナ』をかける) 「これがもう日本のフォークの祖ですね。 ・・・ 日本のフォークはこれです。 これが原点なんです。 誰が何て言っても。 」 日本のフォークの中興の祖には岡林信康さんがいて、はっぴいえんどはそのバックバンドとして活動した時期があります。 ですから、大瀧さんが概括したこの流れには、大瀧詠一さん自身を含む風景が描かれているわけです。 よく知られている通り、はっぴいえんどはバッファロー・スプリングフィールドをドメスティックに解釈するところからスタートしたわけですが、大瀧さん自身は、そのはっぴいえんどの代表曲『春よ来い』が三橋美智也さんの『リンゴ村から』に深いところでインスパイアされたものであり、それゆえに70年代の(尻尾にいまだ「前近代」をひきずっていた)聴衆に支持されたのだという音楽史の「必然」を過たず見据えています。 このようなファクターは、「ジャンルの消長」という「単純な物語」で音楽史をとらえる立場に立つ限り、決して主題化されえないものだと私は思います。 系譜学者の第四の、そしてもっとも重要な条件は、自分自身を含む風景を俯瞰する視座に立つ知性です。 『ユリイカ』編集部から与えられた紙数をすでに大幅に超過してしまったので、「分母分子論」と系譜学の関連についてさらに論及することはできなくなりました。 最後に大瀧さんのみごとなことばで私の論考を締めさせて頂きます。 「分母でも地盤でもいいけど、思ったのは、その下のほうにあるものをカッコにしてしまわないで、常に活性化させることが、やっぱり上のものがあるとすれば、そこがまた活性化する原因だと思うんですよ。 だから、そのひとつとしてパロディ作品にトライしてみるとか、確認作業とか、そういうことをやってるんですよね。 だから、常に一面的な見方の地盤というんじゃなくて、その地盤も変幻自在に変わっていく部分もあると思う。 そこを見つめていくことが大事じゃないかって考えてるんです。 」(「分母分子論」、『FM fan』、83年4月号) 過去を歴史のなかに封印することなく、つねに活性化させ続けること。 大瀧さんのこの方法論的自覚こそ、系譜学的思考の核心をひとことで言い切っていることばだと私は思います。 (ナイアガラ関連の資料提供につきまして、30年来のナイアガラー・フレンドである石川茂樹くんのご協力に深く感謝いたします。 ) (2013-12-31 14:54)•

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大瀧 詠一

背景 [ ] のセカンド・アルバム『』 は、1971年5月7日 1971-05-07 からレコーディングが始まるが、の意向により8月3日、のレコーディングで知り合ったがエンジニアとして参加することが決まった。 ここから『風街ろまん』の実質的なアルバム制作が開始され、「夏なんです」「風をあつめて」「花いちもんめ」が吉野ミキサーによって録音された。 しかし、本格的に吉野で『風街ろまん』の制作が始まった頃、はほとんどの作品をミキサーの手によって既に仕上げていたため、吉野が手掛けた大滝作品は「春よ来い」のアンサー・ソングである「春らんまん」と、「いらいら」の続編である「颱風」のみとなった。 そして「夏なんです」等の細野作品に大滝は全く参加していないため、スタジオで一人ヒマな時間が増えていった。 そこでこの『風街ろまん』をからリリースしたいと目論んでスタジオに日参していたディレクターとの無駄話の時間が増えていった。 はっぴいえんどが在籍していたは原盤制作会社でもあり、のシングル盤は原盤供給という形でから発売されていた。 そして、1970年 1970 の『』のライブ盤の供給を受けたキングの担当が三浦だった。 そこで、はっぴいえんどの原盤供給を受けたいということで、シングル「」 がキングからシングル発売されることが決定した。 しかし、普通の原盤供給であるなら、同じ音源を使用するのが通例だが、はっぴいえんどは、どうせ出すならばと、シングル・バージョンを再録することにした。 しかし、このような前例がないため、その制作費をどこが持つのかという問題が発生し、原盤及び販売会社が困ったという。 更に、一度録音した音源をボツにして、また録音し直したいというグループのわがままから、制作費の高騰という問題も起きた。 そこでキング・スタジオが提供されることになり、キングはシングル発売にこぎつけたという。 そして、シングルに続いてアルバムもキングから出したいということになり、後に『風街ろまん』というタイトルになるはっぴいえんどの二枚目のアルバムのレコーディングは当初、キング・スタジオで始められた。 ところが途中ではっぴいえんどはどうしてもURCが譲れないとなり、そこでキングとURCは「ソロならばキングから出してもいい」と新たなアイディアを持ち出し、その最初として大滝のソロ・アルバム制作が決まったというのが、本作の制作経緯だった。 そして、その後は細野、という順番が予定されてもいたという。 1972年2月17日 1972-02-17 、ベルウッド発足記者会見が行われ、大滝はソロを継続する意味合いで参加する。 その結果、1枚目はURC原盤、2枚目からベルウッド原盤という変則的な形で、「空飛ぶくじら」はベルウッドの3枚目のシングルとして発売された。 三浦は出版をに預け、大滝はここでと初めて会うこととなった。 そして、大滝にとって特に因縁の作品となった「空飛ぶくじら」はアルバムには入れなかった。 『』 というシンプルなものだったことから、このファースト・アルバムも名前だけの『大瀧詠一』となった。 ただし、アーティスト名と区別するため、一般には『ファースト』と呼ばれている。 アルバム中袋にはこのアルバムを支えた人たちの写真と、ハーモニカを手に持った2歳ぐらいの時の大瀧自身の写真が付けられている。 収録曲 [ ] Side I [ ]• おもい — 1:03 大滝が1968年にと知り合った時、2人を仲介したのが中田佳彦(の甥)で、大滝・細野・中田の3人で日曜日ごとに細野の自宅に集まってお茶飲み会兼ポップスの勉強会が開かれ、それがやがてわずかな期間結成されたグループ「LAMPPOST」へと発展した。 その後細野がを結成した時に、大滝は中田と「EYES」というデュオを組んだ時期もあった。 この曲のデモを聞いた中田が気に入り、コーラス・アレンジを手掛けた。 大滝はギターなしで的なでミックスするつもりだったが吉野ミキサーからの「薄くでもギターがあった方がよい」という助言でこの形になったという。 それはぼくぢゃないよ — 3:13 シングル・バージョンからベースが差し替えられ、ドラムもが追加。 更にシングルの時に時間がなく未消化だったボーカルの完全版が出来たことが大滝にとって最大の収穫だったとし、ここで聴かれるボーカルが後に、自身にとって生涯でのベスト・ボーカルだったのではないかと思うようになったという。 シングルではハーモニーがセンターに置かれ、主旋律とのバランスが6対4ぐらいになっていたが、アルバム・バージョンでは左45度に置かれてメロディーと対等のバランスにされ、どちらかといえばハーモニーを聴かせるバージョンになっている。 なお、シングル「恋の汽車ポッポ」では「それはぼくじゃないよ」だったタイトルが、アルバムでは「それはぼくぢゃないよ」に変更されている。 後に、の自主制作映画『ぼくは天使じゃないよ』の主題歌に使用され、大滝もあがたとともにアニメーターという設定で映画に出演。 二人の上司役をが演じ、3人が揃う出演シーンには、、も絡む。 指切り — 3:34 の「」を目論んで作られた曲だが、ベースまでそのままでは面白くないとのことで、の「」風にしたという。 レコーディングについて大滝は「アル・グリーンのようにソウルフルに歌おうと思っていたんだけど、キーの選定を間違えて。 まあ試しに歌ってみようということで、歌がファルセットになったりならなかったり落ち着かないまま、とりあえずトレースで歌ったんだ。 すると吉野さんが最初のワンテイクで『これがいい』って。 『いやいや、これからアル・グリーンみたいにソウルフルにやるんだからちょっと歌わせてよ』と言ったんだけど。 『これがいい。 また歌うのなら僕は辞める』ときた。 は6月5日の録音だから、まだ始まったばかりで辞められたら困る。 ということで、正真正銘一回きりの歌入れになった。 まあ結果的にはよかったんじゃないかな、どうやったってアル・グリーンにはなりゃしないんだから」 と答えている。 後にの「LFデモ」と呼ばれるデモ・テープにてレコーディングされ 、『』の1994年盤、2005年盤にそれぞれボーナス・トラックとして収録されている。 2014年に発売された大滝のオールタイム・ベスト・アルバム『』 にも収録された。 びんぼう — 2:10 オリジナル盤ではエンディングにあった、松本による付け足しのドラムがCD化に際しカットされ、95年盤で「びんぼう(ヒマダラケ・バージョン)」として収録された。 この曲はのちにによって「」としてカヴァーされ、大滝による3番の歌詞が新たに提供された。 五月雨 — 1:54 シングル・バージョンはコーラス以外がモノラル・ミックスだったので、そのステレオ・ミックスとなっている。 ただ、このままでは「びんぼう」とタイプがまったく同じだったので、のギターがダビングされ、手拍子とコーラスを追加。 さらにダブル・ボーカルで少しポップ調に変更されて、アルバム内でのバランスが取られている。 後に、「のがこの曲を歌ったらどうなるか」という企画意図でアルバム『』 に5月の歌としてセルフ・カバーされた。 ウララカ — 2:11 テンポを早くした「Javaバージョン」なるものが存在する(未発表)。 はこの曲に「はいからはくち」の歌詞をのせてライブで何度か演奏している。 後にベスト・アルバム『』 で「ウララカ'78」として再レコーディングにて収録。 にはスペシャル・ドラマ『』主題歌に使用された。 Side II [ ]• あつさのせい — 2:42 「五月雨」での大滝のドラムを評価したからの、「びんぼう」や「五月雨」のようなアップテンポのドラムが叩きたいという話を受け、林と以前バンド仲間だった鈴木茂と大滝の3人でスタジオに入り、プリ・プロが行われた。 セッション自体はコード進行を簡単に決めただけのものだったが、ギターとドラムだけで見事なが出来上がり、この時のテープを聴きながら林のドラムに合わせてメロディーが作られた。 大滝によれば、曲名は林によるドラム・フレーズが「あつさのせい」と言っているように聞こえたことに由来するという。 この曲はの「」からの引用を指摘されるが、大滝自身はからの引用で、そこに「シェイク」からのいただきが足されているという。 大滝は「茂がからに変わっていて、それでで1弦と2弦のフレージングを入れちゃえと。 で、フォー・ジョー・ハーフではこの手の曲がなかったから、初の林立夫がノリノリで。 さらに間奏でみたいなピアノを入れなきゃということになったんだけど、細野さんは『手が痛い』とか言って。 そこで林がを紹介してくれて。 彼はロックンロールを知らないから、彼があのタイプのロックンロール・ピアノを弾いたのはこの曲が初めてなんじゃないかな」 と、後にインタビューで答えている。 この曲は細野、鈴木、林、松任谷という、後に細野のアルバム『』 で登場するの初顔合わせ曲となった。 さらにこの曲では「指切り」に続きが参加しているが、大滝は「指切り」がソフトだったからハードな「あつさのせい」はできるのかなと思っていたが、この手のタイプはそれまでやっていた歌謡曲にはないから、楽しかったらしいという。 そして、これなら女性もできると踏んで「恋の汽車ポッポ第二部」につながった。 朝寝坊 — 2:05 「ニューオーリンズバージョン」と言うピアノをフィーチャーした全く違うバージョンが存在する(未発表)。 水彩画の町 — 2:18 後にベスト・アルバム『DEBUT』に「水彩画の町'78」として再レコーディングにて収録された。 乱れ髪 — 2:17 大滝作品初のストリングス入りの曲で、アレンジは吉野。 本作中一番メロディックな曲なので譜割をいじらなかったため、歌詞とメロディの乖離が最も少ない曲だという。 大滝によれば「この曲は私の初ストリングス作品でもあったんだね。 これは吉野さんの助言でイントロに入っているストリングスは元のアレンジではエンディングのとしてついていた。 さらにのエンディングもついていた。 そのメジャー・エンディングをカットして、コーダをイントロにつけて、ピアノのイントロにつなげた。 えらいところで符合するんだなと思ったよ。 素直に歌うという意味では『』の原点でもある」 という。 ボーカルは「指切り」同様、一回目のもの。 後にベスト・アルバム『DEBUT』で「乱れ髪'78」としてリテイクされた。 本作と同日リリースされたのアルバム『HIRO』 に歌詞が全く同じの同名曲が収録されているが、松本によれば単純な事務的ミステイクだったという。 後のインタビューで「はっぴいえんどがでレコーディングしているときに、柳田が僕の家に取りに来たんだけど、その時一緒にまぎれこんじゃった。 あってはいけないことなので、二人には申し訳ないと謝りました。 おかげでそれ以来、僕はすごく几帳面になりました」 と答えている。 恋の汽車ポッポ第二部 — 2:35 シングルとして発売された「恋の汽車ポッポ」のアルバムバージョンとして制作された楽曲。 最初の部分の歌詞や譜割りが一部異なっている。 「恋の汽車ポッポ」は全三部作構成で、シングルで発売されたシングルバージョンが第一部、本作に収録されたこの第二部、そして、ライブのみで披露されている「海を渡る恋の汽車ポッポ」という第三部が存在する。 第三部は途中でリズムトラックが似ている洋楽曲「Stay」が混ざっていて、シュガー・ベイブの演奏とともに披露された。 いかすぜ! コーラスは大滝と、はっぴいえんどがに初出演する際コーラス・メンバーに起用した。 エルヴィスのバック・コーラス「ジョーダネーヤーズ」をもじって、「冗談じゃねーやーず」と命名された。 アルバムにはカセット音で収録されているが当時、'60sポップスでもまだ遠慮しながらやっているこの時期に、ここまでの洒落が通用する状況ではないとの判断からだった。 そこで、のアルバム『』 のA面最後に一曲だけ78回転で再生してSP風の音を聴くというのがあり、その洒落を真似て、さらに奥まった洒落にした。 しかし、さすがに最後だけ78回転にするということは許してもらえず、せめてSPのような音にしようと企画された。 いろいろ試行錯誤の結果、吉野から「カセット・プレーヤー TC-1000B をピアノの中に入れてマイクで拾えばそれらしい音になる」という提案があり、オリジナル・アルバム収録のこのような音になった。 さらに吉野からのアイデアで、モノラルは面白くないからどちらか左右片方にしようとエスカレート。 たまたま大滝が持っていたステレオ・セットの右のスピーカーが故障していたので左チャンネルにミックスされた。 さらに、曲が終わるとテープの消し残りの「あつさのせい」のイントロが始まり、面白いということでそのまま録音していたら、カセット・テープの残量がなくなってオート・シャット・オフ機能が働いて「パチン」と止まる音まで入ってしまった。 この偶然性に着目した大滝はアルバム・カッティングの際、そのカセットが止まる音がレコード盤のエンドの引込み線に入る直前になるようにカッティング・エンジニアに要求した。 そのためエンジニアはラッカー盤を何枚も無駄にしてしまったという。 このアルバムのカッティングが終わった1972年10月4日 1972-10-04 に、はっぴいえんどは最後のアルバム制作のためアメリカに出発するが、この時大滝は『大瀧詠一』のマスター・テープを持っていき、アメリカでもカッティングを行った。 帰国してからプレスされたアルバムにはアメリカで再カッティングを行ったマスターが使われたが、大滝がカッティングに立ち会えなかったこともあり、現地のエンジニアがカセット音の直前でフェードアウトさせたため、カセット音が入っていない。 それ故、カセットの止まる音が入っているのは日本カッティングの初版だけという事になった。 後に「烏賊酢是! 此乃鯉」と改題されてアルバム『』 でリメイクされたほか、大滝同様エルヴィス・ファンであったによってカバーされた。 クレジット [ ] おもい [ ] words, music 大瀧詠一 arrangements 中田佳彦 guitar, vocals 大瀧 Recorded On JUN. 20TH. , SEPT. 29TH. , Ltd. それはぼくぢゃないよ [ ] words music 大瀧詠一 arrangements ちぇるしい drums bass pedal-steel 12st guitar, vocal 大瀧 Original recorded on OCT. 9TH. 1971. SINGLE BS-1465. Re-recorded On MAY. 15TH. Pub. 指切り [ ] words 松本隆 music and arrangements 大瀧詠一 drums 松本隆 bass —Featurin'— piano and flute chorus percussion , , vocal 大瀧 Recorded On JUN. 5TH. 9TH. , MAY. 15TH. 12th. , MAY. 31ST. and SEP. 29TH. —SINGLE— OF-3 Bellwood Record. P ウララカ [ ] words, music 大瀧詠一 arrangements 多羅尾伴内 drums 松本隆 bass 細野晴臣 —Featurin'— chorus 大團圓合唱団 鈴木茂 Uraraka-guitar 宇野主水 guitar, Ron-Ron-piano guitar, vocals 大瀧 Recorded On APR. 9TH. 10TH. , Ltd. 朝寝坊 [ ] words, music and arrangements 大瀧詠一 bass 原田政長 drums ジミー竹内 —Featurin'— cla. 佐野博美 per. , Ltd. 水彩画の町 [ ] words 松本隆 music and arrangements 大瀧詠一 —Featurin'— chorus 上星川コーラス同好会 conga 多羅尾伴内 guitar, vocal 大瀧 Recorded On JUN. 20TH. , JUL. 10TH. , Ltd. 乱れ髪 [ ] words 松本隆 music and arrangements 大瀧詠一 strings Arr. —Featurin'— drums 林立夫 bass 細野晴臣 piano 宇野主水 strings ストリングスハーモニーオーケストラ交響楽団 conducted by 吉野金次 vocal 大瀧 Recorded On JUL. 5th. , 16TH. , Ltd. 恋の汽車ポッポ第二部 [ ] words 江戸門弾鉄, 多羅尾伴内 music and arrangements 多羅尾伴内 drums 宇野主水, 多羅尾伴内 bass 南部半九郎 —Featurin'— chorus シンガーズ・スリー guitar 鈴木茂 clapping , 吉野, 森, 多羅尾 vocal 大瀧 Recorded On JUL. 20TH. 9TH. 1971. —SINGLE— BS-1465 KING RECORD. Dedicated to , Ciffons, , , Special thanks to Super Stars of Golden-Rock'n Roll-Age. Pub. いかすぜ! 12TH. Recorded from SONY cassette-Corder TC-1000 B. P スタッフ [ ]• RECORDING MIXING ENGINEER• ASSISTANT• モウリスタジオ・オールスターズ, 野村正樹• RECORDING STUDIO• モウリスタジオ, 目黒• MANAGEMENTS• 風都市• Thanks to 石浦, 前島 Bros. , 上村• AGENT• 中村誠• SCORING• 吉野金次• DIRECTION• PHOTO• DESIGN• Work Shop MU!! PRODUCED BY 大瀧詠一• 大瀧本人の監修と書き下ろしライナーノーツ付きで再発された。 収録曲 [ ]• — 3:14 words : 松本隆, music : 大瀧詠一, arrangements : ちぇるしい• 空飛ぶくじら (シングル・バージョン) — 2:07 words : 江戸門弾鉄, music and arrangements : 多羅尾伴内• 五月雨 (シングル・バージョン) — 2:19• おもい — 1:04• それはぼくぢゃないよ — 3:14• 指切り — 3:33• びんぼう — 2:00• 五月雨 — 1:59• ウララカ — 2:11• あつさのせい — 2:45• 朝寝坊 — 2:06• 水彩画の町 — 2:19• 乱れ髪 — 2:16• 恋の汽車ポッポ第二部 — 2:32• いかすぜ! この恋 — 1:57 アルバムに収録されたカセット音になる前のバージョン。 本CDで初収録となった。 これを含むシングル・バージョン以外の6曲のボーナス・トラックは、大滝個人が所有していたもの。 大滝によれば、もし会社に原盤の管理をすべて委ねていたら、もう聴くことのできない音源だったという。 さらにアルバムのマルチ・テープは既に現存せず、2チャンネルのマスターしか存在していない。 空飛ぶくじら (ピアノ・イントロ・バージョン) — 2:19 吉野が「もし良かったら使ってみない? 」という感じで 、ピアノで弾いたイントロが追加されているほか、ソロ・ボーカルをテープ・ヘッド差を利用したダブル・ボーカルになっている。 それはぼくぢゃないよ (アルバムMIX-2) — 3:18 シングルではセンター、アルバムのOKテイクでは左45度にそれぞれコーラスが配置されていたが、このミックスでは左端に置かれている。 大滝によれば確か、これでOKだと吉野には言われたが、最後の最後にさらにミックス・ダウンをしてコーラスをもっと聞かせたミックスを作ったように記憶しているという。 OKテイクに対し、左のオルガンが大きくミックスされている。 エンディングで、松本によるドラムの付け足しがあるが、これがエルヴィスののエンディングに似ていると思った大滝の判断でOKテイクに生かされた。 ウララカ (イントロ・ドラム・バージョン) — 2:17• おもい UNDUBBED VERSION:TAKE1 — 2:01 UNDUBBED VERSION:TAKE2 — 1:04 コーラスが入る前の、ソロ・ボーカル・テイク。 いかすぜ! この恋 (カセット・バージョン) — 2:19 カセット・レコーダーでの再生音をマイクで拾ったSP盤風のカセット音バージョン。 オリジナル盤ではB面最後に収録されていた。 収録曲 [ ]• おもい — 1:07• それはぼくぢゃないよ — 3:17• 指切り — 3:36• びんぼう — 2:12• 五月雨 — 2:02• ウララカ — 2:14• あつさのせい — 2:48• 朝寝坊 — 2:10• 水彩画の町 — 2:22• 乱れ髪 — 2:21• 恋の汽車ポッポ第二部 — 2:36• いかすぜ! 10月19日 シングル・ジャケット用写真撮影(青梅鉄道公園、撮影:おおくぼひさこ)。 10月21日 目黒モウリスタジオ ソロ・シングル、ミックス。 10月23日 ソロ・シングル、カッティング立会い(キングレコードの工場)。 12月10日 ソロ・デビュー・シングル「」発売。 はっぴいえんどのシングル「」と同日発売。 1972年 03月 03日 新宿御苑スタジオ リハーサル。 03月 04日 新宿御苑スタジオ リハーサル。 03月 06日 新宿御苑スタジオ リハーサル。 03月11日 新宿御苑スタジオ リハーサル。 03月12日 目黒モウリスタジオ シングル、レコーディング。 04月 09日 目黒モウリスタジオ 、レコーディング。 05月15日 目黒モウリスタジオ 、レコーディング。 06月 05日 目黒モウリスタジオ レコーディング。 06月12日 音羽キングスタジオ レコーディング。 06月17日 目黒モウリスタジオ 、ヴォーカル・パート・レコーディング。 06月20日 目黒モウリスタジオ 、レコーディング。 06月25日 シングル「」発売。 06月29日 新宿御苑スタジオ リハーサル。 07月 05日 目黒モウリスタジオ(1スタ) レコーディング。 07月10日 目黒モウリスタジオ(1スタ) 、レコーディング。 07月16日 目黒モウリスタジオ 、レコーディング。 07月20日 目黒モウリスタジオ レコーディング。 08月21日 目黒モウリスタジオ(1スタ) アルバム『大瀧詠一』ミックス・ダウン。 08月23日 目黒モウリスタジオ(1スタ) アルバム『大瀧詠一』ミックス・ダウン。 09月 01日 目黒モウリスタジオ(1スタ) ダビング。 09月11日 目黒モウリスタジオ(1スタ) ダビング。 09月12日 目黒モウリスタジオ(1スタ) ダビング。 09月16日 目黒モウリスタジオ(1スタ) ダビング。 09月22日 目黒モウリスタジオ(1スタ) ダビング。 09月24日 アルバム・ジャケット撮影(撮影:)。 09月29日 目黒モウリスタジオ 、レコーディング。 10月 03日 アルバム『大瀧詠一』レコーディング終了。 10月 04日 アルバム『大瀧詠一』カッティング立会い。 その後、ベルウッド・レコードの会員制集会『新譜を聴く会』に出席。 さらに19時、はっぴいえんどのアルバム『』レコーディングのために向かう。 21時40分発の便でロサンゼルスに出発。 その際、大滝は完成間もないアルバムのマスター・テープとそのコピーを持参、アメリカでもカッティングが行われた。 10月25日 帰国。 11月25日 アルバム『大瀧詠一』発売。 歌詞カードはブックレットになっている。 初回プレス盤はB面最後の引き込み線にカセットの止まる音が入っているが、セカンド・プレスよりLAカッティングにさしかわったため、カセット音は入っていない。 B面最後のカセット音入り。 歌詞カードが通常の写植のものに、レーベルがベルウッド統一のものに、それぞれ変更される。 4 1981年6月25日 1981-06-25 LP K25A-180 LPは初版と同じイラスト・レーベルになり、歌詞カードもブックレットに戻る。 CT K25H-412 5 1989年3月21日 1989-03-21 CD K25X 371 初CD化。 デザイン・ワークがシリーズ統一のものになる。 大滝詠一による書き下ろしライナーノーツ収載。 裏ジャケット見開き部分に、レコード中袋の写真が印刷されている。 8 1996年9月15日 1996-09-15 VIVID LP VSLP-4012 オリジナル復刻仕様による限定アナログ盤。 福原武志による書き下ろし解説収載。 デザイン・ワークがシリーズ統一のものになる。 11 2001年6月23日 2001-06-23 LP BZJS-5006 オリジナル復刻仕様による180g重量盤の完全限定生産。 オリジナル仕様で復刻。 歌詞カードはブックレット。 完全限定プレス盤による紙ジャケコレクション(全11タイトル)。 HRカッティング採用。 高塚浩一による新規ライナーノーツ付。 プラケース仕様。 高塚浩一による新規ライナーノーツ付(KICS-91801と同じ)。 180g重量盤による完全限定生産。 初発当時のLPジャケット、インナースリーブ等を可能な限り復刻。 当初は他のタイトル同様、2014年12月10日発売予定だったが、制作上の都合により発売が延期された。 2017年最新デジタル・リマスタリング。 による新規ライナーノーツ付。 15 2017年12月20日 2017-12-20 FUJI 2LP FJLP1001 リリースから45周年を記念した180g重量盤45回転2枚組による高音質アナログ盤。 オリジナル・マスター・テープからのカッティング、国内プレスによる完全限定盤。 内袋(紙スリーブ)、ブックレット、帯も可能な限りオリジナル盤を再現。 による新規ライナーノーツ付。 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 『』 197111年 197111-20 発売 LP:URG-4009• はっぴいえんど「」 1971年4月1日 1971-04-01 発売 7":BS-1366• 当時を振り返っては「大瀧さんにソロをやらないかと声をかけたのは、はっぴいえんどが『』を録っている最中でしたね。 レコーディングが終わったらすぐに制作に入りました。 その頃すでにはっぴいえんどが解散するんじゃないかというのは、漠然と思っていたんです。 ただ当然、彼らは各々がソロでもやっていける人たちだと思っていました。 当時のはっぴいえんどは、求道者的でストイックなバンドだったんですね。 なんかがあって、そうせざるを得ない部分もあった。 だから、あまりノリの軽いものはできなかったんです。 そういう意味では、アメリカン・ポップスから日本の歌謡曲まで造詣が深かった大瀧さんは、バンドとはまったく違うアプローチができて、ポップスという意味ではとても質の高いものが作れると思ったので、ますは大瀧さん、次がさん、その次がさんという感じで、僕の中では順番を決めていたんですよ」 と、コメントしている。 「」 1971年12月10日 1971-12-10 発売 KING 7":BS-1465• 『』 Released in March 23, 1956 on LP:LPM 1254• 『』 Released in August, 1969 on LP: SF8046• この写真の後日談を、後に大滝はインタビューで「あれの元になった写真を改めて見てみたら、裏に撮影した日付が書いてあった。 母親が書いてた。 その起点となる写真をファースト・アルバムの中袋に載せてたんだ。 持っているのはハーモニカなんだよね。 誕生日プレゼントっていうことで。 あれをファーストの中ジャケにしたのはが『』 のアルバム・ジャケットで子供時代の写真を使ってたからってだけ。 他にも子供の頃の写真はあるけど、なぜかあれがいいなと思って選んだんだが。 初めてアルバムからはがして裏を見て唖然とした。 ファーストを作った70年代には当然、3・21が記念日になるなんていう前提がなかったんだもの。 母親はよく写真の後ろに日付なんかを書いているんだよ。 この時から日付を大事にするっていうようなことを、写真の裏で言われていたってことなのかね。 あの写真を中心にして『』 のジャケ裏の写真も撮られているわけだし。 なにか非常にナイアガラ的なものを象徴している事象のように思えたんだよね」 と答えている。 1974年4月3日 1974-04-03 ・24日、1スタジオ• 『HIRO』 1972年11月25日 1972-11-25 発売 URC LP:URG-4017• 「」 〜「冷たい女」 〜「本命はおまえだ」 〜「今夜はひとりかい? 」 〜「胸がもえたぜ」 〜「」 〜「僕の天使よ」 Angel 〜「」 〜「どっちみち俺のもの」 〜「」 〜「マリーは恋人」 〜「忘れ得ぬ人」 〜「あなたを離さない」 〜「」 〜「」 〜「内気な打ち明け」 〜「チャンス到来」 〜「望みがかなった」 〜「恋の大穴」 〜「思い出の指環」 〜「僕は君のもの」 〜「キッスにしびれた」 〜「恋は激しく」 〜「君と僕はいつまでも」 〜「似合いのカップル 〜「気楽にいこうぜ」 〜「口笛吹いて」 〜「ポケットが虹でいっぱい」 〜「アイ・ガット・スタング」 〜「アイ・ガッタ・ノウ」 〜「ベイビー・アイ・ドント・ケア」 〜「ハッピー・エンディング」 Happy Ending• 『』 Released in April 3, 1968 on LP:CS 9613• 『風に抱かれて』 1980年6月1日 1980-06-01 発売 LP:27AH 979 出典 [ ]• 「1970〜1972」『大滝詠一 Talks About Niagara Complete Edition』第33巻第7号、株式会社ミュージック・マガジン、2014年4月1日、 6-43頁、 :。 大瀧詠一『大瀧詠一』のアルバム・ノーツ [12cmCD]. 高塚浩一 2012年. "大瀧詠一『大瀧詠一』について 三浦光紀(談)" [12cmCD]. 大瀧詠一 『大瀧詠一』のアルバム・ノーツ KICS-91801. 『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』株式会社、2002年12月10日、206-212頁。 「ナイアガラ・ソングブック」『大滝詠一 Talks About Niagara Complete Edition』第33巻第7号、株式会社、2014年4月1日、 324-337頁、 :。 「あがた森魚インタビュー〜大滝さんはアメリカン・ポップスのエッセンスを柔らかく掬いとってぼくらにプレゼントしてくれた〜」『』第34巻第4号、株式会社ミュージック・マガジン、2015年4月1日、 46-51頁、 4910196370459。 「20世紀最後のはっぴいえんど特集(前編)」『ロック画報 01』第1号、株式会社ブルース・インターアクションズ、2000年6月25日、 12-21頁、。 TOWER RECORDS ONLINE. 2017年3月4日閲覧。 TOWER RECORDS ONLINE. 2017年3月20日閲覧。 TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード株式会社. 2017年3月20日閲覧。 外部リンク [ ] KING RECORDS OFFICIAL SITE• SonyMusic• — ディスコグラフィ disk UNION•

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大瀧詠一 (アルバム)

大瀧 詠一

大瀧詠一さんの「DEBUT AGAIN」ポスター 東京都西多摩郡瑞穂町……この町は、狭山茶の産地で、シクラメンの栽培でも知られています。 狭山丘陵の西に位置し、南には横田基地があることから、いまも町には、元・米軍住宅が残っています。 その米軍ハウスを、自宅兼スタジオにして、数多くのヒット曲を世に送り出したのが、大瀧詠一さん。 2013年12月30日、突然の訃報から、4年が過ぎました。 大瀧詠一さんがこよなく愛した瑞穂町に、彼をこよなく愛する人が暮らしています。 「クリキンさん!」の愛称で呼ばれる栗原勤(つとむ)さん、65歳。 子供の頃から、音楽が大好きで、中学1年の時、初めて買ったレコードが、ブルーコメッツの「青い瞳」。 中学では、クラスの仲間と、ロックバンドやフォークグループを結成。 音楽の仕事をしたいと、立川のレコード店に就職しました。 一万枚のレコードを集め、大瀧詠一さんに夢中になった栗原勤さん 「当時、ドーナツ盤は330円、Lpは1,500円だったかな。 給料のほとんどは、レコードにつぎ込みましたね」 いままでに集めたレコードは、洋楽・邦楽、合わせて一万枚! 自宅の庭に、プレハブでレコード部屋を建てたほどです。 そんな栗原さんが、大瀧詠一さんに夢中になったのは、23歳の頃、たまたま、夜中にチューニングしていたラジオから、軽快なアメリカンポップスが流れてきました。 「『ゴー・ゴー・ナイアガラ』という深夜番組でね、ラジオ関東、いまのラジオ日本だけど、深夜3時に始まって、アメリカンポップスだけでなく、演歌、民謡、お座敷ソングまで、ありとあらゆるジャンルを聴かせてくれる面白い番組だったよ。 その大瀧さんが同じ町に住んでると知って、夢中で聴いてましたね」 「はっぴいえんど」のポスター 右下が大瀧詠一さん 大瀧詠一さんが瑞穂町に移り住んだのは、「はっぴいえんど」が解散した翌年の1973年……ここから、「君は天然色」「恋するカレン」をはじめ、太田裕美の「さらばシベリア鉄道」、松田聖子の「風立ちぬ」、森進一の「冬のリヴィエラ」、小林旭の「熱き心に」など、数々のヒット曲を生み出しました。 大瀧さんが亡くなった時、こんな偉人が、この町に住んでいたことを、もっと知ってほしいと、栗原さんは『大瀧詠一さんを語る会』を発足。 いままでに40回を超える「語る会」を開催してきました。 「大瀧さんが、どうして瑞穂町に住んだのか? よく聞かれるんです。 亡くなったあとに、大瀧さんのふるさとを訪ねて、思ったんです。 (ああ、風景が似ている)と……、はっぴぃえんどのメンバーは、みんな都会育ちのお坊ちゃん。 大瀧さんだけ、岩手県の出身。 ふるさとの風景に似た瑞穂町を気に入ってくれたんじゃないかなぁ」 (左)『大瀧詠一さんを語る会』左から栗原さん、太田さん、前田さん/(右)前田さんと展示物 『語る会』には、栗原さんの他に、仲間のスタッフが二人います。 前田哲也さんは、小学三年の時、「夢で逢えたら」を聴いて、大瀧ファンになり、数々のナイアガラグッズを集めてきました。 太田美智子さんは、中学生の時、英語の先生から、「これ、いいぞ」と毎週カセットを渡され、それでファンになったとか。 『語る会』のイベントには、日本全国からファンが訪れます。 先日のトークイベントには、定員70人に100人が集まりました。 「何十年もファンだったけど、話し相手がいなかったので、こういう会が出来て、うれしい……、そんな人たちが来てくれますね。 大瀧さんは、ファンをとても大事にしていたから、突然亡くなって(やりきれない)という人も結構多いんです。 実は私もその一人……、だから、みんなの話を聞くのが楽しくてね」.

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