二木紘三。 二木紘三のうた物語: 駘駘湯湯舎より

二木紘三のうた物語: 駘駘湯湯舎より

二木紘三

人物 [ ] 秋田県秋田市千秋明徳町、樋口順泰の二男として出生、二木家の養子となる。 を経て、を卒業、東京市立駒込病院に勤務。 1903年(明治36年)「駒込A、B菌」を分離する。 1905年(明治38年)ドイツに留学、教授のグルーバーに師事。 1909年(明治42年)駒込病院副院長、東大講師、、1914年(大正3年)東大助教授、1915年(大正4年)等と共に「(そこうしょう)スピロヘータ」発見。 1919年(大正8年)駒込病院長、1921年(大正10年)東大教授。 1929年(昭和4年)受賞、、東京歯科医専、教授となる。 1951年(昭和26年)会員、日本伝染病学会(現:)長。 1955年(昭和30年)授与。 1966年(昭和41年)93歳で没す。 天然理の証明の実績を遺し、食の提唱、実践運動やとして功績を残した。 で名誉教授、日本中世史()、のの祖父。 生涯 [ ] 二木謙三の実父・樋口順泰• 1873年(明治6年) - 秋田県秋田市土手長町(現在の明徳町、の旧小野岡邸隣)で生まれる。 父・樋口順泰、母・ヱイの、男4人、女3人の二男。 樋口家は代々医家で、主佐竹候の御典医を務めた家柄で、父の順泰は江戸のに学んだ漢方医、秋田藩の医学館七部書会頭を務めた。 維新後は町医者として、貧しい患者には薬と一緒に食物も与えた。 1876年(明治9年) - 二男のため二木家へ養子に出された。 二木家は土崎港にあり、樋口家とは跡継ぎがない時、互いに養子を出す親類だった。 1878年(明治11年) - 5歳の時に生家から漢学者(1823年-1891年)の塾に通った。 謙三は病弱で生家で暮らしたが、父の躾は厳しかった。 父子ながら距離を保ち、勉強するように説き、良き師として稲川直清に通わせた。 1882年(明治15年) - 謙三は9歳で小学校に入学した、今の秋田市立明徳小学校の前身である。 8年制だったが6年間在籍し、1888年(明治21年)に卒業、中学校に進んだ。 漢方医の父は妻に「この子は20歳まで生きられるのだろうか?」と嘆いていたという。 1885年(明治18年) - 12歳の時、正式に二木家に入籍、し二木家の戸主となった。 生家と同じ地番に新戸籍をたてた。 1888年(明治21年) - 中学校は秋田県立尋常中学校(現在の)。 県唯一の中学校で、虚弱体質は改まらず、年中病気がちだった。 1893年(明治26年) - 尋常中学校を卒業。 第六回卒業生で、『』には謙三、東洋拓殖会社総裁の、本校出身最初の将官、陸軍少将の、大衆医療に貢献したがいた。 1894年(明治27年) - 謙三はであるに編入した。 同年8月、が始まったが、謙三は戦争にはほとんど関心がなかった。 既に素食、少食の食事療法を身に付け、衣類は自分で針を持ち継ぎを当てた。 1895年(明治28年) - 謙三は山口高校の教頭・の家に入った。 既に北条に心酔して「身近で暮らし直接教えを受けたい」と考えた。 1897年(明治30年) - 山口高校を卒業した謙三はに進んだ。 北条家を去る際、北条時敬は謙三に寄宿すべき人物を紹介した。 がその人である。 旧士で、当時は内務官僚だった。 東京・牛込若宮町に屋敷を構えていたが、若い頃にを病み、独身を通していた。 確斎と号して漢字、国学をよくした。 後に旧藩主前田家に招かれ、侯爵の教育係を務めた。 、の研究者でもあった。 高等中学校のころから興味を持っていた禅を体系的に勉強した。 1899年(明治32年) - 謙三は大学の講義に熱意を示さなかった。 反骨精神によるもので、当時の医学教育が「洋方偏重」であったことに対する反発だった。 謙三は講義では決して教えない漢方を、織田小覚の蔵書を師に勉強した。 謙三のに、の長所は巧みにとり入れられている。 ベルツは「日本人特有体質論」とでもいうべき説を主張しているが、これが謙三の保健学と極めてよく共通している。 二木謙三と妻イヨ• 1900年(明治33年)• 秋田市の小学校当時から終始、謙三と同級だった人物がいる。 である。 謙三より年齢が2歳下で、その遠山家には長女イヨ、景精の妹がいて、謙三とは7歳違いなので、東大に入学した年は17歳。 謙三はイヨに恋した。 イヨには恋文(漢文の結婚申込書)で結婚を申し入れた。 やがて婚約が整い、大学を卒業するのを待って結婚式を挙げることに決まった。 10月5日、生母・樋口エイが死去した。 享年53歳。 1901年(明治34年) - 東京帝国大学を卒業、東京市立駒込病院(現在の)に就職。 卒業の年に、当時の東京市が常設の専門病院として開院した。 収容力も当時としては大きく70床あった。 新装開院を機会に帝大出の医学士を採用、医療の充実を図ることになった。 当時、伝染病は最も恐ろしい病気だとされており、今の癌以上のものだった。 学問的にはほとんど未知の分野。 大学でも講義がなかった。 駒込病院が医学士採用を決めても、希望者がいなかった。 謙三に続いて親友の、が志願、医局入りした。 謙三らの医局入りで、駒込病院は日本の伝染病研究の中心となる。 就任早々、連夜、深更まで居残って顕微鏡を覗いた。 1902年(明治35年)• 春、旧士弥三郎の長男・遠山景精の長女イヨと結婚した。 謙三は東京市立駒込病院の勤務医となったのを機に、ひげをたてた。 である。 小柄で、体格的には貫禄不足であったが、ひげがそれを補った。 ひげは謙三がや食運動を進める上でも宣伝効果があった。 各地で講演した後、新聞にひげがピンとはねた写真が載ると、それがまた「ひげ先生の保健法」と評判になった。 ひげとともに謙三のもう一つの看板は黒いであった。 冬は当然、真夏でも同じ冬物のコートを着用、年中服装を変えることがなかった。 6月26日、午後4時頃 - 東京市立駒込病院に一人の患者が担ぎこまれた。 64歳の男性だった。 担ぎ込まれてから1時間20分後、死亡してしまった。 事件の幕開きである。 この事件によって謙三は者として名を知られることになる。 当時の日本細菌学会界を二分して、いわゆる「」が存在するかどうかが争われた事件である。 このとき、が、私立のを設立していて、に関する限り、東大と対抗、というよりは、むしろそれを凌ぐ勢力になっていた。 死亡から5日目、北里側の伝染病研究所がを通じて、「患者の便からコッホ氏コレラ菌を分離した」と発表した。 一方、東大側ではその直後に、内務省の中央衛生会で、「コッホ氏コレラ菌ではない別種の細菌を検出」と発表した。 双方が、それぞれの研究方法を非難し合って、延々と論争が続いた。 東大側が主張するように、コッホ菌とは別種の菌であることを立証した。 細菌の鑑別にはと呼ばれる方法が取られる。 それには馬のが用いられていたが、これだけによる検査ではコッホ氏コレラ菌も竹内菌も区別ができない。 二木はそれを兎の免疫血清で検査し、相違を明確に証明した。 謙三はこれを基に、コレラ病原菌多種説を立てた。 12月24日 - 東京で患者第一号が発生した。 日本上陸第一号は明治32年に広島で出た。 直後に大阪でも患者が出て、さらに東京侵入の三カ月前、横浜でも患者が出た。 この時は当局が拡大を恐れて、患者の住居など20戸を焼却している。 東京侵入はもはや避け難い情勢で、東京市は(明治35年)9月10日付をもって、駒込病院に「ペストの発生に備えた体制づくり」を指示している。 これに基づき、同院は、二木、大滝潤家の3人を中心にプロジェクトチームを編成、患者が発生したら、閉鎖しているに隔離することなどを決めていた。 患者発生の一報がもたらされたのはこうした状況下においてであった。 患者はの女工たち。 紡績工場にはインドからが輸入されていて、その中に紛れ込んできたネズミがペストをまき散らかしたものだ。 12月24日夜のことであった。 「飛報あり、本所のある工場に『ペスト』擬似患者二名生ずと。 宴終わるころに至りて一同武者振るいをなす。 医院一同駒込病院に宿直す。 東京市との電話のたゆることなく戦雲たなびき、前途多難なり」。 駒込病院では、直ちに本所病院を開院、翌25日、臨時病院長に決まった横田が到着すると、玄関の土間に4人が運ばれていて、1人は既に死亡していた。 1903年(明治36年)• 本所病院の診療活動は極めてハードなものとなり、超過密な勤務状態が大きな不幸を招いた。 横田の一瞬の油断が大事件となった。 患者を手術中の横田が、はねた血を右の目に受けて感染し、帰らぬ人となってしまった。 その場で消毒を入念に行ったはずだったが、7日から発熱、右目、右耳、あごの腫れがひどく、強い痛みを訴えた。 病院挙げての看病も空しく15日午前5時死去した。 謙三は「横田が夜になると暴れるのです。 右の目の下のところ(手術の)に傷があって、そこからコレラ菌が出ている、看護婦に看護をさせることは出来ない。 私が押さえながら看病した。 だんだん心臓が弱って、そして死んだのです。 横田は結婚したばかりで、奥さんは妊娠していた」。 このペスト禍での患者は横田を加えて13人を数え、うち8人が死亡した。 横田の葬儀は東大が大学葬をもって報いた。 また、東大の級友らが胸像を造って、霊を慰めたが、その銘文は謙三が書いた。 11月18日 - 長男順益が誕生した、名付け親は謙三の師・織田小覚である。 新婚の二人は謙三の寄宿先、織田小覚邸の2階で新しい生活を始めたが、間もなく、駒込病院の近くの浅嘉町に古いの手ごろな一軒屋を見付けて移転し、病院での診療と、研究に没頭することができるようになった。 研究に没頭して、真夜中の2時、3時が普通だった。 この頃の駒込病院は「東大細菌学研究室」としての役割を担っていた、患者の検査なども、今のようにシステム化されておらず、医師が診療の合間を見てやっていた、この劣悪な条件の中で謙三はの診療に貢献する貴重な発見と研究をした。 現在では、「赤痢」といえば、、それに疫痢を意味するものということで常識になっているが、当時はまだ未解明の部分が多いであった。 謙三は先年のコレラ竹内菌発見の経験から、赤痢菌も病原菌が複数である可能性が強いという考えを抱き、その前提で徹底的に検査した。 その結果、駒込病院の患者から新しい二種類の赤痢菌分離に成功した。 これは多くの点で酷似していたが、患者血清に対する疑集反応やなどでその違いを明確に識別できた。 「」「」と命名した。 同年夏、同病院に入院した赤痢患者49人中、35人について調べたところ、20人から駒込A菌、15人から駒込B菌が分離されたが、はわずかにその中の1人から検出されただけだった。 二木の留学で妻子が預けられた樋口家の庭• 1905年(明治38年)• 4月、謙三はドイツ留学を決意した。 費用は実父の樋口順泰に援助を求めた。 明治政府が漢方を完全に否定しており、順泰は医家樋口家の命脈を保つとすれば、二木家に養子に出したとはいえ、自分の息子に夢を託す以外に手はないと考えもしただろう。 謙三の申し出を快諾した。 ドイツ、のグルーバー教授に就くことが決まった。 謙三に与えられたテーマは「の研究」であった。 具体的には、ウサギやモルモットが脾脱疽菌()に侵されるのに、鶏や馬が侵されることがないのはなぜかを証明することであった。 つまり生物が自然に持っている免疫を明らかにするための研究である。 毎日2時間眠るだけで、2年半でとうとう研究を完成させた。 「次々に新しい事実が分かってきて、面白くて仕方がなかった。 寝食を忘れるほどに楽しかった」と言った。 1906年(明治39年) - グルーバー教授は謙三を助手に任命した。 大学への出入りや研究資材の自由な使用が認められた。 グルーバー教授は、謙三の研究成果に評価を与えた。 「研究は二木一人で成し遂げた」という証明書を添付した上で、その研究論文をグルーバー・二木共著として世界に発表した。 現在なおも医学の基礎的学理としてその評価は変わっていない。 1908年(明治41年) - 謙三は3年間のドイツ留学を終えて帰国した。 イスラエル、エジプトなどに旅行もしている。 「当初、3年という計画で留学した。 ところが2年半でそれを完成したので、残りを旅行に使ったわけです。 」親しい人々に後でこう語っている。 ドイツ留学の記念品は顕微鏡だった。 当時の最高の顕微鏡で、これを戦災で消失するまで愛用した。 神田小川町に一戸を構えた。 5月6日には駒込病院に正式に復職した。 1909年(明治42年)• 4月1日 - 病院の服務規則の改定があり、新たに副院長制が設けられ、謙三がそれに任じられた。 このころ、ドイツでまとめた「理の研究」の論文を提出、学位を申請した。 また、「並びにその作用について」「並びに腹圧増進について」という論文も続けて発表した。 「」の学位を受けたのは、この年10月18日であった。 学位の受領に先立って6月、母校東大の講師に任用された。 それにより、、であるとともに、教育者としての仕事もすることになった。 謙三がドイツ留学から帰った翌年、3度にわたってに謙三の保険法についての講和が掲載されている。 1回目は2月18日から4回掲載で「と」と題したもの。 2度目は10月1日から7回にわたった連載で「」というテーマ。 3回目は11月25日付の単発記事で「牛の」というものである。 内容はいずれも一般人を対象としたに関する話で、具体例を引いて輸すように述べている。 後年「保健学の二木」とも言われるようになるのだが、いわば本業の、研究と並立させる形で保健法の普及や研究を始めたのはこのころからであった。 二木は人形のほかにガラス細工で人体のの模型を作り、赤く染めた液体を流して、腹圧を強めると血液が心臓に還りやすいことを実検的に示したりもした。 東大の講師で、しかもドイツ留学帰りのが、姿で、立派な(ひげ)をひねりながら講演した。 1910年(明治43年)• 駒込病院副院長のまま、母校東大の講師兼務となった。 謙三の講座は、「伝染病学」であった。 講義は腹式呼吸法の普及で、その講演がユニークだったが、教壇にたっても独自性を発揮した。 医学会では「東の二木、西の」といわれていたほど(佐多は大阪血清薬院経営、の学長などを務めた病理学者)。 講義が好評だった。 「細菌学者二木」「保健学の二木」に続いて、「教育者二木」の姿が浮かび上がってくる。 11月16日、二男・順福が誕生した。 秋田市手形字大沢の旧正洞院にある平田篤胤の墓碑(2014年6月10日撮影)• 1911年(明治44年) - 謙三の講演を有志が聴講筆記して出版したという冊子がある。 「秋田中学に進学していた17歳のころ、生家樋口家の書生の中に神官の息子がいた。 この書生が神官の家に伝わるという国学書をよく読んでいた。 その中にの『志都乃石屋(しずのいわや)』があった。 ある時、その一節を偶然に読んで、大きく心を奪われた・・・」これを世に「二木式腹式呼吸法」として発表するまでに約10年の歳月を要している。 ドイツ医学で合理的に説明したい。 二木の勉強が始まった。 そして、留学中に医学的に説明できる方法を見つけた。 二木にとって、このことを説いた国学者平田篤胤は郷里秋田が生んだ先覚である。 1912年(明治45年)• 3月18日 - 二男・順福が死亡した。 享年3歳。 8月19日 - 長女・ミチが誕生した。 1913年(大正2年)• 駒込病院では、伝染病患者が急増一途で、看護婦の需要が高まり、その養成が急務となった。 1904年(明治37年)7月、附属養成所が設置された。 養成所は最初一ヶ月程度の短期間だったが、1913年(大正2年)からは、3年間の修行として、かなり高度な看護技術を教えている。 謙三はこの養成所とは別に当時、神田小川町にあった私立の東京看護婦学校で教え、1923年(大正12年)6月からは校長を務めている。 11月4日 - 三男・順好が誕生した。 1914年(大正3年)12月 - 北里柴三郎が所長の伝染病研究所が、東大の附属機関となった。 同研究所は、北里柴三郎がドイツ留学から帰国して活躍の場を持たないでいた時、福沢諭吉の尽力で設立された。 (明治25年)のことで、「大日本私立衛生会附属研究所」としてスタートした。 その後、1899年(明治32年)、国に全部を寄付、内務省管轄の「国立伝染病研究所」となっていた。 やの製造などもしていたが、伝染病専門の研究機関としては日本唯一の存在。 二木は伝染病研究所技師の辞令を受け、同時に東大助教授となった。 駒込病院へは週に3回、それも午後から勤務するようになった。 謙三はまさしく「水を得た魚」であった。 腹式呼吸法などで、このころから「保健学の二木」と言われたりはしていたが、謙三の表看板は「細菌学者の二木」である。 (大正4年) - 伝染病研究所に赴任した翌年、沖縄で奇病が発生したというので、調査に出向いた。 沖縄に行ってみると、男はコウガンが、女は乳房が腐って落ちるという病気が流行していて、大変な騒ぎだった。 しかし、原因は意外に簡単に判明した。 連鎖球菌の一種、丹毒菌の変形したものが、皮膚に付着して起き、それが皮膚伝染したものであった。 スピロヘータの発見であり、日本脳炎の診断法確立である。 二木謙三の弟の樋口譲助• 1916年(大正5年)4月8日 - 謙三の実父・樋口順泰が死去した。 享年72歳。 二木が伝染病研究所技師となった翌々年で、二木が細菌学者としてその地歩を確実に築き出したころであった。 生母エイは1900年(明治33年)10月5日、東大に入学して3年目の時、で既に世を去っていた。 53歳だった。 父の死によって、生家は兄の三男が家督相続人になるのだが、まだ幼かった。 樋口家は順泰の死によって、医家の看板をおろした。 当主が幼いこともあって、家運が日ごとに衰えていく。 藩政時代は広く名の知られた家であったが、時代の大きな流れには逆らえなかった。 樋口家はやがて二木が買取る形で管理し、1935年(昭和10年)代までは、かつての面影をとどめた。 だが、それも二木が東京で学校経営(の第4代校長 )に乗り出して資金が必要になったためであろうか、人手に渡ってしまう。 今、屋敷跡はほとんどがとなっている。 1917年(大正6年)10月31日 - 二女アツが誕生した。 1918年(大正7年)• 5月3日午前3時頃、謙三は人力車で芝愛宕下を通行中に、後方から来た自動車に追突されて転落し顔面、手足に擦過傷を負った。 この当時、謙三は駒込病院の副院長、伝染病研究所技師兼附属病院長、東大助教授、東大附属病院分院内科科長、東京歯科医学専門学校講師、それに内務省防疫官、医師試験委員も兼務していた。 謙三自身のプライベートな仕事として、腹式呼吸法の普及活動があったし、玄米食についても研究がヤマ場に差し掛かっていたころである。 一日一食、二、三時間の睡眠という超人間的な生活であったというが、それでも寸暇も惜しむ毎日であったろう。 忙しいといえば、このころ、侯爵前田家の主治医も務めていた。 前田家は断るまでもなく旧加賀藩主で、師・織田小覚の縁につながるものだ。 冬 - 謙三の長年の上司、駒込病院院長兼東大教授のが倒れた。 宮本は翌1919年(大正8年)10月に死亡した。 宮本の死因はこの時大流行したインフルエンザ()にやられたものであった。 謙三が宮本から得たものは多く、自らが先頭に立ち宮本の銅像を建立した。 宮本の死亡によって、1月、謙三がそのまま昇格し駒込病院長となった。 『駒込病院百年史』によれば、院長は初代が、宮本は2、4代と2度務め、3代が、謙三が5代目となる。 1920年(大正9年)再び大流行したのである。 院長就任で二木の超過密ぶりは想像して余りある。 院長就任の直前にはの講師になっているし、9年4月からはの講師も引き受けていた。 1920年(大正9年)12月8日 - 三男・順好が死亡した。 享年7歳。 1921年(大正10年)2月 - 母校・東大の教授となった、47歳の時である。 細菌学(伝染病学)を教えた。 当時の日本の細菌学界(伝染病学界)は、を飛び出したが、私立を持って活躍していた。 北里はこの時期既に、東大とは越え難い壁を作っていた。 そして北里に続くのが謙三であった。 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分 - が起こった。 謙三は震災の直後、大急ぎで伝研での処理を済ませると、駒込病院に向かった。 建物にはほとんど被害が無く、患者も職員も無事だった。 当時開院中だったに向かったが、本所病院は類焼した。 その避難の難儀は筆舌に尽くせぬものだったが、医師、看護婦ら職員の献身的な働きで患者を全員避難させた。 本所病院の院長代理だったの報告によると、「赤痢や腸チフスなど180人ほど患者が入院していましたが、そのほとんどは重症で、少しも身動きの取れぬ脳症を起こした者ばかりでした。 私は建物の倒壊を考え、患者をベッドの下へ寝かせるように指示した」。 (大正15年)9月22日 - (1975年3月(昭和50年)にと名称を変えた。 )が設立された。 東大法医学教室で設立総会が開かれ、謙三が初代会長に選出された。 謙三はこの後、1948年(昭和23年)4月の第22回総会で名誉会長となって退くまで、実に22年間にわたり、会長を務めることになる。 また、同学会は臨床研究を重視することにしたため、本部を駒込病院に置いた。 こちらは(昭和45年)まで続いた。 設立に参加したのは2,503人であった。 二木らは「700人集まれば学会として格好がつく」と言っていたというから旗揚げは大成功だった。 会長の二木が総会の座長を務めた。 それは十数年も続いた。 終戦後の混乱の中でも学会を休むことはなかった。 1927年(昭和2年) - 東京市立の五つの病院が次々に新築落成した。 1927年(昭和2年)12月、二木は最初に完成した大久保病院の院長を委嘱された(6年6月まで)。 次いで1931年(昭和6年)1月、本所病院が落成すると、これまた院長委嘱があった(同年10月まで)。 さらに同年4月、駒込病院が完工し、その院長としての仕事も忙しさを増した。 木造の駒込御殿が解体されて、鉄筋コンクリートの新病院となった。 新しい駒込病院は、地下1階、地上3階。 延べ約16,000平方メートル。 暖房完備の近代的な建物。 ベッド数は伝性病500、普通119。 外来は1日300人を捌ける規模だった。 落成式は5月16日の午後行われた。 この年の10月、二木は思わぬ事件で院長を辞任することになる。 世代交代の大きな波であったろう。 この時、二木58歳。 「人生80年」といわれる現在ならともかく、「人間50歳」時代のことである。 1931年(昭和6年)12月 - 長女・ミチは石川県出身の増田定吉と結婚した。 1932年(昭和7年)1月3日 - 長男・長男順益が死亡した。 享年30歳。 1933年(昭和8年)• 3月 - 謙三が60歳になり、東大教授を定年退官した。 当時、伝染病研究所技師、東大附属病院分院内科長も辞めた。 母校東大で初めて教鞭を執ったのは、ドイツ留学から帰国した1909年(明治42年)6月、36歳の時であったから、通算23年9ヶ月間、教壇に立った。 最初に伝染病学の口座を持ったときは講師で後、1914年(大正3年)12月、42歳を目前にして助教授に進んだ。 さらに1921年(大正10年)2月、48歳で教授になった。 この間、謙三自身が若手の細菌学者から、細菌学・伝染病学界のトップになった。 の「二木記念講堂」(2019年3月12日撮影)• 1935年(昭和10年) - 謙三は国内は言うに及ばず海外にまでよく旅をした。 海外には1933年(昭和8年)、1941年(昭和16年)の二度中国大陸へ渡った。 1935年(昭和10年)には台湾にも足を延ばした。 二木は宴会好きで酒は若い時分から強かった。 持参の玄米粉を口に含んで杯を傾けたが、興がのると、一つ覚えの「山で赤いのはアザミの花よ/家で怖いのは兄嫁さまよ…」という歌を大声で歌った。 駒込病院や伝染病研究所の慰安会、忘年会などには、退職後も暇をつくっては参加した。 には、卒寿まで出席し、その宴会では仮装などして楽しんでいる。 1940年(昭和15年)• 2月8日 - 二女・アツが石川県出身の増田友吉と結婚した。 養子となった友吉が二木家を継いだ。 牛込高等女学園(現:)の第4代校長に就任。 1943年(昭和18年)2月24日 - 妻・イヨが死亡した。 享年64歳。 文化勲章授与式、前列中央が二木謙三• 1955年(昭和30年)11月3日 - 謙三はを授与された、82歳の秋の「文化の日」であった。 受章者の決定が前月11日で、その翌日の秋田魁新報朝刊に文部省発表の記事が載り、謙三の略歴が紹介されている。 「二木謙三(医学)秋田市出身、82歳、明治34年東大医科卒、医博、同38年から3年間独ミュンヘン医大に留学、帰国後駒込病院副院長、伝研技師、東大助教授を経て1919年(大正8年)、同病院長、東大教授となり、昭和元年伝染病学会長、同5年日本医大教授、同26年学士院会員に選ばれた。 この間、昭和4年鼠咬症の研究に対し学士院賞を受ける。 伝染病、細菌学の権威。 著書には専門の論文集のほか『腹式呼吸と健康』などがある。 」続いて14日付朝刊には、それを祝う記事が掲載された。 「本県が生んだ日本伝染病、細菌学界の至宝というより、一般人には玄米食や腹式呼吸などの健康法で有名な二木謙三博士 82 が晴の本年度文化勲章受章者に内定して百万県民を喜ばせている。 (後略)」謙三が最年長で、皇居での親授式では、慣例によって、受章者を代表して天皇陛下に謝辞を述べた。 記念撮影でも3人ずつ前後2列に並んだその中で前列中央に座った。 皇室崇拝者でもあった二木にとって、一世一代の晴れがましい一日であった。 1966年(昭和41年) - 「私は百歳まで生きてみせます。 玄米菜食を通せば、人間は百歳まで生きられるものです」謙三はしばしばこう述べていた。 しかし、90歳を越してみると、周囲の人がみても、はっきりと体力が衰えていくのが分かるようになった。 それまで決して欠席したことがない伝染病学会総会にも、1963年(昭和38年)からは姿を見せなくなった。 1965年(昭和40年)、92歳で長を辞任した後は、決まった仕事もなくなり、自宅内で過ごす時間が増えた。 こうして1966年(昭和41年)3月25日、無病を誇っていた二木が、ついにを引いてしまった。 家族や弟子たちがになるのを懸念、入院させた。 入院先は、かつての伝染病研究所附属病院から名前を変えていたである。 謙三自身が初代院長を務めた病院のベットで、弟子たちの治療を受けた。 診察の結果、が認められた。 天寿は刻々と迫っていた。 4月8日、が不能となる。 23日になると、食事もほとんど食べなくなった。 そして、27日、飲み物を口にした際にむせて何回も吐いた。 これを境に容態が急変した。 この日、午前6時30分、二木はついに不帰の人となった。 行年93歳。 従三位が追贈された。 家族・親族 [ ]• 祖父 : 樋口玄碩(不詳 - 不詳)、旧正洞院• 祖母 : 不詳、旧正洞院• 父 : 樋口順泰(1843 - 1916)、墓所 : 秋田県秋田市 旧正洞院• 母 : エイ(石川家 1844 - 1900)、旧正洞院• 兄(長男) : 樋口泰蔵(1872 - 不詳)、旧正洞院、妻ヨシ(石川家 1874 - 不詳)、旧正洞院• 姉(長女) : ナヲ(1873 - 不詳)、夫三宅小太郎(不詳 - 不詳)• 本人(二男) : 二木謙三(樋口家 1873 - 1966)、行年94歳、墓所 : 東京都あきる野市菅生 西多摩霊園、妻イヨ(遠山家 1880 - 1943)、西多摩霊園• 妹(二女) : タカ(1875 - 不詳)、夫寺内虎之助(不詳 - 不詳)• 弟(三男) : 樋口譲助(1877 - 1923)、行年46歳、旧正洞院、妻チ子(岡田家 1892 - 1946)、旧正洞院• 妹(三女) : サイ(1880 - 不詳)、夫那須太三郎(不詳 - 不詳)• 弟(四男) : 樋口良助(1881 - 1892)、行年18歳、旧正洞院、妻不詳、旧正洞院• 長男 : 二木順益(1896 - 1932)、行年30歳、西多摩霊園• 二男 : 二木順福(1910 - 1912)、行年3歳、西多摩霊園• 長女 : ミチ(1912 - 不詳)、夫増田定吉• 三男 : 二木順好(1914 - 1920)、行年7歳、西多摩霊園• 二女 : 二木アツ(1917 - 2003)、行年85歳、西多摩霊園、夫友吉(不詳 - 2009)、行年92歳、西多摩霊園 系譜 [ ] 西多摩霊園にある二木謙三と家族の墓碑(2014年5月19日撮影)• 生家の樋口家は代々医家。 秋田藩主佐竹侯の御典医を務めた家柄。 父順泰は江戸のに学んだ漢方医。 浅田塾では塾頭になったという秀才。 秋田藩の医学館七部書会頭も務めた。 維新後は町医者として生計を立てていたが、貧しい患者には薬といっしょに食物も与えたという話が残されている。 謙三は二男に生まれたことから、二木家へ養子に出された。 これは運命的に決まっていた。 二木家は土崎港にあったが、樋口家とは跡継ぎがないとき、互いに養子を出す特別の親類だった。 二木家も代々医師だったというが、詳細を伝える記録は見つからない。 わずかに、江戸時代の終わりごろ、甲州から移って北前船で来たと、かつての菩提寺・(土崎港)の古い過去帳が伝えていたという。 樋口家代々の菩提寺は(秋田県秋田市手形字大沢)だったが、明治に入り廃寺となりその檀徒のほとんどは(秋田県秋田市泉三嶽根10-1)に移された。 樋口家の菩提寺も天徳寺となり、樋口順泰の葬儀はこの天徳寺で執行された。 順泰と妻エイの墓碑は旧正洞院の墓地の(ひらたあつたね)の横にある。 順泰の法名「性智院順屋良泰居士」行年72歳、エイの法名「性徳妙湿大姉」行年55歳。 順泰とエイの三男譲助・法名「光徳院智観良譲居士」と妻チ子・法名「智徳院光雲慧明大姉」の墓碑も此処にある。 (東京都あきる野市菅生716)の墓地(第9区)には、二木謙三・従三位勲一等文化勲章・法名「積徳院殿仁翁明謙大居士」行年94歳、妻イヨ・法名「観光院慈室妙音大姉」行年64歳、長男順益・法名「正順院益道真孝居士」行年30歳、二男順福・法名「貞順善童子」行年3歳、三男順好・法名「順道善童子」行年7歳、二女アツ・法名「修徳院清訓貞厚大姉」行年85歳、アツの夫友吉・法名「高徳院修学道友居士あざ」行年92歳の墓碑がある。 健康法 [ ] 二木はの藩医、樋口家の出身で、元の姓は樋口であった。 8人兄弟の3番目に生まれた。 3歳の頃、同じ秋田藩の藩医、二木家に養子縁組して、二木姓を名乗る。 生まれた時には1年ももたないといわれる程の虚弱であった。 20歳まで心身ともに数多くの病気に悩まされたが、のときに検査官から虚弱な病身を指摘され、軍隊の黒い麦飯を食えと一喝され、その翌日から麦飯食を始めた。 これにより、虚弱な病身から解放された。 このように二木は、藩医の家の生まれであること、そして、また、自らの深刻な病弱を日本の伝統的な食養生により救われたという原体験により西洋医学の道に進路をとり、そして、それと矛盾することなく東洋的な健康法の普及活動に志向した。 食事法としてはによる、家はは用いず、動物は少なくし、二分間煮で食べることを提唱していた。 二木自身は48歳より、1日1食、玄米、塩なし、油なし、火食なし、動物不要の食事となった。 の創始者である塩谷信男は二木の健康法を実践して病弱体質を克服した。 二木は晩年も元気に活動し、亡くなる前には全国の弟子たちをで呼び集め、全員が揃ったところで「それじゃあ、君たち、最後の息をするから、さようなら」と言って世を去ったという。 食事 [ ] 完全食 基本的には死んだものでなく生きた新鮮なものを、動物よりは植物を摂取することを推奨。 中でも玄米は完全食であるという。 二分間煮 野菜を煮て食するに際しては、調理過程として、煮始めて沸騰し始めるが、沸騰時間は2分間として即加熱を停止し、蓋をしたまま5分~10分程してから食することをいう。 二分間煮とは沸騰二分間ということである。 適応食 年齢、性別、職業、季節、地勢などに応じて適切な食べ物を選択すべきであると説く。 乳児 母乳、果汁、おかゆ• 1~6歳 玄米、野菜、豆、芋• 7~15-6歳 上記植物類に加えてえび、あさり等の小動物• 15-6歳から上は男女が分かれてくる• 男性 肉体労働を行う男性は食物欠乏のときは肉をとってもよい• 女性 大きな動物は食べないほうがよい• 40~60歳(初老)男性でも大きな動物を食べるのはやめ、15歳以前の子供と同じく野菜類と小動物にする• 60~80歳(中老)5歳以前の子供と同じく穀菜食にする• 80~(大老)ものをよく噛んで汁だけをしゃぶって食べる 二木式腹式呼吸法 [ ] 胸と腹が一緒に出て一緒に引っ込んでゆく胸腹式を推奨。 肺の呼吸面をまんべんなく広くし、肺全体が自由に呼吸することになる。 息を吸うときは腹が膨れるように硬くなるように吸い、あまりいきまないように少しとらえてから静かに吐き出す。 胸の方から先に空気を出し、次に上腹にある空気が胸を通って外へ出るように、下腹には少し空気が残るように出す。 逸話 [ ]• 父・樋口順泰は「倹蔵」と命名したが、いつのことか戸籍係が「謙三」と誤記、それがそのままになったーと、後年、本人が語っている。 当時の戸籍事務では、いかにもありそうな話だが、証明するものは残っていない。 二木家に養子縁組されてまもなく、母親のところへ帰りたいがために、魚屋の行商の後へついて10キロ以上に及ぶ道を一人で歩くという、小さい頃から非常に強固な意志の持ち主だったことを物語るエピソードがある。 小学校時代は小柄で、まれにみる虚弱であった。 年中、体のどこかに湿疹が出ていた。 それがもとで、しばしばを起こし、体がむくんだ。 胃腸も弱く、いつも青白い顔をしていた。 おまけに痔も病んで、動作に子供独特の機敏さがなかった。 二木の四つ下だった深味貞治((昭和31年)77歳没、秋田市の医師で狂歌人)は、秋田魁新報で述べている。 「私が入学した時、二木さんは5年生だったが、ストライキ騒動が起こって事が大きくなろうとした時、生徒を集めて師弟の道を説く大演説を行い、ついにストをやめさせたことがあった。 その時壇上でじゅんじゅんと新思想にかぶれた過激派たちを説得する二木さんの姿を見て、私は子供ながら偉い人だな、と思った。 (昭和30年10月14日付朝刊)。 尋常中学学校を出て、仙台の高等中学校に進むのだが、それまでの間に、二木の人生にとって特筆すべき一つの事件が起こった。 それは徴兵検査不合格事件である。 二木によって最大の屈辱であったが、同時に虚弱体質に決別する一大転換ともなったのである。 田舎の中学校を卒業して、仙台の高等学校に入ったところが、なかなか学科の程度が遅れて追いつかない。 そうであるからどうか一つ勉強して追いついてやりましょうと、大勉強を始めたところが、試験前になってすっかり脳神経衰弱にかかってしまって、試験場へ入っても、頭がぼんやりして何も分からない・・。 (自著『腹式呼吸と健康』研文書院刊)。 という状態だった。 高等中学校入学の最初の試験は60点以上が図画と体操だけの二教科という悲惨な成績であった。 二木は山口高校の余科に編入と決まった時期、生母エイがで倒れた。 二木は山口行きを断念しようかどうしようかと迷っていたとゆう。 迷いながら町を歩いていると、一つの看板が目に入った。 「易学の大家、東京から来る」とあった。 吸い込まれるように門をくぐった。 悩みを述べると「大丈夫。 お母さんは、あなたが学校を終えるまで大丈夫」と自信いっぱいに言う。 このひと言で、迷いがふっ切れた。 実際、母の死はこの6年後のことである。 晩年、二木は易学について勉強するが、それはこの時の体験に基づくものだという。 二木が書生として入った先は山口高校の教頭・北条家であった。 いつの事か不明。 北条家の女中が井戸に落ちて大騒ぎとなった。 二木は邸内にいた婦人たちから次々と帯を借り、それをロープ代わりに、自分の体を縛って井戸の中に入った。 ぐったりした女中を抱きかかえて、引き上げさせた。 人工呼吸をし、水を吐かせた。 女中は九死に一生を得た。 二木は泳げなかった。 山口生活最後の年の春のことらしい。 全校生百四十余人が、学校から約40キロの所へ旅行した。 体が元来弱かったことは先述したが、大学進学後、本人が「俺は一切ものを忘れてしまった。 分らないと言ったら分らない。 何も分らなくなってしまった。 」と語るほど、文字も読めなくなってしまうようなひどいを患ったが、持ち前の根性で回復。 その経験が、ドイツ留学以降の偉業を生む下地となっている。 元々謙虚な性格で、新型病原菌を発見しても、自分の名前を使用することは一切考えなかった。 コレラ竹内菌という名前も患者の名前を使用し、駒込A菌・B菌も実験道具で有名なも勤めていた駒込病院から取ったものである。 についても造詣が深く、や祝詞の講義を行ったり明治期の神道家・(かわつら ぼんじ)の確立した行法に基づき禊の練成会を行っていた。 往路は銃、背のうを担いで歩いた。 復路は船が予定されていた。 だが、目的地に着いてみると、乗るはずの大型船が故障、小型船に切り替えとなった。 50人があぶれる。 屈強な生徒が選抜されて走って帰校することになった。 小柄な二木は選に漏れたが、志願してマラソン帰校組に加えてもらった。 一人抜き、二人越す。 学校に帰り着くと、「君が一着だ」二木は楽しげにこのときを述懐している。 60代のとき、皇武館(本部道場の前身)に入門し開祖に師事した。 早朝に道場を訪れ、寝ている内弟子を叩き起こしては投げ飛ばし、すぐに帰っていくのが常だったという。 また上記の練成会の参加者にも合気道を紹介しており、その一人であるはのちに植芝の弟子になった。 文化勲章の親授式を終えて皇居から退出して来た二木は、友吉ら家族に「陛下が『二木はまだ頑張ってやっているの』とお尋ねくださったので『ハイ、ますます張り切ってやっております』とお答えしたよ」と得意そうに報告している。 「事実は小説より奇なりと申しまして・・」ー高橋圭三アナウンサーが司会の「私の秘密」というNHKテレビ番組があった。 二木が文化勲章受章直後、これに出題者として出た。 首に下げた文化勲章をコートで隠して登場したが、名前を言った途端にに正解を出された。 二木はうれしそうであった。 二木の没後、その徳をしのんで出版された『二木謙三先生を追慕して』((昭和44年)二木謙三先生記念会刊)に次のような一文が寄せられている。 「・・伝染病を究明し、撲滅の基礎を作られたのは外ならぬ二木先生である。 ・・しかるに二木先生は白眼視されていて、不遇の境地におられた・・たんたんと学問に取り組み、かつ玄米食の効能を力説実行されていた。 ・・二木先生は学者としてはある意味において変人として冷遇され、当然授与されるべき文化勲章も何かしらその俎上に、なかなかのぼらなかった。 遅きに失した・・。 (二木が駒込病院の院長当時、外科医長だった本間五郎)• 娘のアツは「父は『謙そんの謙という字を名前にもらっているから、謙虚にしていないといけないんだ。 頭を出すとたたかれる』とよく言っていました。 玄米食の提唱でも、随分たたかれたそうです」という。 著書 [ ]• 『』 、1910年(明治43年)2月。 二木謙三 「二木博士腹式呼吸の話」『』 春秋社編輯局編、、1911年(明治44年)2月。 『』 文星堂「体力養成叢書-第2編」1911年(明治44年)7月。 二木謙三 「黒住宗忠の肺病全快談」『』吉川栄監、1911年(明治44年)8月。 『コレラ予防注射講話』 国家医学会、1916年(大正5年)。 『食物と健康』 修養団出版部、1921年(大正10年)8月。 『』任天居、1929年(昭和4年)。 『完全営養と玄米食』 1932年(昭和7年)。 『古史読本:全』 1932年(昭和7年)2月。 『二木博士論文集』高木逸麿、1933年(昭和8年)9月。 『完全にして正しき食物』 大日本養正会「大日本養正会叢書1」1932年(昭和7年)10月。 『なぜ玄米でなければならぬか:栄養上経済上より見たる玄米白米等の比較優劣図表並に其の解説』大日本養正会「大日本養正会叢書2」1934年(昭和9年)4月。 『腹式呼吸と健康』 大日本養正会「大日本養正会叢書3」1936年(昭和11年)12月。 『栄養の適応と体質改善』 大日本養正会「大日本養正会叢書4」1937年(昭和12年)9月。 『米食の実際』 大日本養正会「大日本養正会叢書5」1941年(昭和16年)。 『国家経済と国民栄養図表解説』 大日本養正会「大日本養正会叢書6」1940年(昭和15年)12月。 『古事記神代篇の正しき解釈』 大日本養正会「大日本養正会特輯1」1938年(昭和13年)7月。 『二木博士講話集』大日本養正会「大日本養正会特輯2」1939年(昭和14年)。 『日本人種の起原新説・大和言葉の特性:日本人種日本国土生え抜論』大日本養正会「大日本養正会特輯3」1939年(昭和14年)6月。 『健康への道:完全の医学』 新紀元社、1942年(昭和17年)9月。 『栄養の効率化』 大日本養正会。 『目先の健康と本当の健康』前島会、1957年(昭和32年)。 『健康への道』致知出版社、2003年(平成15年)2月。。 (新紀元社からの初版は1942年(昭和17年))。 脚注 [ ] []• 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月10日、夕刊7頁<5>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月12日、夕刊7頁<6>。 2013年10月30日閲覧• 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月21日、夕刊7頁<10>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月26日、夕刊7頁<11><12>。 2013年10月30日閲覧• 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月10日、夕刊7頁<17>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月12日、夕刊7頁<18>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月15日、夕刊7頁<19>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月19日、夕刊7頁<21>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月24日、夕刊7頁<22>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月26日、夕刊7頁<23>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月17日、夕刊7頁<20>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月7日、夕刊7頁<25>。 2013年10月30日閲覧• 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月16日、夕刊7頁<28>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、(昭和62年)1月19日、夕刊7頁<29>。 2013年10月30日閲覧• 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月26日、夕刊7頁<32>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月9日、夕刊7頁<38>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月28日、夕刊7頁<33>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月30日、夕刊7頁<57>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月16日、夕刊7頁<40>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月18日、夕刊7頁<41>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月23日、夕刊7頁<43>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月25日、夕刊7頁<44>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月27日、夕刊7頁<45>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月4日、夕刊7頁<47>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月6~11日、夕刊7頁<48><49><50>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月13~16日、夕刊7頁<51><52>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月20~23日、夕刊7頁<54><55>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)4月8日、夕刊7頁<61>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)4月13日、夕刊7頁<63>。 2013年10月30日閲覧• 『秋晴れ 文化の日 文化勲章授与式』「天皇陛下から励ましのお言葉」、前列左から平沼享三、二木謙三、大谷竹次郎、後列左から増本量、前田青邨、和辻哲郎、毎日新聞、1995年11月3日。 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)10月29日、夕刊7頁<1>。 2013年10月30日閲覧• 『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)4月27日、夕刊7頁<69>。 2013年10月30日閲覧• 『新食養』1号(通巻95号)、5頁。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 先代: 団長 第3代:1946年 - 1964年 次代:.

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二木紘三

〈ア〉 (作詞:関口義明、作曲:荒井英一、唄:井沢八郎) (作詞:横井弘、作曲:中野忠晴、唄:三橋美智也) (作詞:西沢爽、作曲:遠藤実、唄:舟木一夫) (作詞:星野貞志、作曲:古賀政男、唄:美ち奴) (作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、唄:渡辺はま子・宇都美清) (作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:初代コロムビア・ローズ) (作詞:西沢爽、作曲:船村徹、唄:島倉千代子) (作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、唄:山田真二) (作詞:横井弘、作曲:鎌多俊与、唄:三橋美智也) (作詞:沢ちひろ、作曲:財津和夫、唄:沢田知可子) (作詞:石本美由起、作曲:上原げんと、唄:島倉千代子) (作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、唄:園まり) (作詞・作曲:平岡精二、唄:旗照夫) (作詞:N. ドブロヌラヴォフ、作曲:A. パフムートワ、唄:M. マゴマエフ、日本語詞:矢沢保) (作詞:原俊雄、作曲:村沢良介、唄:鈴木三重子) (作詞:E・ピアフ、作曲:M・モノー、日本語詞:岩谷時子、唄:越路吹雪) (作詞・作曲・唄:Charles Aznavour、日本語詞:土岐雄一郎) (作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:近江俊郎・奈良光枝) (作詞・作曲:J. シャノン、日本語詞:二木紘三、唄:Bing Crosby他) (作曲:F. Schubert、ドイツ語詞:A. Storck、原詞:W. Scott、日本語詞:堀内敬三) (作詞:西條八十、作曲:服部良一、唄:藤山一郎・奈良光枝) (作詞:T. Brosnan、作曲:H. 、日本語詞:不明) (作詞:星間船一、作曲・唄:さとう宗幸) (作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵) (アメリカ民謡、訳詞:不詳) (作詞:野口雨情、作曲:本居長世) (作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:奈良光枝) (ロシア民謡、作曲:A. ワルラーモフ、日本語詞:津川主一) (作詞:萩原四朗、作曲:上原賢六、唄:石原裕次郎) (作詞:横井弘、作曲:中野忠晴、唄:三橋美智也) (作詞:大倉芳郎、作曲:江口夜詩、唄:春日八郎) (作詞・作曲:鈴木道明、唄:西田佐知子) (作詞:水木かおる、作曲:藤原秀行、唄:西田佐知子) (作詞:藤島信人、作曲:金子三雄、唄:岩瀬寛・上高田少年合唱団) (作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正、唄:鶴田浩二) (作詞:三木露風、作曲:山田耕筰) (作詞:吉田旺、作曲:船村徹、唄:ちあきなおみ) (作詞・作曲:ジョニー・マークス、日本語詞:新田宣夫) (作詞:丘灯至夫、作曲:古関裕而、唄:岡本敦郎) (作詞:細野敦子、作曲:江波戸憲和、唄:本田路津子) (作詞:西沢爽、作編曲:遠藤実、唄:小林旭) (作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩、唄:岡晴夫) (作詞:森まさる、作曲:橋本国彦) (アメリカ民謡、日本語詞:浅川マキ、唄:ジ・アニマルズ他) (作詞:横井弘、作曲:八洲秀章、唄:伊藤久男) (作詞・作曲:P. スピルマン、日本語詞:龍田和夫) (作詞:W. Schubert、日本語詞:大木惇夫) (作詞:吉岡治、作曲:弦哲也、唄:石川さゆり) (作曲:M. キュス、作詞:不詳、補詞:K. ワシレフ・S. ポポフ、日本語詞:合唱団白樺) (旧制一高寮歌、作詞:塩田環、作曲:永井建子) (作詞:北原白秋、作曲:弘田龍太郎) (La Pioggia)(作詞・作曲:C. Conti、M. Panzeri、D. Pace、G. Argenio、日本語詞:柴野未知、唄:G. Cinquetti) (作詞:千家和也、作曲:浜圭介、唄:三善英史) (作詞:高橋掬太郎、作曲:池田不二男、唄:関種子/井上ひろし) (作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:渡辺はま子) (作詞:野川香文、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子) (作詞:野口雨情、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子) (作詞:東条寿三郎、作曲:吉田矢健治、唄:春日八郎) (作詞:山口洋子、作曲:平尾昌晃、唄:山川豊) (フランス民謡/讃美歌、日本語詞:由木康) (作曲:Fred Fisher、日本語詞:堀内敬三、唄:二村定一・天野喜久代) (作詞:井出隆夫、作曲:福田和禾子) (作詞:P. Giovannini、作曲:R. Rascel、日本語詞:あらかは ひろし・音羽たかし) (朝鮮民謡、日本語詞:不詳) (作詞:島田磬也、作曲:大久保徳二郎、唄:ディック・ミネ) (作詞・作曲:S. Foster、日本語詞:水田詩仙) (作詞者:不詳、曲:アメリカ民謡) (作詞:吉岡治、作曲:小林亜星) (作詞:矢野亮、作曲:佐伯としを、唄:春日八郎) (詩:W. ダグラス、作曲:J. スコット夫人、日本語詞:緒園凉子) 〈イ〉 (作詞・作曲:谷村新司、唄:山口百恵/谷村新司) (作曲:A. ドヴォルザーク、作詞:野上彰) 作詞・作曲:黎錦光、日本語詞:佐伯孝夫、唄:李香蘭 (作詞:佐藤順英、作曲・唄:西島三重子) (作詞:増田幸治、補作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、唄:竹山逸郎/中村耕造) (作詞:桂土佐海、作曲:古賀政男、唄:霧島昇) (作詞:高橋掬太郎、作曲:江口浩司、唄:三橋美智也) (作詞・作曲:荒井由実、唄:バンバン) (作詞:まど・みちお、作曲:山本直純) (日本語詞:深田久弥、作曲:西前四郎) (熊本県民謡、採譜・編曲:古関裕而) (ロシア民謡、日本語詞:楽団カチューシャ) (作詞:高橋掬太郎、作曲:細川潤一、唄:三橋美智也) (作詞:松山善三、作曲:佐藤勝、唄:美空ひばり) (アメリカ民謡、作詞・作曲:P. ピリペンコ、作曲:E. ロディギン、日本語詞:関鑑子) (作詞:鈴木比呂志、作曲:八洲秀章、唄:浜達美) (作詞:サトウハチロー、作曲:河村光陽) 〈エ〉 (作詞:加賀大介、作曲:古関裕而、唄:伊藤久男) (アメリカ民謡、日本語詞:小林幹治) (ボスニア民謡、エスペラント訳:磯部晶策) (作詞:西條八十、作曲:万城目正、唄:美空ひばり) (作曲:Leonard Rosenman、日本語詞:芦屋玲) (作詞:大高ひさを、作曲:倉若晴生、唄:菅原都々子) (作詞:大村主計、作曲:豊田義一) (作詞:水木かおる、作曲:藤原秀行、唄:西田佐知子) (作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実、唄:島倉千代子) (作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎、唄:森進一) (作詞:Enrique Santos Discepolo、作曲:Angel Villoldo) (作詞:ドルマトフスキー、作曲:ショスタコーヴィッチ、日本語詞:楽団カチューシャ) 〈オ〉 (作詞:鹿島鳴秋、作曲:弘田龍太郎) (作詞・作曲:不詳、日本語詞:1番ー不詳、2・3番-阪田寛夫) (アメリカ民謡、作詞:不詳、作曲:H. ワーク、日本語詞:保富康午) (作詞:石濱恒夫、作曲:大野正雄、唄:フランク永井) (作詞:吉岡治、作曲:市川昭介、唄:都はるみ) (作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、唄:三浦洸一) (作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章、唄:海原千里・万里) (作詞:猪又良、作曲:長津義司、唄:三波春夫) (スイス民謡、日本語詞:松田稔、補詞:東大音感合唱研究会) (作詞:西條八十、作曲:中山晋平) (作詞:高橋掬太郎、作曲:飯田三郎、唄:若原一郎) (作詞:萩原四朗、作曲:倉若晴生、唄:真木不二夫、台詞:南田洋子) (作詞:西條八十、作曲:服部良一、唄:藤山一郎) (作詞:島田芳文、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎) (作詞:Fritz Rotter、作曲:Ralph Erwin、日本語詞:不明) (作詞:武田鉄矢、作曲:千葉和臣、唄:海援隊) (作詞:東条寿三郎、作曲:細川潤一、唄:三橋美智也) (作 詞:永六輔、作曲:中村八大、唄:デューク・エイセス) (作詞:池田充男、作曲:鶴岡雅義、唄:三条正人〈東京ロマンチカ〉) (作詞:吉川静夫、作曲:吉田正、唄:三浦洸一) (作詞:上山雅輔、作曲:鈴木静一、唄:轟夕起子) (作詞:松村又一、作曲:遠藤 実、唄:藤島桓夫) (作詞:夢虹二、作曲:佐藤長助、唄:岡晴夫) (作詞:P. バルー、作曲:F. レイ、日本語詞:高英男) (作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎) (作詞:星野哲郎、作曲:山本直純、唄:渥美清) (作詞:山崎正、作曲:渡久地政信、唄:春日八郎) (作詞:Alan Jay Lerner、作曲:Frederick Loewe) (作詞:喜志邦三、作曲:渡久地政信、唄:三浦洸一) (作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一) (作詞:岩谷時子、作曲:吉田正、唄:フランク永井) (作詞:中原淳一、作曲:石川皓也、唄:高英男) (作詞:星野哲郎、作曲:古賀政男、唄:島倉千代子) (作詞:増子とし、作曲:本多鉄麿) (作詞・作曲:Curly Putman、唄:Tom Jonesほか) (作詞:D・クロス、作曲:G・コリー、唄:T・ベネット/F・シナトラ他) (作詞 ・唄:E・マシアス、作曲:D・マルフィジ&C・ダルバル&B・バカーラ、日本語詞:水野汀子) (作詞:西沢爽、作曲:遠藤実、唄:島倉千代子) (作詞:松村又一、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子) (作詞:藤浦洸、作曲:万城目正、唄:高峰三枝子) (作詞・作曲:米山正夫、唄:近江俊郎) (作詞・作曲:天野滋、唄:NSP) (作詞:野坂昭如、補作:吉岡治、作曲:越部信義) (作詞:安井かずみ、作曲:浜圭介、唄:千葉紘子) (作詞:石巻宗一郎、作曲:バッキー白片、唄:石原裕次郎) (作詞:石崎正美、作曲:上原賢六、唄:石原裕次郎) (作詞:G. Capurro、作曲:E. Mazzucchi、日本語詞:徳永政太郎) (作詞・作曲:S. フォスター、日本語詞:緒園凉子 他) (作詞:藤間哲郎、作曲:山口俊郎、唄:三橋美智也) (作詞・作曲:鈴木道明、唄:西田佐知子) (作詞・作曲:木下忠司) (作詞:石坂まさを、作曲:猪俣公章、唄:藤圭子) (作詞:星野哲郎、作曲:船村徹、唄:大下八郎) (作詞:永六輔、作曲:いずみたく、唄:デューク・エイセス) (作詞:K. Herrosee、作曲:Beethoven、日本語詞:堀内敬三).

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朝礼の話材280例 / 二木 紘三【著】

二木紘三

たとえばお風呂に入っているとき、ふと、子供のむーかしにふたりーしてと、なつかしいメロディのワンフレーズが浮かんだとする。 あれはたしか島倉千代子の歌謡曲だったよなと、そこまではいいけど、どうしても歌詞の全部が思い出せないとする。 そうなると気になって安眠もできないし、食事もそぞろという具合になってしまう。 冗談ではなしに、わたしみたいにチ的な生活をしていると、そういうことはよくあるのである。 そういうとき便利なのはインターネットで、歌手の名前や歌詞の一部がわかれば、歌詞の全体を調べることもむずかしくない。 二木紘三という人がいる。 もの書きをなりわいとしている人らしいが、詳しいことはこの人のブログを。 二木さんのブログは 「二木紘三のうた物語」 といって、早いはなしが、パソコン上のジュークボックスである。 歌謡曲からなつメロ、フォーク、外国のポピュラー、童謡唱歌など、いろんな音楽がMP3形式で聴ける。 曲のすべてに、歌詞の全文と、二木さんのコメントがついているので、音楽を聴きながら曲についての知識や話題もふえてしまう。 このブログによると、上記の歌謡曲は島倉千代子の 「逢いたいなァあの人に」 という歌だった。 わたしにわからないのは、これだけの曲をネットに上げたら、著作権の使用料がバカにならないだろうということ。 演奏自体は本人かだれか、身内の人にまかせてタダだとしても、である。 曲を演奏するだけではなく、歌詞を勝手に引用するだけでも著作権にひっかかるのだ。 そのへんがよくわからないが、それでも好きな音楽を聴いたり調べたりできるのは、わたしみたいにチ的かつコウショウな生活をしている者にはありがたいことである。

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